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第146話
146.
芥川さんが、僕の方にカランと下駄を響かせながら歩いて来ると、手を伸ばされる。
僕は、それに応えて芥川さんの手を握ると、ぐっと力を入れられて、体を引き上げられた。
「あ、有難うございます。」
「うん。すごい音だったものね。怪我はない?」
「はい、大丈夫です。」
「そう、良かった。ところで、こんな所で2人っきりで篭るなんて、うんうん。仲が良いのは良いことだね。夏彦も今日は良くやったな。」
芥川さんは独り合点しながら、太宰先生の座る椅子まで、さらりと身を寄せた。
それから、ぴったりと横に着き、先生の隣に腰を下ろした。
「芥川先生、まだ褒めるのは早いですよ。僕の目的はこれからですから。」
先生が嬉しそうな、照れ臭そうな表情を向けながら話している。
「謙遜は良くないな。先ずは、今日の成功を素直に祝おうね。」
「はい。」
僕は、彼らの様子をじっと、その場で見守る。
先生は芥川さんに何の躊躇いも無く、あの表情を向けていた。
先生の安心して信頼しきっている表情が愛おしい。
幸せそうな先生を見れて、僕まで気持ちがほっこりしてくる。
でもそこに、僕の居場所は見つけられそうに無かった。
朗らかに柔らかく微笑む姿は、嬉しくて、けれど僕に向けられている訳では無い視線が寂しくて、複雑だった。
僕は胸が騒がしくなるのに気付いて、やっと視線を外した。
「王子君は血の盟約についての勉強をしてるんだって?」
先生と会話を弾ませていた芥川さんが、急に僕に話題を振って来た。
僕はその場に留まったまま、騒ぐ気持を隠そうとして曖昧に会釈しながらそれに答える。
「はい、自分の事なので、もっと色々詳しく調べておきたいと思ったんです。」
「そう、勉強熱心なのはいい事だよ。そうだ、もう7番の棚は調べてみたのかな?」
「いえ、まだです。」
「そうか、あそこは見落とし易いからね。良ければ僕も一緒に探そう。さぁ、おいで。」
「えっ、はい。」
僕の確認を取る前にカランラと歩き出す芥川さんに、僕は慌てて後に続いた。
人1人がやっと通れる狭い隙間を縫うように、背中を追いかける。
先生は、僕が先ほど持って来た資料をペラリと捲っている。
僕は芥川さんの隣にようやく並ぶと、目の前の棚から資料をかき分けてゆく。
「この辺と、ココ、この辺りだったと思うんだけど、ほら、王子くん。」
僕が芥川さんのスラリと伸びた腕が棚を左右に移動しているのを見ていると、手を掴まれて引き寄せられた。
慌てて転ばないように身を屈める。
それから、僕は向こうを確認する。
良かった。先生からは僕は見えない位置にいる。
何故か芥川さんと2人、近い距離にいる僕等を先生に見られたくないと思い罪悪感が押し寄せた。
何もやましい事なんてしていないのに、先生から隠れようとしてしまうのは何故なんだろう。
「夏彦のこと、気にしてる?」
「えっ。」
「しーっ。」
唇に人差し指をかざされて、僕は口籠もった。
今の状況ってどういうことなんだろう?
僕もそうだけど、芥川さんまで先生からコソコソ隠れるようにしてるなんて。
「そんな警戒しないで。ちょっと話したかっただけだよ。」
ヒソヒソと直ぐそこで話しかけられて、僕は芥川さんをじっと見つめた。
先生のとはまた違う、落ち着いた澄んだ声。
「あの・・・。」
僕が言いかけると、芥川さんは僕の言葉を遮って、続けた。
「落ち着いて聞いて欲しいんだけど、君は夏彦の事が好きかい?」
「えっ。」
再び僕は唇に人差し指をかざされる。
好きだよ。大好きだよ。
言ってしまいたいけれど、この質問に素直に答えて良いのか迷った。
だって、僕の気持ちは先生以外の他の誰にも知られてはいけない筈のものだから。
一瞬悩んでいると、僕は書類の棚を背にして、芥川さんの長着の袖の中にすっぽりと覆われた。
「ほら、夏彦の前だとなかなか話がし難いじゃない。今日じゃなくても、また今度、話を聞かせてくれないかな。ね。これ、番号だから、後で君のも教えてね。」
芥川さんはそう言うと、小さく折りたたまれた紙を僕に渡してきた。
「ずっと、夏彦の事は気掛かりだった。夏彦は僕の事を先生と慕ってくれるけれど、僕では力になれない部分があった。ずっと、ずっと心配だったんだ。でも、君が夏彦の前に現れてくれて、心から良かったと、そう思っている。これからも夏彦の事お願いしたいけれど、いいかな。」
僕は黙ってその場で頷く。
すると芥川さんは、柔らかく僕に微笑んだ。
やっぱり、美しい人だ。
あまりに真剣な眼差しで見詰められて、先生は本当にこの人の信頼を得てるのだと、また、この人は先生を大切に想っているのだと、改めて感じた。
「有難う。僕に出来ないからと、君に重荷を押し付けるような事を言ってしまいすまないね。でも、君が応えてくれて本当に良かった。礼を言わせて欲しい。」
そう言うと、芥川さんは目頭を押さえた。
そんなに、先生の事を心配していたんだ。
きっとずっと、先生の事を心配していたんだと思った。
一体、そこにはどんな想いがあって僕に託そうとしたのだろう。
僕はただ、目の前のこの人に信頼して貰えて、頼って貰えた事を嬉しく感じた。
「さ、資料を持ったら夏彦のところに戻ろう。あまり此処で長話すると、怪しまれるから。そういう所ばっかり鋭いんだもん。」
芥川さんは鼻を微かに染めながら、満面の笑みで僕に微笑んでくれる。
こんなに先生の事を心配しているなんて、芥川さんにとっても先生はとても大切な人なんだと思った。
そんな人に信頼して貰えるのだから、こんな僕でも力になれる事をきっと見つけたい。
僕にできる事で、芥川さんに安心して貰いたい。
ほんの僅かな間、話をしただけだったけれど、芥川さんの気持ちが溢れてくるのが目に見えるようだった。
「はい。」
僕は短く返事をすると、芥川さんは微笑んだ。
それから、何事もなかったかのように颯爽と先生の座る椅子へと芥川さんが向かうので、僕もその背中を追いかけた。
それにしても、あの質問。
僕が先生の事を好きだと言う事を、芥川さんは解った上で聞いてきていたのか気になった。
どう答えて良いのか解らず凄く緊張した。
今後、その事で元老院で何事も起こりませんように。
きっと芥川さんなら大丈夫だって信じたい。
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