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第166話

166. 「ではどういう事なのか。説明したまえ。」 夏目老中が訝しげに先生を見つめている。 説明を求めるその人からはいつもの笑顔は失われ、鋭い眼光を飛ばしていた。 「あの日、立て篭もり事件なんて起きていません。そう、そもそも、事件は起きていないのです。事件そのものが私のでっち上げだったのです。」 「なんだと?!どういう事だね。」  夏目老中が吠えた。  僕はもう、身動きすら取れなかった。  自分の置かれた立場が、確実に不利な状況に置かれた事が解った。  まさか、先生がここで暴露するとは思わなかった。  あの日、夏目老中との話し合いは上手くいっていた。  そして今日、夏目老中は多少なりとも僕らを気遣って、必要以上の事は内密にしてくれていた。  そう、アンが奴隷だということだ。  それなのに、今ここで事件そのものがでっち上げだという秘密を暴露するなんて、一体何を考えているんだ。  老中を引き摺り下ろされ、唯一の証人の僕の証言も無効にされてしまったらもう手立ては無い。  なのに目の前の先生は平然としていて、事も無げに続けた。 「つまり、簡単に申し上げますと、私は彼女を匿っておりました。そうです。立て篭もり事件をでっち上げる前から、私は彼女・・・坂口と共同生活を送っていました。」  もう無理だ。  もう何も言い訳する手立てが無い。  アンを助ける術が無くなった。  僕の心臓だけがドクドクと響いてゆく。  再び、夏目老中の声がシンと静まり返った講堂に木霊する。 「なんだって?!それでは、君は共謀罪で、坂口と共に死刑に処さねばならない!」 「その通りです。本来であれば私は死刑です。しかし、それには理由があるのです。萩原老中、続けても宜しいですか。」 「続けたまえ。」  先生が尋ねると、萩原老中は一言だけ言葉を発した。  僕の胃は、鉛を飲み込んだように冷たく重く苦しい。 「有難うございます。理由は坂口が奴隷だったからです。全ては主人の命令により動いていました。だから私は坂口を匿っていたのです。そうだね?坂口。」 「・・・。」  アンは相変わらず何も答えない。  いや、答えないのか、答えられないのか、それも分からないままだった。 「何も答えないのではねぇ。」  すかさず夏目老中が、アンの反応について言及する。  けれど、それに答えたのはアンではなく、矢張り先生だった。  そして先生は、とんでも無い事を口にした。 「いいえ、答えないのでは無いのです。答えられないのです。坂口は主人の命令によって、喋らないように言い付けられているからです。」 「そのような基本的な奴隷についての情報など知らない訳が無いでしょう。しかし証拠が無いのでは君の虚言でしかないのだよ。」 「それでも、説明する事は出来ます。まず坂口が最初の事件を起こした時、既に中原老中は逃亡を図っていた。坂口に脅されていた事こそが嘘なのです。そして、坂口の主人というのはあなただ、中原殿。」 「違う!私ではない!断じて違う!!私に奴隷などいない!坂口など知らん!!」  先生が勢いに任せて、中原を名指しする。  けれど当たり前のように、中原はそれを否定した。  それも解りきっていた事だった。  否定してくる事を解っていて、それを覆すための証拠が必要だった事も解っていたから。 「仕方がありませんね。これが証拠です。最初の事件の際使われた凶器がこちらです。」  そう言うと、先生は自分の胸ポケットから、一つのビニール袋を取り出した。  中には細い筒・・・いや、よく見ると注射器が入っている。 「これには坂口の指紋の他に、私と森の指紋もついています。そして更にもう1人指紋がついています。残念でしたね。それはあなたの指紋なんですよ。中原殿。」 「知らん!そんなもの知らんのだ!!私を嵌めようとした誰かの陰謀だ。罠だ!何も知らん!!」  中原が吠えるのと同時に、僕は僕で、それを凝視していた。  いつの間に先生は、その品を何処で手に入れたのだろう?  というか、それは本物の証拠?  本物だとすると、夏目老中が用意した証拠は一体何だと言うのか?  いや、けれどそんな事はこの際どうでもいいだろう。  これで中原を追い詰める口実が出来た!  先生が淡々と続けてゆく。 「往生際が悪いですよ。確固たる証拠が揃っているのです。言い逃れは出来ません。」 「知らん!知らん!知らんのだ!陰謀だ!罠だ!私は断じてやっていない!」  相変わらず中原が知らんの一点張りを続けている。  けれど、こちらに良い流れなのは明白だった。  先生が中原を追い詰めている。  最初に秘密を暴露したのは、中原を暴く為だとしたら、それは致し方ない事だと納得した。  寧ろ、これで上手くすれば、きっと上手くいく。  後は夏目老中さえ、味方してくれれば。  僕は祈るような気持ちで、夏目老中を見詰める。  すると一瞬、向こうに座っている夏目老中が僕に向かってウインクしたように見えた。  その瞬間、僕の体が上気した。 「ふむ。証拠も出揃ったようだし、言い逃れをしようとするとは見苦しいねぇ。信頼していたのに残念ですよ。」  夏目老中が味方してくれた!  いける。  これならいける。 「知らぬ!知らんのだ!私ではない!!」  相変わらず中原老中は、知らぬの一点張りで吠え猛っている。  けれど、僕らの勝利は目前だった。  いくらシラを切ったって、完全に風向きは僕らに味方していた。  カンカンカンと木槌が打ち付けられる。 「うぬ。それでは判決を言い渡そう。中原忠悦は禁忌に触れ、坂口安子という奴隷を使い、森王子を亡き者にしようとした。その罪は非常に重い。よって死刑を言い渡す。」  やった!  アンを助けられた!!  僕は嬉しさのあまり、アンに振り返る。  けれど、アンは嬉しいのか不満なのかよく分からない神妙な顔付きをしていた。  何故だろう?  中原に判決が下るという事は、すなわち中原の命が絶えるという事になる。  中原を恨んでいたんじゃ無かったのだろうか?  何か思い入れでもあったのだろうか?  やはり、こればかりはアン本人にしか分からない心情なのかもしれない。  そう思って今度は先生に向き直ると、不思議な事に先生もまた神妙な顔付きをしていた。  そんな中、中原が再び吠える。 「お待ちください。私は何もしていない!何もしていないのだ!判決を取り消してくれ!再審を求む!お願いだ!何も知らん!私は無実だ!」  すると、先生も再び口を開いた。 「萩原老中。私からも審議のやり直しを申請します。」 「何故かね?」  萩原老中が疑問を口にする。  それは僕も同じ気持ちだった。 「以上が犯人が描いたシナリオだからです。真犯人は他にいます。」  先生が再び口を開くので、僕はじっと先生を凝視した。  先生が何言っているのか全然わからない。  夏目老中が口を開いた。 「何を言い出すのかと思えば、確固たる証拠が揃っているのに、覆すことは出来ないだろうねぇ。他に誰が犯人だと言うんだい?」  夏目老中が訝しげに問いかけてくる。  僕も全く同じ気持ちだった。  揺るがない証拠を集めておいて、これを更に覆すなんて不可能だ。  そう思って先生を見ると、神妙にしていた先生の口元が一瞬釣り上がったのを見てしまった。  僕はこれを見たことがある。  トイレで出会った時の、あの時の悪い顔だった。 「それが出来るんですよ、夏目老中。真犯人はあなたです。」  僕は耳を疑った。

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