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第10話
ふと気づくと、机に突っ伏して眠っていた。一瞬、自分がどこにいるのかわからず、ぼんやりと辺りを見回す。
机の上にはアルコールランプの青い火と、湯が沸いてぽこぽこと気泡が上がるガラス器具がある。コーヒーの香りがして、斯波が紙コップを口につけている姿が見えた。
体を起こしてみると、肩に白衣がかけられていた。化学準備室に招かれるまでは、白衣姿の斯波しか知らなかったのに、今では白衣を着ていない姿のほうがしっくりくるように思う。
砂糖を三本入れたコーヒーを黙って三鶴の前に置きかけて、斯波がふと手を止めた。
「コーヒーを飲み慣れていないなら、急に飲みすぎると、眠れなくなるかもしれないな」
斯波は視線だけで、どうするかと三鶴に問う。言葉のない問いかけが、すうっと身に染み込んできて、三鶴は亡くなった母と目を見かわして笑いあったことを思い出した。
「いただきます」
紙コップを受け取って口を付ける。コーヒーの香りにもすっかり馴染んだ。味は美味しいとは言えなかったが、心が落ち着く。部屋いっぱいにコーヒーの香りが広がって、静かな雨の音が耳に柔らかい。
また眠りそうになっている三鶴の手から紙コップをそっと取り上げて、斯波はアルコールランプの火を消した。
結局、三鶴は放課後まで化学準備室で、うとうとと眠っていた。斯波は授業時間のベルが鳴るたびにそっと部屋を出入りしたが、目を覚ますこともなかった。
放課後、生徒皆が移動するざわめきで、三鶴は目を覚ました。斯波はおらず、雨雲のせいで部屋の中は暗かった。薬品の瓶やガラス器具が鈍く光り、三鶴を不安な気持ちにさせた。この世界にたった一人、異星の言葉しか持たない悲しみ。いつまでたっても慣れない痛みだ。
鍵が開く音がした。
途端に、感じていた痛みがすっと消えた。扉が開き、廊下の明かりが差し込む。白衣姿の斯波が部屋の灯りをつけた。
白々した蛍光灯の灯りが、いつもより眩しく、室内が清浄な空気に満ちているように感じられた。
斯波が白衣をコートかけにかけたが、消臭スプレーを手に取らない。かわりに白衣のポケットから煙草の箱を取り出して、においを嗅いだ。吸いたくてたまらないらしい。
「担任が呼んでいたが、どうする?」
煙草の箱をしまいながら、斯波が気のない様子で尋ねる。どうするという問いが、どういう意味か、三鶴にはわかりかねた。じっと斯波を見つめて黙っているが、斯波も黙っているだけだ。
「どうしたらいいんでしょう」
ぽつりと呟くと、斯波は天井を見上げて、煙草の煙を吹くような表情で、ふうと息を吐いた。
「逃げるか、」
しばらく黙っているのは三鶴が考える時間をはかっているのかもしれない。
「立ち向かうか」
逃げるという選択肢は三鶴も考え至った。武藤に従って痛いほど地球語を浴びせかけられることも予測できたからだ。
だが、立ち向かうという言葉がなにを意味するか、まったく考えつかない。
「武藤先生に立ち向かうって、なにをするんですか」
斯波は机の引き出しを開けて、奥の方をごそごそ引っ掻き回し、小さな機械を取り出した。
「ボイスレコーダーだ。担任との会話を録音して、上の方に突きつけるという手もある」
一瞬で三鶴の顔色が青くなった。自分の手で武藤に反抗すれば、どんな報復が待っているかわからない。
三鶴は何度も小さく首を横に振った。斯波は黙ってうなずくと、引き出しには戻さず、ボイスレコーダーを白衣のポケットに入れた。
逃げることも立ち向かうことも出来ない三鶴は、真っ青な顔色のまま立ち上がった。小さく頭を下げて部屋を出る。化学準備室の鍵が閉まる音が、やけに大きく耳に響いた。
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