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八月第三週②-② ※※

 おばあちゃんの一言でゆんたくがお開きになってからも、俺はまだ余韻が抜けず、中庭でしばらく月を見ていた。今夜は見事な満月だ。汀の頬のように真ん丸の月だ。もうすぐ日付が変われば旧暦の十五日になるのだから、当たり前の話だが。所謂十五夜である。   「岳斗さぁん。寝ないの?」    汀が縁側のガラス戸を開け、小声で呼ぶ。昼間はタンクトップを着ていることが多い汀だが、夜は冷えるので半袖のパジャマを着る。   「お前こそ、いつまで起きてんだよ。子供はもう寝ろ」    俺が言うと汀は部屋に引っ込んだが、俺もそろそろ寝るとする。ここ最近、慣れないことばかりで疲れた。明日も早く起きなくてはいけない。    俺の泊まる部屋は、初日からずっと変わらず、仏間の隣の床の間であった。今夜ももちろんそのつもりで、何も考えずに障子戸を開けた。   「あれっ!? お客さん!?」    今朝の臨時便で島へ来た、学さんと美香さん夫婦、そしてまだ乳児の七海ちゃんが、二枚の布団を並べて川の字になっていた。美香さんと七海ちゃんはもう寝ていて、学さんだけが起きていた。でももう寝るところだったようだ。俺は反射的に謝った。   「お客さん……? あれ、でも、すいません、あれ? 何かの手違いですかね……?」    学さんも事の次第が分からないらしく、困惑している。   「いえ、あの……僕達家族の泊まれる部屋が空いていなくてですね。そうしたら汀くんが、この部屋いいよって言うんで……」 「そういや、俺の荷物がない……」 「お客さんは、汀くんの部屋に泊まることになったからって、言ってましたけど……サービスでお荷物も移動させてあげるんだーって」 「あいつ……」    何となく流れは把握した。汀が、俺に何の断りもなく、俺の借りていた部屋を学さんに貸したのだ。どの部屋を誰に貸すかなんて、宿側の自由と言われればそれまでだが……。    俺は早速、汀の部屋を覗いた。オレンジ色の豆球だけが点いた薄暗い部屋で、汀は何をするでもなく、布団に寝転がっていた。その隣には、ご丁寧に、もう一組布団が敷かれている。   「岳斗さん。遅かったね」 「遅かったね、じゃねぇよ。お前、勝手に俺の部屋替えやがって」 「ばぁちゃんにも訊いたもん。いいって言ってた」 「そういうのはまず俺に相談しろよな。間違ってあっちの部屋開けちゃって、気まずかっただろうが」    こうして汀と気兼ねなく喋るのは、久しぶりのような気がする。俺は、用意された布団に横になり、タオルケットを足下に掛けた。隣の布団で、汀は寝返りを打つ。   「岳斗さん」 「何だよ」 「布団、もっとくっつけてもいい?」    箪笥や本棚や勉強用の文机などがごちゃごちゃ置かれている狭苦しい六畳間だが、二枚の布団はそれなりに隙間を空けて敷かれていた。くっつけたいのなら、敷く時に勝手にくっつけてしまえばよかったものを、と思った。   「ダメだ。暑苦しい」 「えー……」    俺が断ると、汀は残念そうな声を上げたが、それ以上食い下がることはなかった。    三十分もせずに、汀はすやすやと寝息を立て始めた。反対に、俺は目が冴えまくって眠れなかった。汀の寝息が健やかであればあるほど、気が急いて眠れない。    汀は、寝顔までもが完璧に整っていた。ぼんやりと暗い電灯の下にあってもよく分かる。睫毛が頬に影を落とし、唇は瑞々しく艶めく。瞼を閉じてじっと横たわるその姿は、まるで作りたての人形のよう。……と、こんなことを考えているから余計眠れないのだ。    俺は、のそのそと布団を這い出て、こっそりと部屋を抜け出した。縁側は、部屋の中よりも明るかった。月の光が差し込んで、昼間のように明るい。   「――ぉわっ!?」    ガラス戸を開けて庭へ出ようとしたら、何かが足首に巻き付いた。それが何であるかなんて、考えるまでもなく分かる。   「……どこいくの……?」    汀が、不安そうな眼差しで俺を見上げて、足下にへばり付いていた。   「悪いな。起こしたか」 「……どこいくの」 「いや、眠れねぇから、ちょっと散歩にでもと」 「ふーん……?」    いまだ覚醒しきっていない、半分閉じた目をゆっくりと瞬かせ、眠気の残るとろんとした声で、汀は言った。   「おれもいく」    島の道は街灯一つないが、月夜の晩に懐中電灯は必要ない。汀は、夢現の状態で俺の腕に絡み付き、凭れるようにして、覚束ない足取りで歩いた。行き先は決めていなかったが、ニシの浜に自然と足が向いた。    