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第4話

 昼休みの終わりを告げるベルが鳴っても、三鶴は立ち上がることが出来なかった。教室に戻り、古賀の目に触れることが恐ろしい。  かといって家に戻れば言葉が伝わらない地球人の義母がいて、おそらく地球語であろう嬌声をあげている。  ふと自分の手を見下ろすと、抱えていたはずの弁当箱がなくなっていた。どこで落としたのか記憶にない。探しに行く気力もない。  どこにも行き場が無い三鶴は、灰色の空を見上げた。雨が落ちそうな雲が一面に広がっている。傘を持ってこなかったなと思うが、雨に濡れようが風邪をひこうが、だれにも損得があるものではない。自分なんて濡れそぼって路傍に立ち尽くすのがお似合いなのだ。  ふと、焦げ臭いにおいが鼻についた。湿気の多い風にのって漂ってきたのは煙草のにおいだ。  学内は、当たり前だが禁煙だ。においはどうやら上階、屋上から漂ってくるようだ。  素行の悪い生徒がたむろして煙草を吸っているところを想像した。扉の鍵もそいつらがこじ開けたのではないか。そうだとしたら、ここにいるところを見つかったら暴力を振るわれるかもしれない。  三鶴はそっと立ち上がると、非常階段をあとにしようと扉のノブに手をかけた。  だが、ふと動きを止める。なぜか見てみたくなった。地球人がたむろする教室から抜け出して、禁じられた煙草を吸う不可解な生き物を見てみたかった。  音を立てないように気をつけながら、三鶴は鉄製の階段を上っていった。  屋根もなく雨ざらしの階段を上り、屋上まであと三段というところで足を止めた。身をかがめて階段の陰に隠れ、そっと目だけを出して様子をうかがう。  屋上にいるのは一人だけ。危険など感じさせない覇気のない男だ。  フィルター近くまで灰になった煙草をコンクリートの床に投げ捨て、靴で踏み潰す。白衣のポケットに手を突っ込み、煙草の箱を引っ張り出す。  男は斯波だった。いつも通りの無表情のようにも見えるが、それよりもどこか寂しげなようにも見えた。  よく見ると斯波の足元には何本も吸い殻が散らばっている。今、口に咥えた煙草も、一息で半分ほども灰にしてしまった。 「サボりか」  斯波がボソッと呟いた。三鶴はびくりと肩をすくめる。  斯波はそれ以上なにも言わず、二口で煙草を一本灰にした。吸い殻を投げ捨て、踏み潰す。またポケットから煙草を取り出し、火をつける。  チェーンスモーカーだ。途切れることなく煙草を吸い続ける。三鶴の祖父もそうだったのだと亡き母が話していたことを思い出す。大好きな煙草がたたって肺がんで亡くなったそうだ。  そんな危険をおかしてまで吸いたくなるほど良いものなのだろうか。斯波の表情を見るだけでは、味わっているのか、ただ煙を吹きたいだけなのか判別出来ない。 「美味しいんですか?」  口から転がりでた言葉に驚いて、三鶴は両手で口を覆った。斯波は気にするでもなく煙草を吸い続ける。  やはり地球人には自分の声は聞こえないのだと、三鶴は階段を降りようとした。 「べつに」  吸い殻を投げ捨てた斯波が呟いた。 「美味いものじゃない」  そしてまた煙草を一本口に咥えた。  なんとなく立ち去りかねて三鶴は灰になっていく煙草をじっと見ていた。オレンジ色の火が、斯波が息を吸うたびに真っ赤になって、白い紙に包まれた煙草を焦がしていく。  長い尾を引いて落ちてくる隕石のようだと三鶴は思った。  斯波が煙草の箱をくしゃっと握り潰した。燃える煙草に見入っていた三鶴は、ハッとして立ち上がった。斯波は煙草の箱も足元に投げ捨てると、非常階段に向かってきた。三鶴の側をすり抜けて階下に向かう。  思わず半身を引いて道を開けていた三鶴は、斯波の背中をぼんやり見つめた。 「来ないのか」  階下から斯波の声がする。 「鍵をかけるが」  斯波が人のことを気遣うことがあるなどと考えたこともなかった。三鶴は驚いて動けなくなった。 「一階の非常階段の扉は内側からなら開く。じゃあな」  扉が開くときの金属がこすれる音がした。三鶴は階段を駆け下りた。斯波は三鶴の姿を見留めると、扉を大きく開け、三鶴を通してくれた。  扉が閉まる金属音は低く重く、三鶴の浅い呼吸を深く鎮めてくれた。  なんとなく斯波の後について歩く。斯波の白衣は皺一つなく、真っ白で、洗濯洗剤のコマーシャルにでも使えそうだ。  斯波自身も神経質そうで潔癖なところがありそうに見える。白い肌に汚れが付くところなど想像出来ない。  