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第11話
職員室へ行くと、武藤は古賀と笑顔で話をしていた。三鶴はびくりと震えて立ち竦む。
古賀が三鶴に気づき、優しげな笑顔を向ける。
「東谷くん、体調はどう?」
今すぐにでも逃げ出したい。三鶴を散々に嬲った古賀の、邪気を感じさせない笑顔が何よりも恐ろしい。
返事が出来るわけもなく、足は勝手にじりじりと扉に向かおうとする。
「東谷、なぜ返事をしない」
低い声で武藤が脅すように言う。
「古賀が心配してくれてるのに、お礼も言わんのか」
「いいんです、先生。東谷くんが口下手なのは知ってますから」
親切な同級生であるかのように装う古賀に、武藤は厳しい顔を見せる。
「口下手とは違うぞ。東谷は礼儀を知らんのだ」
武藤は大股で三鶴に近づくと後頭部に手をかけ、むりやり頭を下げさせた。
「ほら、こうして礼を言え」
ぐいぐいと押さえつけられて倒れそうになる。足を踏ん張って立っていることに必死で、口を開く余裕もない。
「強情なやつだ! 礼も言わなければ、授業をサボった詫びも言わんのか。それなのに斯波先生には取り入ってるのか」
頭を押さえている力が強すぎて、三鶴は膝をついた。武藤には三鶴が自主的に座り込んだものだと思えたらしい。
「それが詫びのつもりか。土下座も出来ん、頭も下げずに、口も開かん。どうしようもないな」
武藤は自分の席につくと学生名簿を出し、受話器を上げて電話をかけ始めた。
「保護者を呼ぶぞ。俺にはもう手のつけようがない」
「父は出張で留守です」
か細い声で言ってみたが、武藤はまったく聞いていない。電話が通じたようで、話しだした。
「三鶴くんの担任の武藤と申します。お母様でしょうか?」
義母が武藤と話している。武藤の乱暴な声と義母の甲高い地球語の会話だ。三鶴の言葉は二人にはどうやっても通じない。真っ青になった三鶴の腕を古賀が取った。
「大丈夫?」
助け起こしながら耳にそっと口を近づける。
「羨ましいなあ、ママが見ていてくれるなんて。武藤がお前を虐めるところを」
「やめて……」
呟いても、すでに三鶴の腕を離した古賀には聞こえない。職員室を見渡すと、教師たちは遠巻きに武藤の行動を見ているだけで、誰も三鶴を見ていない。この星でたった一人、異星人である自分を。
三鶴はよろよろと立ち上がると、武藤が話している電話機のフックに手を伸ばし、通話を断ち切った。
「なにをするんだ、東谷!」
「僕の母は死にました」
口の中だけで呟いてみる。何年も前のことだというのに、その事実が三鶴の胸を塞いだ。
「親にも反発しているのか! 育ててもらっている恩も感じないとは。どこまでも情けないやつだ」
古賀が武藤の陰に隠れてニヤニヤと笑っている。武藤は今にも三鶴に飛びかかってきそうだ。家に戻れば義母が金切り声を上げて三鶴を脅しつけるだろう。
地球人のいないところに行きたい。強く湧き上がった思いに急かされて、三鶴は職員室を飛び出した。
「東谷!」
武藤の声と足音はすぐに聞こえなくなった。
雨の中を走り続けた。自宅とは反対方向の隣町に辿りついた。古ぼけた住宅が並ぶ、煤けたような町だ。駅前にある商店も営業していない店ばかりだ。
濡れつづけてさすがに寒くなった。三鶴は廃業したらしい喫茶店の軒先に座り込んだ。広い雨除けテントがあるだけでも、ありがたい。
だが、すでに濡れてしまった体は乾燥することもなく、どんどん冷えていく。
ふと、コーヒーのにおいがしたように思った。背をもたせかけている喫茶店の往時の残り香かと扉に鼻をつけて嗅いでみたが、この辺りの雨で湿ったアスファルトのにおいしかしない。
温かいコーヒーが飲みたかった。砂糖など入っていなくてもいい。インスタントの粉が溶けきっていなくてもいい。
化学準備室の鍵が閉まった音が胸に迫る。異星人である自分に、自由に開けることが出来る扉など存在しないのだ。
鍵が閉まった扉のこちらに残されたものは、知ったばかりのコーヒーの香りだけだった。
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