丑三つ時の海は、ぞっとするほど美しかった。凪いだ海に蒼い月影が伸びて、天へと昇る道ができている。    東屋のベンチに腰を下ろすと、汀は俺の膝を枕にして横になった。さらりとした黒髪を手櫛で梳いてやると、小さく鼻を鳴らして甘えた。   「……岳斗さん」    俺が答えないでいると、汀は言葉を続けた。   「好き」 「……だから?」 「……好き」    寝惚けて言っているのではなかった。はっきりとした口調なのに、その声音は物憂げだった。   「……お前はまだ子供だ」 「子供じゃない」 「中学生は子供だよ」 「……じゃあ、ユキちゃんならいいの」 「ユキちゃんだってまだ子供だろ」 「来年からは島を出て寮で暮らすんだもん。大人だよ」 「島を出る?」 「高校は島の外にしかないから」    今日は大潮だから、波打ち際がうんと遠い。沖の方まで干潟が続いており、珊瑚礁が海面から顔を出している。波の音が静かに響く。   「じゃあ、香織ちゃんならいいの」 「なんでそこで香織さんが出てくるんだよ」 「じゃあ、恵子さんなら? すごく大人だよ」 「いや、だから、俺の言いたいのはそんなことじゃないんだよ」 「大人ならいいんでしょ」 「そういうことじゃねぇよ。他の人の話なんか、してなかっただろ。俺は、お前がまだ中学生だってことを言ってんだよ。ずっとそのことだけを言ってんの。他の人がどうとか、関係ねぇの」    汀は不満そうに、口をへの字に曲げた。   「……お前だって、本当は分かってんだろ。もう、中学生なんだから――」    いきなり、汀は体を起こして俺の膝に跨った。海の上に揺蕩う満月と重なり、後光が差して見えた。逆光になっていたけれど、その黒い瞳に涙の浮かんでいるのが分かった。涙を堪えるあまり、しかめ面になっていた。と思えば、またもやいきなり、俺の肩に齧り付くようにして、思い切り抱きついてきた。   「……好きなんだもん」    引き絞った声が鼓膜を震わせる。微かな吐息が耳たぶを撫でる。   「好き……すごく……」    さらに強く、ぎゅっと抱きしめられる。体が密着して、汗が噴き出す。風に吹かれても冷えない。    銀色の鱗粉のように降り注ぐ強烈な月の光には、人を惑わせる妖しい魔力がある。満月の晩は、特に。だから、全ては月夜のせいだ。胸に逸る音が誤魔化せないのも、狂おしい情動に駆られるのも、全て、天を満たして煌々と輝く、あの大きな大きな月のせいだ。    突き動かされるように、俺は、汀の唇にしゃぶり付いた。まだ熟れる前の青い実は瑞々しく、しかし強張っている。優しく洗って、皮を剥いてやってから、果肉に口をつけた。まだ食べ頃ではないはずなのに、その果肉は見た目よりもずっと甘く、柔らかくて、果汁をたっぷりと含んでいた。   「ふっ……ンん゛っ――!」    汀は何度も腰を跳ねさせ、何か訴えるように身を捩ったが、俺は、捥ぎ取った果実を貪るのに夢中だった。こんなにも美味いものを食うのは人生において初めてで、簡単には手放せそうになかった。   「んんっ……、やだっ……」    汀は、俺の手を振り払って顔を背けた。真っ赤に上気した頬や、とろんとした眦、濡れた唇、悩ましげな表情は、先程までとは打って変わって、すっかり旬を迎えた果物のように思われた。俺は汀をベンチに押し倒し、その唇を再び奪った。   「んぅっ……ゃ、やだぁ……!」    ビクビクッ、と連続して汀の体が跳ねる。力が入らないなりに、汀は俺にしがみつく。汀の爪が背中を引っ掻くのが、少しくすぐったかった。    いつまでそうしていたのか分からない。唇を解放すると、ぐったりとして息も絶え絶えの汀の姿が、満月に照らし出された。手も足も投げ出して、ただ息を吸うことしか頭にないようだった。蒼い月の光に照らされても、汀の頬は赤かった。   「……お前、大人を好きになるってのは、こういうことだぞ」    俺は汀の方を見ないで言ったが、汀がこちらを見つめているのは分かった。瞳は涙の膜が張っていたが、その視線は痛いくらいに真っ直ぐだった。   「……もっとして……」 「強がってんじゃねぇよ」 「強がってない。……ねぇ、もっと全部、教えてよ。おれの知らないこと、もっとして。体に教えてよ」    汀は、俺のシャツの裾を掴んで取り縋る。   「ねぇ、岳斗さん……」 「妙な言い回しをすんじゃねぇ」    俺は、汀の肩に手を回して、ふらつくその体を支えた。   「もっとって、具体的にどんなことか、分かってて言ってんのか」    俺は、汀の股の間に手を置いて、軽く揉んだ。ズボン越しでも、湿っているのが分かった。汀は、ビクッと体を強張らせた。   「そんなとこ……!」 