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第16話
三鶴に安静が必要だと判断した保険医は古賀を教室に戻らせた。
保健室を出ていきながら、古賀は「放課後、迎えに来るよ」と優しく言い残していった。空っぽの胃から、もっとなにか吐き出しそうなほど気分が悪くなり、三鶴は布団に突っ伏した。
怖くも痛くもないのに、がくがくと震える。冷や汗が止まらず、動悸が激しく、ひどい状態だ。
保険医は病院へ、それよりも救急車をと言ったが、三鶴は保険医の腕を掴んで大きく首を横に振った。病院に運ばれれば、また義母が呼び出される。地球人の金切り声を聞きたくはない。
困り果てた保険医が武藤を呼んできた。武藤は力なく、やはり困惑した様子で三鶴の顔を覗き込む。
「東谷、おうちの方に連絡したんだけどな。え、あー、その。急用で迎えに来られないらしいんだ」
義母は迎えに行く気はないと、はっきり言ったのだろう。三鶴はほっと胸をなでおろした。一人でいられる。たとえ数時間でも、地球人に嬲られる心配がなくなった。
震えは止まらないが、布団に包まれて、少し緊張が緩んだ。
ぼんやりとベッド周りのカーテンを眺めている。何度かベルが鳴り、遠くから地球語のざわめきが聞こえた。
嘔吐して痛む胃に水は入れたが、空腹を感じてかえって辛かった。
空腹を感じたのはどれくらいぶりだろう。最近はなんとか生き延びるためだけに食物を口にしていた。一日に食べたものが菓子パン一つでも、空腹がつらいと感じたことはない。
自分はどれだけ生きていなかったのかと気づいた。灰色の被膜に覆われて、かろうじて酸素を吸っていた。
学校を休んでいた間に、その被膜がだいぶ薄くなっていたのだろう。生きている痛みを思い出してしまった。
たった一人の異星人。帰れる星はなくしてしまった。
孤独だった。
「三鶴くん、調子はどう?」
古賀に声をかけられるまで、三鶴はぼうっと眠っているのか起きているのか判然としない世界にいた。たった一人、まどろんでいた。
「カバン持ってきたよ。歩けるようなら送っていくよ」
優等生の仮面をかぶっている。保険医の前だからだろう。そう思って起き上がってみると、保健室にいるのは三鶴と古賀、二人きりだった。
「よかった。ずいぶん顔色が良くなったね。立てる?」
近づいてきて三鶴の靴を揃える。手を引いてベッドから下りるのを手伝う。まるで三鶴を気遣っているような素振りを見せた。
不気味だ。
なにを企んでいるのか分からない分、直接、暴力を振るわれるより恐ろしい。
「どうしたの? 俺の顔になにか付いてる?」
古賀のきれいな顔が歪むことがない。三鶴に向けられる嗜虐性がかけらも見えない。どこか深いところに隠している。
だめだ。言うことを聞かなければ、今までよりもっと酷い目に合わされる。
「帰ろうか」
手を引かれて、三鶴は歩き出した。
数歩進んだだけで目眩がして体が傾いだ。古賀が背中に腕を回して支える。
「まだ休んでたほうがいいかな。それともタクシー使う? 金なら俺が出すから」
とんでもない提案に首を横に振る。しっかりと首を伸ばして目眩を振り払う。
「こうやって支えてたら大丈夫かな」
古賀は三鶴の腕に腕を絡めた。まるで恋人同士がスキンシップを取っているかのように。古賀がどんな表情でいるのか、そっと見上げると、心配そうに三鶴を見つめていた。
「行こうか」
カバンを持ってもらい、腕を支えられて、ずいぶんと楽になった。
人が少なくなって歩きやすい廊下を、三鶴の速度に合わせてゆっくり進む。
下足室で古賀が立ち止まった。ジャージ姿の下級生が小走りにやってきていた。
「古賀先輩、部活休むんですよね?」
「うん。友人を送っていくから」
下級生は三鶴の蒼白な顔を見て「大丈夫っすか」と聞いたが、三鶴に答える余裕はなかった。
友人? まさか、それは自分のことを言っているのだろうか。
膝ががくがくと震える。古賀が何を考えているのか全く分からない。
「じゃあ、気をつけて」
下級生が行ってしまう。二人きりになったら、古賀はなにか仕掛けてくるだろう。口の中がカラカラに乾いた。
古賀は三鶴が靴を履き替えるのも丁寧に手伝い、また腕を支えて校舎を出た。
「三鶴くんの家、枝府 駅の近くなんだよね」
住所のことなど話した覚えはない。武藤から聞いてきたのだろうか。
「十五分くらいかかるかな。もし辛かったら言ってね。背負っていくから」
本当の友人でもそこまではしないだろう。古賀は自分になにをするつもりなんだろう。これはきっと下準備だ。どこかで豹変するはずだ。
様々に不安を思い起こす。だが少し歩いただけで体が辛く、疑問は頭の奥に行ってしまった。
ゆっくり家に近づいていく。古賀が三鶴を疲れさせないように気を使っていることが、触れている腕から伝わってくる。その暖かさに反して、三鶴の腕は鳥肌立ち、背筋が凍るように冷たい。
古賀は三鶴の家までの順路を知っていた。三鶴がなにも言わぬうちに、通学路を正しく歩き、曲がっていく。
いつから調べられていたのだろう。やろうと思えば古賀が家まで来ることが可能だった、学校の中でだけ警戒すればいいわけじゃなかったのだ。
ぞっとして足が止まった。
「大丈夫だよ」
古賀は三鶴の顔を覗き込んで微笑む。
「勝手に押しかけたりしないから」
警告だ。古賀に抵抗したら家にまで危険が及ぶと。三鶴はその警告に気づかなかったふりをして足を動かした。
家にたどり着いた頃には緊張が限界を超えて、三鶴は朦朧としていた。古賀から受け取ったカバンに手を入れて鍵を探るが見つからない。
古賀はインターフォンのボタンを押した。ああ、義母が出てきたら怒鳴られるなと、ぼんやり思ったが、扉を開けた義母は、古賀を見るなりニンマリと笑った。
「お友だち?」
三鶴には目もくれず、義母は高い声を古賀に向かって浴びせた。
「はい。三鶴くんが体調を崩したので送ってきました。かなり具合が悪そうなので、病院に行ったほうがいいと養護の先生からの伝言です」
「そんな必要ないわ。どうせ仮病だから。それより、お茶を飲んでいかない? いただきもののお菓子があって」
「仮病って、どういうことですか」
古賀の声が少し硬くなったようだ。義母はその変化に気づかず機嫌よく話し続ける。
「虚言癖っていうの? 昔から嘘ばかりつくのよ。こいつの死んだ母親が今も家の中にいるとか。気味悪い」
義母はちらりと三鶴を横目で見た。いつもの嫌悪だけでなく、三鶴を貶めようという悪意を持って。
「担任からこいつがいじめられてるって電話がかかってきたけど、それも自作自演でしょ。誰がこんなやつに関心を持つのよ。ねえ」
「俺は関心ありますよ」
冷ややかに古賀が言い、三鶴の背中を優しく叩いた。
「じゃあ、また明日」
うつむき続ける三鶴に微笑みかけたのが雰囲気でわかった。義母が苛ついて目を吊り上げたことも。
古賀の背中を睨みつけて、義母は音高く扉を閉めると、鍵をかけた。
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