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第12話
気づくと膝を抱いて眠っていた。時刻は午前六時過ぎ。昨日、化学準備室でほぼ一日寝ていたというのに、疲れは取れていなかったようだ。
もしかしたら、傷ついた性器が疲労の元かもしれないと、三鶴は股間を押さえてみた。痛みはだいぶ弱くなっている。
異様にだるい。寒くてしかたない。どうやら熱があるようだ。雨に濡れたまま眠ってしまったのだ、当然の結果だろう。
雲は厚いが、ありがたいことに雨は上がっている。三鶴は力の入らない足で、なんとか立ち上がると、学校に向かって歩いていった。
校門はすでに開いていた。自分のクラスまでの階段を息を切らしながら上る。一昨日から、ほとんど食べ物を口にしていない。息切れするのが熱のせいか、栄養不足のせいか判然としない。
教室に辿りついたときには目眩がして倒れそうだった。
まだ保健室は開いていない。たとえ開いていても、三鶴がいると知れば、武藤も古賀もやってくるだろう。とくに古賀には、カーテンで仕切られたベッドの上で、なにをされるかわからない。
三鶴は置きっぱなしのカバンを抱えてトイレの個室に引きこもった。
次に目を開けたのは、昼休みの初めを知らせるベルの音を聞いたときだった。
カバンを抱きしめて寝ていたが暖は取れず、熱はますます上がっているようだ。
数人の男子生徒が、馬鹿笑いしながらトイレに入ってきた。個室は二つあるが、もしかしたら扉をノックされるのではないか。そうしたらどう反応すればよいのか。
三鶴は緊張して耳を澄ませた。幸運なことに生徒たちは個室には興味も向けずに出ていった。ホッとすると力が抜けて、また眠ってしまった。
「おーい。便秘か?」
ノックの音で目を覚ました。
「長い糞でもヒリ出してるのか?」
扉の向こうでゲラゲラと嗤う声がする。三鶴は恐怖で身を縮めた。
どうやら昼休みの初めにやってきた生徒たちのようだ。今は昼休みも終わりに近づいた時刻。閉まったままの個室に気づき、悪ふざけを考えついたらしい。
「返事しろよ」
ノックの音は強くなり、扉は強く振動して今にも破られそうだ。
「無視か」
「どんなやつか覗いてやろうぜ」
一人の生徒が隣の個室に入り、便座の上に立ったようだ。頭がひょっこりと壁の上に突き出した。
「あれ、東谷じゃん。休みじゃなかったのかよ。もしかして、朝からずっとここにいたのか?」
話しかけてきたのは、同じクラスの生徒だ。三鶴はこの生徒の名前を覚えていない。
「トイレ大好き人間なんだな。それともやっぱり、えげつない糞し続けてんのか」
扉の向こうにいる生徒が鼻をつまんでいるらしい声で「くっせえ」と吐き捨てる。三鶴が潜んでいた個室に悪臭などないことをわかっているのに、「くせえ」「くせえ」と囃したてる。
「においを消してやるよ」
隣の個室の生徒が顔を引っ込めた。消臭スプレーなど持ってはいないだろうにと三鶴がぼんやり考えていると、個室の壁越しに水が降ってきた。
「もっとかけてやれよ。清潔にしてやろうぜ」
バケツで汲んだ水をぶちまけているようで、短いスパンで水道水を溜めている音がする。
バシャバシャと水音がして、頭から水をかけられる。それが数分続いた。
昼休みの終わりを告げる予鈴がなった。
「じゃあな、東谷。古賀が助けてくれるといいな」
バケツを投げ捨てたらしいガランという音を残して、足音が遠くへ去っていく。
ここにいたら古賀に見つかる可能性がある。そのことに初めて思い至り、三鶴はぞっと血の気が引くのを感じた。
なんとか逃げ出さねば。そう思うのに、熱のある体はうまく動いてくれない。頭から水をかけられたせいで、寒さに震える。
怖い、でも動けない。いっそのこと、ここで命が終わればいいのに。そう思うのは熱の辛さのせいか、それとも本当の気持ちなのか。三鶴にはわからない。
それから二時間、三鶴は朦朧とした頭で、逃げなければと考え続けていた。
酷い頭痛と吐き気に襲われて、寒気に震えて、どこにも行けない。
古賀は来ないかもしれない。先程の生徒たちは、もう三鶴に関心など持っていないだろう。助けてやれと優等生の皮をかぶった古賀に進言することなど考えられない。
終礼のベルが鳴った。ざわめきが三鶴の耳にも届く。
「あっれー。東谷、まだいたのかよ。よっぽどトイレが好きなんだな」
笑い声とともに、バケツに水を汲んでいる音が聞こえる。
「出てこいよ、今度は正面からかけてやるよ」
きっと三鶴を痛めつけるときの古賀と同じような顔をしているだろう。だが水をかけられるくらいなら、古賀に見つかるよりまだマシだ。
ドアノブにすがりついて、なんとか立ち上がる。鍵を開けて、ノブを回そうとしたが、その場でずるずると崩折れてしまった。
鍵が開いたことに気付いた生徒が扉を開けた。扉にもたれていた三鶴は床に倒れこんだ。
目が開くと側に父がいた。感情のこもらない目でなにかの書類を読んでいる。
三鶴が目を覚ましたことに気付いたが、ちらりと視線を移しただけで、すぐに書類に目を戻した。
なにが起きたか覚えていない三鶴は、首をめぐらした。自分が寝ているベッドを取り囲む水色のカーテン。腕に繋げられた点滴。どうやら病院らしい。
足元のカーテンが引き開けられ、若い男性の看護師が顔を見せた。
「東谷さん、気づかれましたか。すぐに先生を呼んできます」
看護師が話していても父は微動だにしない。三鶴に話しかける気は全くないようだ。
二十分ほどして、メガネをかけて優しそうな中年の医師がやってきた。
「東谷さん、ご自分の名前は言えますか?」
「……東谷三鶴です」
「なにがあったか覚えていますか?」
学校にいた記憶は、うすぼんやりとあるが、その後なにがあったか、どうして病院にいるのかは分からない。三鶴は小さく首を横に振る。
医師は三鶴の腕を押さえたり、口の中を見たり、いくつかの診察をした。
「脱水症状がひどかったんですよ。今はだいぶ回復しましたね。それと、肺炎になりかけています」
医師が話しやめて父の顔を見るが、やはり父は動かない。
「二、三日、入院が必要です。安静にして、栄養を取りましょう」
三鶴は小さくうなずく。医師は父に向かって話しかけた。
「お父さん、息子さんは安静もですが、よく気をつけてあげることも必要です。見ていてあげてください」
父は医師にちらりと視線をやると、深々と頭を下げた。そのまま頭をあげようとしない父を医師はため息混じりに見下ろした。
「じゃあ、よく休んで。心配いらないからね」
医師が出ていくと、父は体を起こし、持っていた書類を三鶴の腹の上に放り投げた。そのまま、口を開かず父は病室から出ていった。
書類は入院に対する注意点や、準備すべき日用品、それと入院申込書兼誓約書という重要書類もある。
未成年者のため、入院申込書は保護者が記入することになっている。だが、用紙はすべて空欄だ。三鶴にはどうしようもない。
「東谷さん……、あら」
事務服を着た女性がバインダーを持ってやってきた。
「ええと、お父さんはどちらに? 書類の提出をお願いしたいんですけど」
三鶴は黙って首を横に振る。父がここに戻ってくるとは思えなかった。
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