化学室の隣、化学準備室と掲示された狭い部屋の鍵を開けて斯波は中に入った。三鶴が立ち止まり、扉を見ていると「入らないのか」と斯波が声をかけた。 「鍵をかけるが」  授業の終わりを知らせるベルが鳴った。地球人たちが廊下に出てくる。三鶴は逃げ場を求めて扉をくぐった。  斯波は扉に鍵をかけると、白衣を脱いだ。部屋の隅に置かれたコート掛けに白衣を掛け、消臭剤をスプレーする。白衣を水浸しにしようとしているのか、執拗にいつまでもスプレーし続ける。煙草のにおいを消すためだといっても、やりすぎのように思われた。  ぽたりと白衣から消臭剤が液垂れした。次の授業で消臭剤浸しの白衣を着るのだろうかとぼんやり考えていると、斯波がスプレーを三鶴に向けた。 「うわ!」  頭から消臭剤を吹きかけられて、三鶴は両腕で顔をかばって身を捻った。それでも斯波はしつこくスプレーし続けて、三鶴のワイシャツの背中はじっとりと濡れた。  ようやく斯波がスプレーを下ろしたときには三鶴の体は冷えて震えていた。 「僕、臭いですか?」  義母が三鶴のシャツを洗濯しないまま丁寧に畳んでタンスの引き出しにしまうことがある。三鶴はその嫌がらせに反抗する気力もなく、汚れたままのシャツを着る。今日も、洗濯されぬままのシャツを着ていた。 「べつに」  斯波は興味もなさそうにぼそりとつぶやく。 「除霊効果があるらしいからな」  なにを言われたか一瞬わからず戸惑ったが、「ジョレイ」が「除霊」らしいと気づくと、濡れて冷たかった背中がさらに冷たくなったように感じた。 「先生は霊感があるんですか?」  幽霊に憑依されているなどと言われたらどうすればいいのかと慄きながら訪ねたが、斯波は興味なさそうにしているだけだ。 「べつに」  「じゃあ、なんで除霊とか……」  もう一度、おまけという感じで消臭剤を三鶴にスプレーした斯波は、初めて三鶴の目を見つめた。 「取り憑かれてるだろう、人間に」  短く言うと、もう三鶴への興味をなくしたようで、部屋の隅に置いてある机について、積んであるノートを開いた。生徒の課題を採点しているようで、赤のボールペンをひらめかせている。  出ていけとも言われず、かまわれることもない不思議な静けさが満ちた化学準備室から出ていく気にならない。三鶴はほったらかしになっている三脚の丸椅子のうちの一つに腰掛けた。  初めて入った部屋を観察する。壁に据えられた金属製のキャビネットには薬品の瓶がずらりと並んでいる。おそらく取り扱いに注意が必要なものなのだろう。キャビネットには鍵がかけてあるようだ。  反対の壁際にもキャビネットがあるが、こちらには実験に使う器具がしまわれている。三鶴が知っているのはビーカーやフラスコ、試験管程度だ。見たことのない複雑なガラス製の器具を興味深く観察していると、斯波が立ち上がった。  ノートの角を几帳面に揃えて机の隅に積む。ガラス器具が入っている方のキャビネットの下段を開け、インスタントコーヒーの瓶と紙コップを取り出した。  三鶴が見つめていた器具も取り出し、水を入れ、アルコールランプで熱し始めた。 「コーヒー飲むか?」 「飲んだことありません」  斯波は二つの紙コップに粉を入れて湯を注いだ。すぐに焦げたような少し酸っぱいような香りが漂う。紙コップを一つ手渡され、三鶴はコップに鼻を近づけてみた。  立ち上る湯気が香ばしさとほんの少しの甘さで鼻を温めて、気持ちが落ち着いた。そっと口をつけてみると、強い苦味と混ぜられぬままの粉っぽさが舌を襲う。 「不味いだろ」  三鶴は素直にうなずく。 「豆を切らしているんだ。仕方なくインスタントコーヒーを買ってみたが、だめでな。早く消費したいんだが」  とても深刻な話をしているかのような深い溜め息をついて、斯波はガラスの器具を片付けようと手を伸ばした。だが、ふと動きを止めて三鶴を見つめた。 「もっと飲むか?」  三鶴は首を横に振った。斯波は悲しそうに湯を捨てた。 「ごちそうさまでした」  なんとか苦すぎるコーヒーを飲み終え、三鶴は立ち上がった。斯波は紙コップの中を覗いて溶け残った粉に気づいたようだ。 「次はスプーンを準備しておく」  鍵と扉を開けてもらって、三鶴は廊下に出た。扉はすぐに閉まり、鍵がかかった音が聞こえた。  三鶴の口の中にはコーヒーの苦さが残っていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。

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