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第13話

 最後に父の言葉を聞いたのはいつだったろう。父はいつも母に、理解できない言葉を喚き散らしていた。三鶴は恐れて自分の部屋に閉じこもって、父の声が聞こえなくなるまで布団をかぶって震えていた。  父が出ていき、玄関の扉が乱暴にしまった音がすると、母が部屋にやってくる。母も震えていて、顔が紫になっていたり、口の端に血がついていたりした。 「お母さん、痛い?」  聞くと、母はいつも弱々しく笑って首を横に振った。 「お母さんは、三鶴がいてくれたら大丈夫。なにがあっても大丈夫よ」  そう言って三鶴を抱きしめた。  病死した母は、一度も病院に行けなかった。生活費すらろくに渡されず、働くことは許可されず、食費にも事欠いていた。三鶴を食べさせるだけで精一杯だった。  青い顔をして、日々やせ細る母を見続けた三鶴は「死」というものが身近に潜んでいることを知った。  母の葬儀にも父は帰ってこなかった。ひっそりと亡くなっていた母を見つけてくれた隣人が、母の実家に連絡してくれた。  葬儀に来ない父のことを母方の祖母が罵っていた。 「外聞が悪い!」  三鶴にはなんのことか分からない言葉だった。葬儀の翌日、父が家に連れてきた若い女性のことも外聞が悪いと言って祖母は金切り声を上げていた。 「三鶴、こんな家にいないで、うちに来なさい」  祖父が命令したが、三鶴は首を横に振った。 「お母さんと一緒にいる」  廊下の突き当りに母はいた。いつもと変わらぬ笑顔で三鶴を見つめていた。  だが誰もその姿を見てくれない。三鶴がなにを言っても聞いてくれない。母以外の人間と話が通じなくなってしまった。  それがなぜなのか理解したのは、小学生になって漢字を読めるようになった頃。母の遺品の中から日記帳を見つけた。 『ここは私が暮らすべき星じゃない。本当の故郷はとおい宇宙の先にある。でももうその星は消えてしまった。私と三鶴はたった二人だけ、地球にいる異星人』  だから言葉が通じないんだ。なにを言っても聞いてもらえない。  母と自分は異星人だった。帰る星ももうないというなら、自分は誰と言葉を交わせばいいのだろう。  入院申請書は、父に命じられたらしく、義母がやってきて書いた。目を吊り上げて怒っていたが、担当の看護師がやってくるとコロリと表情を変えた。  若い男性看護師だ。義母はシナをつくって甲高い声で話した。書類の書き方がわからないと看護師に腕を絡めてもみせた。  入院に必要な日用品は売店で買えると言いながら、看護師は義母を病室から連れ出してくれた。やかましい音から開放され、三鶴は枕に頭をあずけて目をつぶった。  同室の老人が低い音でラジオをかけている。チューニングがずれているのか、ノイズが聞こえる。そのノイズが地球語をかき消してくれて、三鶴は穏やかな気持ちで眠りについた。  三日間、入院した。父と義母の顔を見たのは初日だけで、のびのびと手足を伸ばせた。  退院時の精算用に義母が父のクレジットカードを病室に置いていったので、それで支払った。  家に帰ると父も義母も不在で、まだ心地よい病室で夢を見ているのではないかと思った。  廊下を突き当たりまで歩く。今はもう陽炎のようになってしまった母がいる。 「ただいま」  三鶴は異星語を呟いた。  一週間、三鶴は学校に行かなかった。父も義母も帰ることなく、自室にこもってじっとしていた。  彼らが家にいれば突然わめき声を浴びせられるのではないかという恐怖を感じる。彼らが家にいなければ、いつ帰ってくるのかと不安になる。どちらにしてもくつろぐことなど出来ない。  それでも学校でビクビクして過ごすよりは、幾分かマシだった。  週明け、目覚めると、いつ帰宅したのか義母がいた。リビングに小さめのスーツケースが開かれたまま放置されている。使用済みらしい派手な下着から目をそらして、学校へ行く準備を始めた。 「おはよう、東谷くん」  下足室で古賀に捕まった。運動部の朝練の後だろう。ジャージ姿だ。 「大変だったね、入院なんて。もう大丈夫なの?」  三鶴は古賀の目を見ることが出来ずうつむいた。古賀は三鶴の顔を覗き込むと顔をひしゃげさせて嗤う。 「俺から逃げようとするからだよ」  姿勢を戻した古賀が優等生の顔で言う。 「武藤先生も心配してたよ。職員室に行ってきたら?」  ポンと軽く背中を叩かれた。氷柱を突きつけられたかのような衝撃を感じてビクッと震えた。  古賀は満足そうに微笑んで去っていった。

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