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第175話
175.
不思議そうな顔を僕に向けたまま、アンは小首を傾げている。
僕は期待した回答が得られなかったことに対して、少し肩を落としつつも、アンらしい答えだとも思った。
「そっか。そうだね。アンは何時でも自分の思う通りに居るのがアンだもんね。らしくて良いと思う。」
「なぁに?変な王子。」
サラリと枝垂れる黒髪を片手で掬いながら、アンは僕を見ていたが、ふいと視線を外すと再びソファにもたれた。
「今日は疲れたわ。何だか、眠いの。」
薄っすらと頬に影を落とす睫毛を伏せたまま、アンは呟く。
「うん。」
僕は相槌だけ打つと、そっとソファから立ち上がった。
今日は僕もそろそろ帰るのが良いかもしれない。
彼女は慣れない場所で数日過ごした後で、長距離を移動して先生の家に帰ってきたのだ。
疲れていて当然だと思った。
ゆっくりと体を休めて癒して貰いたい。
向こうに座っている先生に視線を向けると、彼もまた目を瞑って背凭れにもたれ掛かっていた。
僕はそっと近付くと、先生の背後に立ち、そのまま後ろから手を回してゆく。
きゅっと抱き締めると、それに気付いて、彼の手が僕の腕に触れる。
僕はその反応に安心して、頬に口付けをした。
それから、その姿勢のまま先生の耳元に唇を寄せる。
「せんせ、今日はありがとう。」
緩く空気を震わせながら先生の鼓膜を揺らした。
彼は返事の代わりに、僕の腕に添えてあった手を、手の甲に伸ばしてきて柔らかく撫ぜてゆく。
僕は思わず声が漏れそうになるのを我慢して、腕に力を込めた。
それからまた、頬に唇を落とすと、自分の頬を擦り寄せた。
「疲れたでしょ。みんなで無事に帰ってこれて嬉しい。全部先生のおかげだよ。有難う。」
「・・・ん。」
先生がかすかに喉を鳴らす。
それから僕の手の甲を撫でてゆく。
滑るように何度も撫でられて、それがとても心地よくて僕はゆっくりと溶けてゆく。
理性を失いかけて、失われる前に僕は静かに言葉を紡ぐ。
「せんせ。僕、そろそろ帰るから。先生もゆっくり休んで・・・よ。」
静かな声で呟くと、我慢の出来ない僕は再び耳元に唇を寄せる。
頭では、早く先生を休ませてあげたいと思っているのに、気持ちが言うことを聞かない。
言ってることとやってる事のちぐはぐさに自覚があるのに、僕はそのまま唇を滑らせてゆく。
首筋に走る脈を、舌で感じた。
喉が鳴った。
「・・・ん。・・・。」
「あ・・・。」
僕の腕がやんわりと解かれる。
それから、彼は腰を上げると、僕の視界を覆ってきた。
「・・・ん?」
「うん。」
正面から抱き締められた僕は、身動きが取れなくなっていて、頭を先生の首筋に寄せていた。
そっと頭を傾けると、先生の鎖骨が間近に視界に入り、心音が僕の耳に届いてくる。
心地よく響く音に、僕の瞼が徐々に重くなってゆく。
「ん。」
アンが目を開けば、僕らの姿が視界に入るだろう。
けれど、それはもう、あまり気にならなかった。
きっとアンは何も言わずにそれを見守るのだろうと、なんとなくわかっていたからだ。
気にならないのは、それをアンに見られることが恥ずかしいとは思わないし、後ろめたいとも思わないし、堂々としていれば良いんだという考えに至ったから。
例えもし、冷やかされてからかわれたとしても、今なら笑ってそれを受け入れられる。
それは、アンを信頼しているからに他ならなかった。
今なら堂々と、アンの前で先生の事が好きだと、この人が僕の好きな人だと宣言できる気がする。
きっと、それは彼女が彼女の気持ちを堂々と僕に伝えてくれたから。
だから、遠慮して隠そうとすることの方が、恥ずべき行為だと思えた。
例えそれを世界が許さなくても、僕はアンの前でだけは堂々と先生を好きでいたい。
それをアンならきっと、許してくれるから。
僕は瞼を閉じながら、先生の背中に腕を回してゆく。
ゆっくりと背中を包むようにして、何度か掌を滑らせた。
気持ちいい。
温かな安らぎに丸く包まれてゆくのを感じる。
耳の奥で鼓動が甘く沁みていった。
「せんせ。」
飲み込まれそうになる理性と、剥き出しになりかけた欲望の間で、僕はゆっくりを体を離すと先生を見つめた。
「また来るから。今日はゆっくり休んでください。そろそろ帰ろうと思います。」
「うん。」
僕のおでこに先生の唇が触れる。
それから、ゆっくりと離れていった。
「送るよ。王子もゆっくり休みなさいね。」
「はい、有難うございます。」
名残惜しく感じながら、僕は先生から離れて身支度を整えた。
それから、玄関を出て車に乗り込み、今日も先生に家まで送って貰った。
先生とずっと手を繋いでいたいと思った。
そして、やはりキスは誰にも見せない。
他の何を見せたとしても、これは、どうしても僕らの秘密で大切なものだった。
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