「いやだろ、こんなとこ触られんの。この先、これよりもっといやらしいことするんだぜ。分かってんの?」    ズボン越しに、そこを優しく揉む。汀は、呼吸を乱して唾を飲み、俺の肩に齧り付いた。   「……い、いいよ。もっとやらしいこと、していいよ」    儚げに震える声で、汀は囁いた。  汀の、控えめに膨らんだそこを、俺はズボンの上から触り続けた。長いこと触っていると、掌がじっとりと湿ってくる。俺の手汗でもあるが、それにしては少々粘り気が強い。   「んぁ……っ、ぅう……」    汀は俺にしがみついて、声を押し殺すことに終始していた。時折体が痙攣しては、張り詰めたように動かなくなって、やがてぐったりと弛緩した。その度ごとに、呼吸は激しく乱れていった。    俺は汀の下着に手を突っ込んで、直接そこを触った。汀は、「あっ!」と大きな声を上げたが、すぐに俺の肩に顔を埋めた。小さな下着の中は、既に大洪水に見舞われていた。手を入れただけでぐっしょり濡れた。その大量の粘液を塗り付けるようにして、俺はそこを撫で上げた。   「ひッ……!」    汀は、ぶるっと腰を震わせた。俺は、汀のそこを掌に包み、上下に優しく擦った。とろとろの粘液が、留まるところを知らずに溢れてくる。そのぬめりも手伝ってか、汀はもう声を抑えることもできず、上擦った声で喘いだ。   「あ、あッ、やだっ……、やだぁ……ッ」    涙を散らし、かぶりを振る。黄色い鼻緒の島草履が脱げて、地面に落ちた。    下着から手を引き抜くと、白いものがべったりと付いていた。脱力して凭れかかってくる汀を押し戻してベンチに横にさせ、俺は水道で手を洗った。白いものは、量はそれほど多くなかったが、ねばねばしていてなかなか流れなかった。        汀が、パンツが濡れて気持ち悪いと言うので、脱がして洗ってやった。汀は、素肌に直接半ズボンを履き、寝転んで俺の膝に枕する。島草履は、ベンチの下に揃えて置いてある。   「岳斗さん。さっきのが、もっとすごい、いやらしいことなの?」    俺は、肯定するわけでもなく否定するわけでもなく、ただ「うん」と言った。   「……好き?」    疑問形で、汀が言った。俺は答えた。   「……逆に訊くけどな。もしもお前だったら、嫌いな相手にあんなことをするのか?」    汀は少し考えて、「分かんない」と言った。   「でもおれ、岳斗さん以外の人には、あんなことされたくないかも」    当たり前だろ、と言おうとして、俺は口を閉じた。    一時よりは、潮が満ちてきていた。波の寄せる音が近い。真南よりも少し西に傾いた満月は、一層冴え冴えと光り輝いて、夜の闇を明るく照らしていた。   「お前さ、あの唄さ……」    俺はふと思い出した。   「なに?」 「庭で、何曲か唄っただろ。あれの最後に演った曲、あれ、なんて唄なんだ?」    急に何? と言いたげに、汀は可愛い眉を寄せる。   「いや、他の曲はおばあちゃんが解説してくれたんだけど、最後のは時間がなくて」 「月のまぴろーまだよ」 「月の?」 「まぴろーま。月の真っ昼間。分かる?」 「あ、ああ。真っ昼間ね」    島の言葉は難しい。   「で、どういう意味なんだ?」 「月が出て、真っ昼間みたいに明るいってこと。ちょうど今みたいにね」    汀は、飛び跳ねるように起き上がった。   「唄ってあげよっか」 「三線は?」 「岳斗さん、アカペラって知らないの?」    汀は、胸を張って深く息を吸い、悠然と唄い出した。月のまぴろーまや、という冒頭部分だけは聞き取れた。あとはもう分からない。けれど、歌詞が分からなくても、心に響くものが確かにあった。伴奏のある方が、もちろん音にボリュームが出るが、無伴奏の独唱というのも、汀の声の質感や僅かな抑揚や息遣いが鮮明に感じ取れて、これはこれで良いものだと思った。    汀は、唄いながらおもむろに立ち上がった。真っ新な砂浜に、点々と足跡を残す。足首が波に濡れ、「つめたっ」という呟きで唄は一時中断し、しかしすぐに再開した。月光のベールを纏い、白金の砂浜で朗々と唄う汀の姿は、いつか海へ帰る人魚のようにも、月へ帰る天女のようにも思われた。    今この瞬間しか存在しない、声変わり目前の少年の、儚くも力強い、澄み透った歌声。伸び伸びとした節回しや、生き生きとした高い声。これを永遠のものとしたい。しかし、そう遠くない未来に、必ず失われてしまう。だからこそ琴線に触れる。時間の許す限り、いつまででも聞いていたかった。

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