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第7話
水滴が頬に当たって目が覚めた。昨日から曇っていたが、とうとう雨が降り出した。
腕時計を見ると、午前五時二十三分。学校の門が開く七時まで、どこかで雨宿りをしなくてはならない。
夜明かしした児童公園のベンチがしっとりと濡れてきた。狭い公園だ。ベンチの他にはブランコと鉄棒しかない。三鶴は立ち上がると、駅前の商店街に向かった。
昔ながらの商店街にはアーケードがあり、雨に濡れる心配がない。まだ早い時刻、店はどこもシャッターが閉まっている。地球人の目がない通りをぶらぶら歩いていると、地球にたった一人だけになったような気がした。
地球人は全員、宇宙に旅立って、異星人の自分だけが取り残された。
故郷でもないこの地球で一人、生きていかねばならない。そう考えると、気分がすっきりして思わず深呼吸をした。湿気の多い空気も、地球人が吐いたものではないと思うと、爽やかに感じられる。
しばらく歩いていると、豆腐屋がシャッターを開けているところに出くわした。怪訝な表情で見られ、三鶴はカバンを抱きしめて足早に通り過ぎた。
七時に校門を開けたのは、夜間校内にいるらしい警備員だった。黙ったまま門を開け、校舎の方へ戻って行く。声をかけられることなく校内に入れて、三鶴はほっと胸をなでおろした。
校舎に入り、なにをするでもなく最上階まで階段を上った。非常階段に続く扉を押してみた。鍵がかかっているような手応えがある。ノブを回してみると、やはり開いてはいない。
外は雨なのだ。吹きさらしの屋上で煙草を吸う者がいるわけはない。
それ以前に、登校しているのは三鶴以外には、早朝練習のある運動部の顧問と生徒くらいだろう。
人気のない廊下は夜気で冷やされ、雨に濡れた三鶴を凍えさせる。 両腕を体に巻き付けて暖を取ろうとしても、腕も濡れている。より寒くなるだけだ。
動いて体を温めようと校舎内を歩き回る。だが、昨日からなにも食べていない体に燃焼するだけのエネルギーはなかった。冷えは治まらず、ただ足がつかれて空腹が酷くなった。
教室に戻って座っていれば、運動部で登校時間の早い古賀に見つかるだろう。三鶴は人が通ることが少ない特別教室が並んだフロアの階段に座り込んだ。
腕時計の針が動くのを見ても、時間はちっとも進まない。一秒が異様に長い。まるで古賀に首を絞められたときのように、いつまでも終わらないのではないかと思う。
思い出しただけで顔が青くなる。いつか古賀は本当に三鶴の息を止めるために、首を締め上げるかもしれない。
階下から足音がして三鶴は隠れようと、階段を上り、踊り場の手すりから目だけを出して階下を覗いた。
上ってきたのは斯波だった。出勤したてなのだろう、白衣を着ていない。
コンビニのマークが入ったビニール袋をぶら下げている。
そのまま化学室の方へ行くのかと思って見ていたが、斯波は階段を上ってきた。しゃがみ込んでいる三鶴をちらりと見やっただけで隣をすり抜けて屋上に通じる扉の前に立った。ポケットから鍵を取り出したが、すぐにしまった。
「コーヒー、飲むか?」
そう言いながら振り返った。まだ寝ぼけているかのような、ぼんやりとした視線を受けていると、はたして斯波が地球人なのか判断がつかなくなってきた。
誰もかも、三鶴を見る地球人の視線は、無関心か攻撃的か下心を感じさせるかのどれかだ。
だが、斯波は確かに三鶴を見ているのに、悪意はまったく感じさせない。
三鶴が立ち上がると、斯波は階段を下りていく。後に続いて行き、化学準備室に入ると、斯波は当然のように鍵を閉めた。
ガラス器具で湯を沸かしながら、キャビネットの下段からインスタントコーヒーと紙コップを取り出した。コンビニのビニール袋からスティックタイプの砂糖と、みかんゼリーを二個、小袋に入ったプラスチックのスプーンを二本取り出す。
「みかんゼリー、食えるか?」
三鶴が頷くと、斯波はゼリーを二つとも三鶴の前に置き、スプーンも添えた。
「スプーンが売られていなかったんだ」
紙コップにインスタントコーヒーの粉を適当に振り入れ、湯を注ぎ、プラスチックスプーンで丁寧に混ぜる。まるで科学の実験で価値ある液体を精製しているかのような手付きだ。
手渡された紙コップを覗くと、やはり苦く酸っぱいにおいがする。味を思い出して眉を潜めると、斯波が砂糖の袋を差し出した。
スティックを一本入れてかき混ぜてみたが、苦さはまったく変わっていない。もう一本入れていいだろうかと上目遣いに斯波を見てみると、三鶴がいることなど忘れ去っているかのように、コーヒーに集中している。
砂糖を使いすぎているところを見つかったら、呆れられて蔑まれるかもしれない。斯波には三鶴にコーヒーを奢るいわれなどないのだ。三鶴には与えられたものを、ただ摂取することしか許されない。
「みかんゼリーとコーヒーは合わないか……」
ぼそりと斯波が呟いた。
「コーヒーゼリーが良かったかもな」
独り言なのか三鶴に話しかけているのかわからない。だがみかんゼリーを食べる許可を受けていることを思い出し、三鶴はゼリーカップの蓋を開けた。
みかんシロップの甘みでコーヒーも飲めた。
「コーヒー、お代わりしないか?」
二つ目のゼリーの蓋を開けたところで斯波が問うた。三鶴の紙コップには一口分ほどしかコーヒーが残っていない。
斯波はガラス器具に残っている湯をちゃぷちゃぷと揺らしてみせる。
「早く消費してしまいたいんだ」
不味いからだと言っていた。三鶴は頷いて紙コップを差し出した。
苦くてどうしようもないと思っていたコーヒー、空腹に染み入るようなゼリー、温まった体。なにか不可思議な感情が胸の底に湧きだした。じわじわと井戸水のように満ちていく。
「砂糖も好きなだけ使え。俺は使わないから」
自分のためだけに用意された甘い甘い砂糖。ここは地球から切り離された脱出ポッドなのかもしれない。三鶴は砂糖を三本使って、生まれて初めてコーヒーを美味しいと思った。
化学準備室を出ると、やはり鍵をかける音がした。斯波は私室として使っているのかもしれない。授業時間以外に生徒が特別教室に立ち入ることは禁じられている。斯波が居座っても誰も困らないのだろう。
斯波も地球人の目から逃れて、どこかへ行ってしまいたいのかもしれない。そんな気がした。
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