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第141話
141.
僕と先生は東京のど真ん中、江戸城跡の真下に伸びる地下廊下をてくてくと歩いていた。
まさか、二度もここにくる事になるとは思っておらず、僕は現地に着くなり緊張して体を強張らせていた。
お盆前ということだけあって、連休を取った人で電車の中はごった返していた。
ここに来る迄に、前回よりも人に揉みくちゃにされながらの移動だったので、僕はより疲れが滲んでいた。
横を歩いている先生をふと見上げると、あの日と同じように凛々しい顔をして、背筋を伸ばし堂々と歩いている姿が映った。
あんなに揉みくちゃにされて、先生も疲れている筈なのに、何食わぬ顔で歩いてゆく先生は、とてもカッコいい、と、思ってしまった。
そして僕は、一瞬先生に見惚れていたことを自分で自覚してしまい、気付かれる前にふっと顔をそらす。
それにしても、今日は前回と違って、廊下もかなり賑やかだった。
もう何人とすれ違ったか解らない。
それぞれに枝分かれを繰り返しながら、何処か奥の方へと消えてゆく。
きっと、会議堂以外にも沢山の部屋があるんだろうなと、勝手に解釈した。
僕は先生に案内されて、お手洗いに入る。
まだTシャツ姿でいる僕が着替える為だ。
ここは元老院で誰に見られるか解らないのだから、本当は直ぐに着替えるべきだったのだけど、どうも道に迷って遠回りをしてしまったようだった。
けれど、僕は決してその事に触れたりはしない。
寧ろ先生と逸れたら一生出られないと思わせるようなこの巨大迷路を、迷わず辿り着けるほうがおかしいとすら思えるからだ。
先人は何故、こんなにも入り組ませた作りにしてしまったのか。
まぁ、なんとなく有事に備える為かな、とは思うけれど。
僕はぼんやりそんな事を考えながらもテキパキと着替えを済ませ、トイレを後にした。
扉を開けて、先生が待っているであろう廊下を向こうまで見渡すと、先生と、直ぐ側にもう一人、誰かが立っていた。
何やら先生と話し込んでいる。
僕はそっと、話が終わるのを待とうと、遠くからそれを眺めていた。
けれど、相手が僕を見つけ、向こうから手を振ってきた。
僕は慌ててお辞儀をすると、通行人の邪魔にならないように避けながらそちらに向かった。
至近距離まで近くによると、挨拶をする。
「こんにちは。じゃない、こんばんは。」
僕はうっかり、挨拶を間違えてしまい、慌てて言い直して、目の前の人にお辞儀した。
やばい、本当にうっかりしてた。
こちらの世界では常に挨拶は『こんばんは』なのだ。
すっかり忘れていた。
よりにもよって、先生の前で、先生の知り合いの人に対して大失態だ。
僕の体が熱くなるのを感じ、顔を上げることが出来なくなった。
「ははは、そんなに固くならないで。この子が君のお弟子さんかい?なかなか見込みがありそうで可愛い人じゃないか。」
気さくな声が僕の頭上から聞こえてきた。
僕は恐る恐る頭を上げる。
遠目からではよく解らなかったけれど、僕の目の前には袴姿の、けれどカンカン帽子を被った、何処かハイカラという形容動詞の似合う人物が、ニコニコとこちらを見ていた。
太宰先生が、僕らを代わる代わる紹介してくれる。
「王子、こちらは芥川柳矢先生。昔、俺が無茶苦茶お世話になった方だ。先生、こちらは森王子くんです。先程お話しました、血の盟約を交わした僕の片割れです。」
「あ、あの、宜しくお願いします。」
僕は再び頭を深く下げる。
初めて聞く名前に、僕は緊張していた。
「こちらこそ宜しくね。夏彦と仲良くしてくれてる様で、安心したよ。これからも夏彦のこと、宜しく頼むよ。」
「えっ、は、はい。」
「先生、辞めて下さいよ。それじゃ、まるで僕が世話してもらってるみたいじゃないですか。」
「事実そうなんだろう?君も隅に置けない様になったものだ。ははは。」
カラカラと笑うこの男性は、良く見なくとも、とても美しい顔立ちをしていた。
そう、かっこいいではない、美しいという言葉が似合う人だと思った。
イケメンとか、そんな軽い言葉で片付いてしまう様な容姿などではまるで無かったのだ。
こんなにジロジロと人の顔を覗き込むのは失礼だと思いつつ、けれど、僕は釘付けになってしまっていた。
アンも綺麗な顔をしていたけれど、この人はまた別格だった。
立ち振る舞いや仕草から、大人の色香というものが感じ取れる。
こんな人が、太宰先生の先生だったのか。
僕は何処か場違いの様な、居心地の悪さを感じた。
二人が並ぶと、とても絵になるな、と思った。
「それでは、芥川先生。僕らは向こうで先に準備しなければならない事がありますので、一度失礼致します。また、会議でお目にかかると思いますが、本日はどうぞ宜しくお願い致します。」
「こちらこそ、今日の会議は期待しているよ。頑張ってね。」
「有難うございます。では、失礼致します。」
「王子くんもまた、後でね。」
「は、はい。失礼します。」
先生が軽く頭を下げるので、僕も隣で深く頭を下げた。
芥川先生は、カラカラと機嫌よく笑うと、カツカツと下駄を響かせて向こうへ遠ざかって行った。
僕は、音が聞こえなくなるのを確認すると顔を上げる。
それから、先生を振り返った。
先生は相変わらず遠ざかって行く芥川先生を見つめている。
僕がその先生の横顔を見た瞬間、何か直感と言うに相応しいものが瞬時に駆け巡った。
先生の瞳に、尊敬や敬意の念に混じりながら、微かに敬慕や情愛の色を浮かべさせた眼差しを見つけてしまったからだ。
いつも僕に向けられている顔と、それは似ている表情だったから。
だから気付いてしまったんだ。
それを、遠ざかるあの人にも向けていた。
居心地の悪さや、違和感の正体を知ってしまった。
僕だけにしか見せないと思っていた。
だから、気づいた瞬間苦しくなって、ぎゅっと胸が締め付けられた。
僕は何処かで、そういう事もあると、先生は生きている年数が違うのだからいろんな過去があって当たり前だと、なんとなく思ってはいたけれど、いざ現実にそれを突き付けられると、僕の心はなす術を無くしてしまっていた。
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