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八月第四週② ※
「岳斗さん! 海行こう!」
自前のシュノーケルセットを手に、汀が朝から張り切っている。シュノーケリングは、七月の終わりに一度したきりだ。
「海ぃ? また誰かに誘われたのか」
「違うよぉ。おれが岳斗さんを誘ってんの」
前回と同様、俺はケンちゃんの店でシュノーケルセットを借りて、ニシの浜に下り立った。真っ昼間の海は久しぶりだった。砂浜にぽつんと佇む東屋が目に入り、俺は、ムシャーマの夜のことを思い出して複雑な思いになった。汀も、照れくさそうに頬を赤らめて、俺の方を見た。
「ウミガメ、また会えるといいね」
「そうだな」
身も蓋もないことを言えば、ウミガメなんかはこの際どうだってよかった。汀と海に来たというだけで、目的の半分は達成しているようなものだ。だが、俺も大人なのでそんな白けたことは言わず、シュノーケルマスクを装着した。
太陽光をたっぷり蓄えた真昼の海水は温く、しっとりと肌に纏わり付いて、自他の境界線があやふやになる。意識まで溶け出して、自分が何者であるかまで忘れてしまいそうだ。とろりとした海水は、波を掻く汀の細い腕や、水面を蹴る健康的な太腿や、片手で掴めそうなくらい華奢な腰周りにも、優しく絡んで濡らしていく。
汀の泳ぎは、珊瑚礁に暮らす熱帯魚にも負けないくらい、優雅で佳麗だ。無駄に藻掻いたり足をバタつかせたりといった見苦しい動きはせず、ただ流れに身を任せながら、なよやかに体を撓わせて泳ぐ。すらりとした二本の脚は、さながら立派な尾びれだ。水中で息を吐くと、大きな気泡が真珠のように光る。白いシャツの裾が膨らみ、ゆらゆらと翻って、黒い髪がふわりと舞い上がり、波に揺蕩う。
波間から射し込む光が沈んだ、薄ぼんやりとした水底から、眩いばかりの海面を見上げると、七色の輪の中に汀の影が光っていた。陽の光を一身に浴びて、その輪郭は自ら光を放つ。透き通る青の世界で、重力に囚われず浮遊する姿は自由の象徴であり、言葉を尽くしても足りないほど神秘的で、目に焼き付けておかねばと焦るほどに幻想的だった。
「岳斗さんってば、せっかくウミガメが来てくれたのに、全然見てなかったでしょ」
浅瀬に上がって一番に、汀は可愛い文句を言った。
「見てたよ」
「うそ。おれがいくら呼んでも知らんぷりだったじゃん」
「ちゃんと見てたって」
「岳斗さんがウミガメと泳ぎたいって言うから、おれ、一生懸命探したのに」
「マジか。そりゃ悪かったな」
「やっぱり見てなかったんじゃんっ。もう!」
怒って速足になったのがよくなかった。柔らかい砂に足が取られて、汀はすっ転んだ。バシャッ、と盛大に水飛沫を上げて、浅い海に倒れ込んだ。俺は急いで駆け寄る。汀は、ぶくぶくと空気を吹きながら、仰向けになってゆっくりと浮上した。乾き始めていた黒髪はぐっしょり濡れて、毛先から水が滴っていた。
「もー、岳斗さんのせいでまた濡れちゃったじゃん」
「俺のせいかよ」
「だって、岳斗さんが意地悪するから……」
起き上がろうとする汀を、俺はもう一度海に沈めて横たえて、優しくキスをした。海面で跳ねる飛沫に頬を濡らしながら、探るように唇を合わせ、舌を忍ばせる。汀は、ピクッと体を引き攣らせ、縋るように俺の腕を掴んだ。そうしないと、波に呑まれて流されてしまいそうなのだろう。
「ん……だ、だめだよ、こんなとこで」
「こんなとこって?」
「そ、外だし、明るいし……」
「いいんだよ。どうせ誰もいないんだから」
「ぁ、でも……」
のどやかな波に揺られるままに、脚を絡めて体をくっつける。「だめ」と言ったその舌で、汀は俺を求めた。サイズ感といい食感といい、蜜柑の一房のような舌だ。ただ、蜜柑よりもずっと濃厚で、それでいて瑞々しくて、いつまで食べていても飽きが来ない。
「がくと、さん……」
「ん?」
「すき」
「……うん」
この無垢なる子供が、どうして俺を求めてくれるのだろう。どうして、無条件に俺を受け入れてくれるのだろう。波に揺らめく汀の髪を、俺は指に絡めた。
「お前はほんとにいい子だよ」
「髪、くすぐったい」
「でも、俺みたいのを好きになるのは、悪い子かもな」
冗談めかして言うと、汀は案外真面目な顔をした。
「おれ、いい子になんてなれないよ」
「普段は普通にいい子だろ。ちゃんと学校行ってるし、宿題もやるし、友達と遊ぶし、家の手伝いだってしてる」
「でも、悪い子でいいもん。岳斗さんも、悪い大人?」
汀の手が、するりと俺の腰に回る。ラッシュTシャツを着ているから素肌に直接触れられたわけではないものの、腰が重くなって、ぞくぞくしたものが背筋を走り抜ける。
「俺は、悪い大人だよ」
「へへ、やっぱりね」
「ウミガメより、お前のことばっか見てた」
汀は、嬉しいのか恥ずかしいのか怒っているのか、何とも言えない表情を浮かべて、そっぽを向いた。差し出された右耳が真っ赤に染まっていたので、俺は迷わず口に含んだ。
