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九月第二週①-①

 無事一週間が始まり、再び週末が訪れようとしていた金曜日。俺は、汀を石垣のトゥバラーマ大会に連れていくことになった。前々から行きたいとは思っていたらしいが、野良仕事で忙しいおじいちゃんも宿の切り盛りで忙しいおばあちゃんも島を離れるわけにいかず、もちろん一人旅などもっての外ということで、なかなか叶わずにいたらしい。    しかし今年は、暇を持て余した大人が一人、俺という便利な存在がいるじゃないかということで、子守の役目が回ってきたわけだ。例によって、俺がそのことを知らされたのは前日になってからで、それから大慌てで準備をしたのは言うまでもない。    帰りの会を早退して学校から駆け足で戻った汀を、宿の送迎用のミニバンに乗せて、おばあちゃんが港まで送ってくれた。往復の切符を買って、岸壁に横付けされたフェリーに乗り込む。船内は手狭で、座席数も多くはない。景色を見たくて、窓際に場所を取った。    金曜の最終便だからだろうか、乗客は少なく、人影は疎らだったが、フェリーは定刻通りに出航した。汀は、窓に額を当てて空を見上げた。餌を撒いているわけでもないのに、たくさんの海鳥が船の周りに集まってきて、翼を広げて飛び回りながら沖合までついてきた。    沖へ出ると、途端に船が揺れ始める。舳先に波が打ち付けて、船体がシーソーのようにぐわんぐわん揺さぶられる。晴れていて風もなく、海は至って穏やかなのに、想像の倍くらい激しかった。酔い止めを飲んでいたのになんだか気持ち悪くなってきて、俺は目を閉じて凌いだ。    一時間半ほどで、石垣港に入港した。ようやく船を降りられてほっとする。昨年できたばかりのフェリーターミナルは、切符売場はもちろん、飲食店や土産物屋も多く、小綺麗で広々としていた。俺は大分へばっていたが、汀はやたらとテンションが高く、ターミナル内を元気いっぱいに駆けずり回る。   「岳斗さん! おれ、これ飲みたい」    土産物屋の一角で、テイクアウトのミルクシェイクを販売していた。地元の牛乳を使っているそうで、観光客にも人気らしい。   「こっち来たら絶対飲むって、アオイちゃんが言ってたやつ。おいしいんだって」    Mサイズを一本買ってやった。マンゴーソースをかけて、見た目にも涼しい。汀は、太めのストローをちゅうちゅう吸う。   「岳斗さんも飲む?」 「いや、まだ船酔いが……」 「まだ? 都会の人は軟弱だね」 「これくらい普通だっつの。お前が異常なんだよ。そんだけ三半規管が強けりゃ、どんなジェットコースターでも余裕だろうな」 「ジェットコースター乗ったことなーい」    トゥバラーマ大会の会場である公園までは、歩いて二十分ほど。芝生の広場は既に大勢の人で賑わい、前方のステージでは、絣の着物を着た男性が三線片手に唄を披露していた。力強く堂々とした歌声と、哀愁溢れる三線の音色、そして篠笛の伴奏と囃子詞。これらが美しく調和して、素晴らしいハーモニーを奏でる。    俺と汀は、適当に腰を下ろした。周りを見ると、レジャーシートを持参している人もいたが、大体は芝生に直に座っていた。隣の親父はビニール袋からカップ酒とつまみを出して飲んでいたし、その向こうにいる人もビールを飲みながら観賞していた。    歌唱が終わると、割れんばかりの盛大な拍手が送られる。どこからともなく、唄を称える指笛まで響いてくる。日没直後の真っ青な空に、十三夜の見事な月がくっきりと現れて、それだけでも気分は大いに盛り上がる。   「今の、どうだった」    いまだに意地汚くシェイクを吸っている汀に、俺は訊いた。   「上手かったと思う」 「思うって何だよ」 「だって知らないもん。でも上手かったよね?」 「ああ。俺も、すごくいいと思った」 「そもそもさ、こんな広い場所で、たくさんの人に見られて唄うってのがすごいよね」 「あの人らだって緊張はしてるだろ」 「でも、ちゃんと唄えてるもん。おれなら無理だな」 「お前だって、唄上手いじゃん。