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九月第三週②

 障子を開けたのは、おばあちゃんだった。真っ暗な廊下を懐中電灯で照らして、停電になったから気を付けるように、とわざわざ教えに来てくれたのだった。どうやら、ちょうど台風の目に入ったらしい。唾を飲む音さえも気になるこの静寂は、そのためだ。    汀が俺の布団で寝ていることに気付くと叩き起こして連れ出そうとするので、俺は咄嗟に、「俺が頼んで一緒に寝てもらってるんです」と訳の分からない言い訳をした。「つまりその、嵐の晩に一人だと心細くて……」と付け加えると、おばあちゃんは納得してくれたようだった。予備の懐中電灯を一本置いて、寝室へ戻っていった。   「……はぁ~~~~」    張り詰めていた緊張の糸が切れる。それは汀も同じらしく、タオルケットを蹴り飛ばして溜め息を吐いた。服を着せている暇なんてなかったから、タオルケットの下はもちろん素っ裸である。もしもおばあちゃんに剥ぎ取られていたら、どうなっていたか分からない。   「もう……ばぁちゃんってば、ほんとタイミング悪い」    すっかり熱が冷めてしまったようだ。無理もない。俺だって、高校生の頃に自室で自家発電に勤しんでいた時、母親にドアをノックされた時は一瞬で萎えた。汀は裸のまま、再びタオルケットに包まった。   「せめて服着ろよ」 「だってもう、めんどくさい。岳斗さん着せて?」 「甘えん坊め」    しかし、もしまたおばあちゃんがやってきてこの状態を見られたら、今度こそあらぬ誤解を――誤解ではないが――受けるかもしれないので、俺は汀のおねだりに応えた。台風の目は抜けたようで、雨戸の向こうは再び風が吹き始めていた。        朝になっても、雨戸を閉め切っているから暗い。暴風域は抜けたようだがいまだ風が強く、雨が降りしきっている。停電もまだ続いており、懐中電灯にビニール袋を被せて食堂の明かりを取り、昨夜作っておいたおにぎりと漬物で朝食となった。    昼前になってようやく、雲の切れ間に光が見え始める。それからあっという間に雲が晴れ、台風一過の天気に恵まれた。扉や窓の隙間に詰めた古新聞や雑巾を取り払い、濡れた場所は乾拭きをし、内側から打ち付けた板を外して雨戸を開け放つと、家の中は見違えるように明るくなった。    庭を彩る極彩色の花々は、見るも無残な状況に見舞われていた。大量の落ち葉や木の枝がそこら中に散乱しており、午後はその後始末に追われた。宿の前の道路も落ち葉と木の枝だらけで、どこから飛ばされてきたのか、トタン板やビニールシートなんかも落っこちていた。    汀と一緒に、集めたゴミを軽トラックの荷台に山積みにして、集落の外れの集積所へ持っていった。同じような車がひっきりなしにやってきて、中には折れた樹木を積んでいる車もあった。一面に広がるサトウキビ畑は、台風前には大の男よりもうんと高く成長していたにも係わらず、全面が無残に薙ぎ倒されていた。    宿へ戻る前に、海へ寄り道をした。昨日、汀が危険を冒してまで見に行こうとしていた海だ。台風の影響は色濃く残り、空は青く晴れているのに、海は鈍く濁っていた。相変わらずの高潮で、打ち寄せる波は荒く、岸にぶつかって白く砕けた。小さな漁船が二艘、港の桟橋に係留されたままになっていたが、悲惨なことに沈没してしまっていた。    汀が行きたいと言うので、ニシの浜へも下りてみた。普段は真っ白な砂浜が酷くくすんで見え、たくさんの漂流物が打ち上げられていた。