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第167話
167.
先生の一言の後、一瞬講堂が水を打ったように静かになり、全員が身体を強張らせ微動だにしなかった。
僕にも勿論、先生が何を言っているのか理解するのに時間が掛かった。
いや、時間をかけても解らなかった。
夏目老中が真犯人?
何言ってるんだ?
張り詰めた空気を切り裂いて、先生が再び口を開いた。
「そうですよね?夏目老中。」
先生は何故か、機嫌良さそうに微笑みを携えて夏目老中に向かい合っていた。
いや、違う。
ぱっと見、機嫌良さそうに見えるであろう笑顔は何処と無く歪められていて、口の端は糸で引っ張っているかのように引き攣っている。
やはりあの時の顔だ。
あの時、初めて僕が先生の正体を知ったあの日。
何て顔をしているんだ。
人の悪そうな顔で、夏目老中を見ていた。
僕は気がつけば身震いをしていた。
「全く何を言い出すのかと思えば、君も人が悪いねぇ。」
夏目老中は平静を装って、いつものように返事を返す。
けれど、発せられた言葉の端々から、緊張の色が滲み出ているのに気付いた。
張り付いた笑顔で応対している。
「いいえ。冗談などでは無いのですよ。こちらがその証拠です。」
先生は再び、胸ポケットを弄ると、何かを取り出した。
ジップロックに入れられていて良く見えない。
「これが本物の証拠です。森が一番最初に襲われたあの日、私は証拠としてコレを提出するのをついウッカリ忘れていました。これには、坂口の指紋と私の指紋が付着しています。」
先生が何かが入ったジップロックをひらひらと泳がせている。
それがその証拠らしいけれど、相変わらず中身が何だかよく分からない。
それに、その証拠というものにはアンの指紋と先生の指紋が付いているという。
夏目老中の指紋が付いている、とかなら証拠になるのは解るけれど、アンの指紋と先生の指紋しか付いていない何かが、どうしたら夏目老中が真犯人だという証拠に結びつくのか全く解らない。
寧ろ、先生の指紋が付いているなら、先生が怪しまれる筈だよね。
僕は先生じゃない事ははっきり解っているけれど、今の流れって、そういう流れになってない?
寧ろ、マズくない?
「坂口被告と太宰殿の指紋が付いているなら、私ではなく太宰殿が怪しいのではないかねぇ?そう思うのが自然でしょう?」
僕の予想通り、夏目老中が痛い所を突いてきた。
先生も何だって、自分に疑いの掛かるような代物を証拠として提出しちゃうんだよ!
ほんと、何考えてるのか訳わからない!
けれど、疑いを掛けられた当の本人は楽しそうに、尚も表情を歪ませてゆく。
悪い顔から、悪魔のような顔に変わって行くのを見た。
僕の背筋にゾクゾクと寒気が走る。
「夏目殿の仰る通りですよ。まるでこの証拠は私が犯人だとでも言いたげだ。けれどそれはね、間違いなんですよ。夏目殿、あなたは大変大事な事を見落としている。」
「全く冗談も休み休み言いたまえ。何の関係もない私を犯人に仕立て上げようとした挙句、不十分な証拠の提出で、自身に疑いが掛かるような代物を提出して来るとはねぇ。呆れて物も言えませんねぇ。萩原殿、そろそろこの茶番を終わらせましょう。犯人は中原だと揺るぎない証拠も揃ってる筈ですよ。」
夏目老中が呆れ顔で、裁判の終了を萩原老中に促した。
確かに一度は判決が出ている。
先生のやっていることといえば、無実で何の関わりもない夏目老中に、喧嘩を吹っ掛け、証拠らしい証拠も提出できずにいる、ピエロのようなものだ。
客観的に見れば、滑稽極まりない。
先生の事を信じている筈の僕も、半ば呆れていた。
信じたい気持ちはあるけれど、流石にこれはお粗末過ぎて落胆してしまっていた。
先生ってば、一体どうしてしまったのだろう。
僕の知っている先生は、何でも卒なくこなしてしまって、スマートで、決して道化師になるような人物では無かった筈だ。
それが一体、どうしてこんな事を言い始めてしまったのか。
僕にはよく解らなかった。
「他に何も無ければ、先の判決でこの裁判は終わらせるべきと私も思う。宜しいか?」
「いいえ、お待ちください。こちらのシロモノを今から証拠にしてご覧に入れましょう。」
先生は萩原老中が終わりにしようとするのを遮ると、パチンと指を鳴らした。
それから、向こうに向かって大きな声で叫んだ。
「小林殿!出番です!」
先生が声を掛けた方向に向かって僕は振り返った。
すると、向こうの控室から小林殿と呼ばれた人物が姿を現した。
それは中原の秘書だったその人で。
小林さんは、何かを大事そうに抱えながら、こちらに歩み寄り、そこの台にそれを置いた。
「小林殿、ありがとう。夏目殿。あなたはこれが何かご存知ですね?」
先生がそこに置かれたものを指差す。
先生が指差した箱には、テルモ翼付静注針と印字されていた。
「それがどうしたと言うのかねぇ?」
夏目老中が訝しげに唸った。
「おや、ご存知ないですか?それは先月貴方が購入された注射針ですよ。」
「そんな事は分かっている。そんなもの吸血鬼なら誰でも使用するものでしょう。私が購入しようと何も珍しい事では無いねぇ。それよりも、これがここにあると言う事は私の家に不法侵入しましたね?泥棒と同じですよ。許し難いですねぇ。」
「その説は大変失礼致しました。けれど、証拠となるものですから大目に見てください。」
先生はそう言うと、悪い顔を作りながら、クツクツと喉を鳴らした。
「何がおかしいのかね!いい加減にしたまえ!」
夏目老中が唸り声を上げた。
いい加減我慢の限界が来たようだった。
しかし、先生はといえば相変わらず楽しそうに口元を歪めている。
「夏目殿。医療器具にはロット番号が印字されている事は勿論ご存知ですよね?」
「あまり人を愚弄するんじゃない。そのような常識、私が知らない訳が無いでしょう。けれど今回、そのロット番号は証拠とならない筈だ!ここに揃っている証拠の品々は既に外袋から出されて裸になっているもの。ロット番号は外装に印字されている事も知らないとは、全く呆れて物がいえな・・・。」
張り叫んでいたはずの夏目老中が、突然声を落とした。
見れば顔面蒼白で硬直している。
僕には何だか全く解らず、ただ成り行きを見守る事しか出来ない。
先生が楽しそうに声を上げた。
「夏目老中は、流石に物知りでいらっしゃいます。そしてその様子だと、私の持っているコレが何だかお分かりになって下さったようで良かった。頭の良い人は、話を分かって下さって助かります。」
「何処で、それを。」
「勿論、森が初めに襲われた時の中庭で、ですよ。」
その瞬間だった。
突然、夏目老中は飛び上がるとアンの方へ詰め寄り手を掛けていた。
側に居た三好さんがいち早く反応し、夏目老中の腕を掴む。
少し距離を置いて向こうに立って居た小林さんも、身を翻し、夏目老中に向かって突進していった。
刹那のうちに、あまりの勢いに夏目老中が弾き飛ばされ、向こうの床によろけて転がる。
僕には何が起こっているのが全く理解が追いつかず、ただ、彼らが奮闘し奔走するのを見守る事しか出来ずに立ち尽くすばかりだった。
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