三線も」 「こういうとこに出られるのは、選ばれた人だけだもん。おれなんて、全然無理だよ」    次の出場者は、高校生の女の子だった。やはり絣の着物を着て、三線を弾きながら朗々と唄う。その唄い出しだけで、会場は一瞬静まり返った。あの白く輝く月にふさわしい、透明感のある美しい唄声だったのだ。それでいて、藍色の空に高らかに響く勢いがある。唄い方はやや粗削りではあるが、それが逆に可能性の煌めきを感じさせた。ダイヤの原石を発掘した、と誰もが思っただろう。一番の歌詞の途中で、もちろん拍手喝采だ。指笛もピーピー鳴り響いた。女の子は少し緊張が解れたようで、二番はより伸び伸びと唄い上げた。    涼しい夜風が、秋の訪れを感じさせる。十三夜の月は、天高く昇った。腕時計を確認すると、針は二十一時を回っていた。腕時計を腕時計として使うのは二か月ぶりだが、正確さに狂いはない。    月夜のトゥバラーマ大会も、いよいよ終盤だ。フィナーレを彩るのは、歴代チャンピオンによる歌唱披露。重厚な歌声に、公園に集まった市民は聞き惚れた。惜しみない拍手と歓声に包まれて、大会は無事終幕した。    皆が公園を去る中、汀はしばらくぼんやりとして、芝生に座り込んでいた。人気がなくなっても、ステージのライトは煌々と明るい。それ以上に、月明かりが眩しい。   「俺達も、そろそろ帰ろうぜ」 「ん……」 「何だよ。疲れちゃった?」 「ううん。余韻に浸ってた」    汀は溜め息を吐いて立ち上がる。   「こういうの、初めてだから」 「来られてよかったな」 「うん」    しかし、いつまでもぼんやりしているわけにはいかない。ホテルのチェックインの時間が過ぎている。    市街地へ戻るとネオンサインが明るくて、現代社会の街中に来たという感じがした。実際、東京なんかと比べればずっと暗いはずだが、街灯一本ない島の生活に慣れた目には新鮮に映った。   「腹減っただろ。何か買ってから行くか」    汀の島にはないコンビニエンスストアだって、石垣島にはある。ホットスパーという耳慣れない店名ではあるが、コンビニはコンビニである。   「何でもいいの?」 「弁当とかおにぎりとかパンとか」 「そばは?」 「そばでもいいよ。好きなの選べ」    汀が弁当コーナーで迷っている間、俺は飲み物をカゴに入れ、雑誌コーナーの向かいの棚を覗いた。衛生用品が並ぶ棚の最下段に、その小箱はひっそりと陳列されていた。さりげなく周囲を確かめてから、俺は素早くそれを手に取り、カゴに入れた。薄さ何ミリと書かれているのはあまりに露骨すぎる気がして、いざとなればお菓子の箱だと誤魔化せるような、カラフルなパッケージのものを選んだ。   「岳斗さーん」 「ぅわっ!?」    突然背後から声をかけられて、情けない声を出してしまった。汀も驚いていた。   「ど、どしたの。別に脅かしたわけじゃ……」 「分かってるって。で、なに。決まったのか」 「うん。これ」    タコライスにしたらしい。わざわざ今ここで買わなくても、普段からいくらでも食べられるのに。と思いつつ、俺はそれを受け取ってカゴに入れた。さりげなく、あの小箱を隠すようにして。   「岳斗さんは何にすんの」    俺は冷やし中華にした。        今夜泊まるのは、街の中心部にある安価なビジネスホテルだ。当初は和子さんの家へ泊めてもらうことになっていたそうだが、汀がどうしてもとゴネて、ホテルに泊まることを許されたらしい。俺としても、ホテルの方がありがたい。    五階建てのビルなんて、都会ではありふれすぎていて誰も気にも留めないものだが、島暮らしの汀にとっては物珍しく見えたらしかった。建物を目にした瞬間から、フロントで受付をしている間も、エレベーターに乗っている間も、そして廊下を歩いているだけでも、ずっとそわそわしっぱなしで落ち着きがなかった。   「鍵開けたい」    と言うので持たせてやったら、やたらともったいつけて鍵を開けて、かと思えば部屋の中へ飛び出していって、早速ベッドへとダイブした。   「すっごーいっ! これがベッド!! ふかふか~」 「あんまはしゃぐな。靴脱げ」 「脱ぐとこあったっけ」 「ないけど、脱ぐんだよ。