巨大な流木や生き物の死骸、海藻や珊瑚や貝殻の残骸といった自然物から、ポリタンクやコンテナー、大陸から流れ着いたらしいボトルや、元は看板だったらしい板切れ、ガラスの浮き玉といった人工物まで、大小様々なものが散乱している。   「これじゃ、しばらく泳げそうにないね」    汀は残念そうに呟くが、案外楽しそうな足取りで砂浜を歩いた。漂着物は多いが、足下はスニーカーで守られているので心配ない。何かを探すように俯きながらあっちこっちへうろうろし、ふと立ち止まってしゃがみ込むと、俺を呼んだ。   「岳斗さん、軍手」 「俺は軍手じゃねぇんだけど」    そう言いつつ、ポケットから軍手を出して渡す。汀はそれを手に嵌めて、瓦礫の山を漁り始めた。   「何してんだよ。汚れるぞ」 「んー、ちょっと、探しもの」    自然物とも人工物ともつかない、よく分からない木切れやらゴミやらがごちゃごちゃと寄せ集まっているだけの場所で、一体何が見つかるというのか。しかし、汀は熱心に瓦礫の山を掻き分ける。   「あっあっ! あったあった!」    汀が嬉しそうに言うので見せてもらうと、ころころとした小さな貝殻が小さな掌にのっていた。砂利まみれで、一見すると大した価値のないガラクタに思えたが、東屋近くの水道でゴミを洗い流すと、実に美しい貝殻に生まれ変わった。    海の色を閉じ込めたような、淡い瑠璃色の巻貝。汀の唇と似た色艶の、薄桃色のタカラガイ。どちらも二個ずつあり、汚れや欠けの少ない方を選んで俺にくれた。   「おそろいね」    笑うと、可愛い八重歯がちょこんと覗く。   「おっきいのが岳斗さん、小さい方がおれの」 「いいのか? 大きい方もらって」 「うん。だって、小さいと失くしちゃいそうだし、岳斗さん」 「失くさねぇよ、失礼だな。前にもらった貝殻も星の砂も、ちゃんと大事に取ってあるんだぞ」 「ほんとにー?」 「おばあちゃんにもらったガラスの小瓶に入れて、部屋に飾ってるだろ。よく知ってるくせに」    すると、汀は鈴を転がすような声できゃらきゃら笑った。   「知ってた」    野性的な二本の八重歯が覗く口元が、本当はどれだけ柔らかいのかということを、俺はよく知っている。知っているから触れたくなる。触れれば摘まみ食いしたくなることも分かっている。けれども、背後では若い女性――おそらく台風で足止めを食っている旅行者――の笑い声が響くし、砂浜の清掃に来たらしい島民のがやがやとした喋り声も聞こえてくる。   「ねーねー、岳斗さん」    俺の葛藤をよそに、汀は宝探しに夢中だ。また、何か目ぼしいものを見つけたらしい。貝殻よりもずっと大きい何かを、汀は両手で掴むと、俺の目の前に突き出した。斑模様で半透明の、ぶよぶよとした浮袋のような謎の物体だ。俺は思わず飛び退いた。   「なっ、何だよこれ、気持ち悪ぃもん拾うなよな」 「えー、クラゲだよ?」 「クラゲって毒あるだろ、早く捨てろ」 「これは毒ないやつだよ。どっちにしろ死んでるし」 「あっそう……」    毒があろうがなかろうが、ぶよぶよしているのが気持ち悪い。水族館で見るクラゲは綺麗で好きなのだが。   「あーっ、もしかして岳斗さん、クラゲ苦手なの?」 「んなわけあるか」 「虫も嫌いだっけ」 「虫は平気だ」 「じゃあクラゲは?」 「……」    汀は、悪戯坊主さながらににんまり笑うと、クラゲを持ったまま追いかけてきた。もちろん俺は逃げた。追いかけられれば逃げるだろう。軽トラを停めておいたアスファルトの道へ出る前に汀に追い付かれ、背後から思い切り抱きつかれたが、クラゲは既にどこかへ放り捨てられていた。

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