「ひゃっ!?」
「暴れんなよ、目立つだろ」
「だ、だってこれ、変……」
汀は耳まで小さい。上の方は固くて薄い。耳たぶも薄いが柔らかい。食んでいると少ししょっぱいが、海の味だろう。舌を尖らせて穴の縁をなぞると、汀は大きく体を震わせた。
「やッ、なに……?」
舌を入れると、今度は動かなくなって縮こまる。戸惑いながらも、俺にしっかりと掴まっているのがいじらしい。舌で穴をほじっていると唾液がどんどん溢れてきて、汀の耳は、既に海水で濡れていたけれども、それ以上にベタベタになってしまった。その状態で舐め続けると、あまり品のよくない水音が響き、それがさらに劣情を煽る。
「ん、ん……やだ、や、音がぁ……」
汀は、左耳が海に潜っているために、いやらしい音がより鮮明に響くのだろう。そんなことは当然分かっていて、俺は耳を舐めるのをやめない。それどころか、同時に新たな悪戯を仕掛ける。汀の胸元を探り、シャツを押し上げている小さな粒を見つけて、軽く摘まんだ。
「んぁ……ぁ、え? なに……?」
シャツの上から引っ掻いたり、転がしたり、押し潰したりしてみる。慎ましやかなそこと同様、汀の反応も派手なものではなかったが、微かに漏れ出る声は確かに甘さを含んでいて、秘めた可能性を予感させた。
俺達は、人目も気にせず戯れた。もしも誰かに見つかったら只では済まないが、幸い、波の音が邪魔をしてくれた。当初は渋っていた汀も、体の力をすっかり抜いて、甘い快楽の海に揺蕩った。
いつの間にか潮が引き始め、浅瀬の水深はどんどん浅くなり、波間に隠れてキスすることさえできなくなった。砂底に背中をつけても、海面に顔が出る。俺と汀は、二人で並んで横になって、半身を濡らしながらぼんやりと空を眺めた。青空――いや、少し日が陰って、黄色が混ざったような空色だ。刻々と夕暮れが近付いている。
「……なんか、すごかった」
汀がぽそっと呟いた。
「うちでやるよりすごかった」
「その歳で青姦に目覚めちまうとはな」
体を触ったりキスしたりしていただけなので、厳密には“姦”ではないかもしれないが。
「アオ?」
「外でエッチなことすること」
「岳斗さんって、色んなこと知ってるね」
「悲しいことに、大人になるとみんなこうなっちまうんだよ」
「またしようよ、アオカン」
「そう何回もやるもんじゃねぇから。大体、うちでやる時の方がもっとすごいことしてんだろ」
「でもさぁ、あんまりゆっくりできないんだもん。長くなるとバレるかもって、結構急いで終わらせるし、音も立てちゃいけないし、廊下の音とか気になっちゃうし……。それでも、まぁ……キモチイイ、けど」
汀は恥ずかしそうに口籠って、それを誤魔化すようにバシャバシャと水を叩き、そしてまた、何かに気付いたように声を発した。
「……あっ、ねぇ」
「んだよ。もうしないぞ」
「そ、そんなこと言ってないじゃん。違うの、これ見て」
オレンジ色の貝殻を背負った小さいヤドカリが、汀の人差し指の爪の先に、ちょこんと乗っていた。いきなり水の上へ上げられて、びっくりしているようだ。
「見つけたのか」
「うん。なんか、自分から乗ってきた」
ヤドカリは、汀の手の上を右往左往する。爪の先から手の甲へ、ぐるっと回って掌へ、水かきの間を這って、小指の先へと移動して、手首の方へと上っていく。
「くふふ、くすぐったい」
「可愛いな」
「うん。貝殻も綺麗」
「見た目はエビと変わらないけど、あれより全然可愛い」
「そりゃ、だって、小っちゃいもん」
見ているだけで愛着が湧いた。虫捕りや魚釣りに興じていた、遠い日の夏休みを思い出す。けれど、早朝に眠い目を擦って捕まえたカブトムシよりも、今汀の手に纏わり付いているヤドカリの方が、なんだかとても尊いもののように思えた。
「これ、飼えんのかな」
「飼えると思うけど……うち、生き物禁止だから」
汀は、右手にいたヤドカリを左手に移動させた。ヤドカリは、汀の手に必死にしがみついて、振り落とされまいとしている。
「じぃちゃんもばぁちゃんも忙しいし、おれ一人じゃお世話できないでしょって。飼ってみなきゃ分かんないのに」
「まぁ実際、生き物飼うのは大変だぞ。俺も昔、飼ってたカブトムシに逃げられたことあったし。釣ってきた魚を死なせたことだってある」
「死なせちゃったの?」
「ああ。用水路にいた、たぶんフナだよ。捕ってきてバケツに入れといたら、次の日死んでた。オタマジャクシを死なせたこともあったな」
「そうなんだ……」
ヤドカリを指先に乗せて遊んでいた汀は、それを掌の上に戻した。
「やっぱり、自然に生きるのが一番いいのかな」
砂の上にそっと放してやると、ヤドカリは猛スピードで穴を掘り、潜ってしまった。「バイバイ」と汀は手を振った。
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