カーペットが汚れるだろ」    ベッドの弾力を楽しむ汀の脚を捕まえて、靴を脱がした。入口近くのクローゼットに仕舞い、スリッパを持ってきてやる。   「部屋の中ではこれを履くんだ。外出る時は靴に履き替える。いいな?」 「詳しいね」 「大人だからな」 「ところで、岳斗さんのベッドは?」    汀は不思議そうに部屋を見回した。   「ツインルームは空いてなかった。ベッドは一個だ」    窓際のソファで食事を済ませたら、風呂を沸かす。バストイレ洗面台が一体になった一般的なユニットバスだが、汀は見たことがなかったらしく、「トイレとお風呂が一緒になってる」と見たまんまのことを言った。桃原荘は浴槽のない共用シャワーだし、家の風呂ももちろんユニットバスではないだろうから、知らなくても当然だ。   「洗う場所ないよ?」 「バスタブの中で洗うんだよ」 「でも、お湯汲んでるじゃん」 「ちょっと浸かったら、お湯抜きながら体洗うんだよ」 「このカーテンは?」 「水が跳ねないように使うの。確か、こう」    俺は、カーテンを浴槽の内側に入れて引いた。   「えー、濡れちゃうじゃん。気持ち悪い」 「こういうもんなんだからしょうがねぇだろ。シャワーしない時は開けっ放しでもいいんだよ、たぶん」    お湯が溜まったので、先に入るように汀に言って、俺は浴室を出た。使い方は一通り教えたから大丈夫だろう。ダブルベッドにごろ寝して、テレビをつけた。桃原荘は小型のブラウン管しか置いていないが、このホテルは薄型の液晶テレビが見られる。しかも、部屋に一台置いてあるのだ。いつでも好きな時に見られるし、チャンネルも自由に変えられる。かつては当たり前だった日常が、今はとても新鮮なものに思えた。放送している番組は、あっちでもこっちでも変わらないが。   「岳斗さん!」    せっかくのんびりしていたのに、汀の切迫した声が風呂場から響いた。   「岳斗さーん、来て! 来てよ!」 「何だよ」    浴室を覗くと、シャワーカーテンは半分以上開けられていた。しかも、中に入れて使えと言ったのに、外側に出されている。   「お前、床濡れてんじゃねぇかよ」 「い、いいじゃん、今は、そんなこと。それより、このシャワー壊れてるよ。お湯も水も全然出ないの」    蛇口を捻ってもシャワーからは何も出ず、代わりにバスタブにお湯が張られる。   「ねぇ、壊れてるよね」 「あー、いや、言ってなかったっけ」    俺は身を屈めて、蛇口の上に付いている栓を上げた。すると、汀の持つシャワーからお湯が出る。栓を下げると、蛇口からお湯が出る。   「こういう仕組みだ」 「なるほど~」 「まぁ、初めてだと分かんないかもな。説明書きもないし」    新しい玩具を手に入れた子供のように、汀は興味本位で栓を上げ下げした。勢いよくシャワーを出すので、そこら中に水滴が飛び散る。   「バッカ、濡れるだろ」 「えへへ、ごめん」    そう言いながら、汀はシャワーを両手に持って、きゃっきゃと無邪気に笑う。   「ねーぇ、どうせだから、岳斗さんも一緒に入ろうよ」 「こんな狭いところに、二人も入れるわけねぇだろ」    俺は蛇口を締めた。怒涛の水音が止む。半分ほど張られたお湯に雫がぽたぽた滴って、澄んだ波紋を作った。その音がやけに反響して、うるさかった。   「でも、別々に入ったら、お風呂もっかい汲まなきゃいけないんだよね? 面倒じゃない?」    汀がバスタブから身を乗り出すので、努めて視界に入れないようにしていた薄桃色の二つの突起が、蛍光灯の光にはっきりと照らし出された。しっとりと濡れて光を放ち、先端から水滴が落ちる。ほかほかと白い湯気が立つ体は温かそうで、抱きしめたくなった。   「ねぇ、岳斗さん?」    汀の甘やかな声も、狭い浴室によく響く。俺はシャワーカーテンを掴み、思い切り引いた。   「変なこと気にしてないで、さっさと洗って出てこい」    はーい、という汀の返事が、カーテンの向こうから聞こえた。

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