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第17話

 古賀に対する恐怖から抜け出せて、かなり落ち着くことが出来た。カバンから鍵を取り出し家に入る。  義母はキッチンでなにか仕事をしているようだ。今日は父が帰ってくるのだろう。男を連れ込むこともせず、専業主婦の仮面をかぶっている。  自分の部屋に向かいつつ、ふと思う。義母の浮気相手は、いったい、どんな仕事をしているのだろう。父がいない日には必ず来ている気がする。  明後日は確か父の会社の飲み会があって帰宅は深夜近くなると義母と話していた気がする。明後日もあの男はやってくるだろう。  義母の薄汚い嬌声、地球語で撒き散らされる怨嗟の声。今からすでに気が重かった。 「三鶴くん、お母さんってきれいだった?」  昼休み、席を立とうとした三鶴の行く手を塞いで、古賀が話しかけた。 「義理のお母さんじゃなくて、亡くなったお母さん」  なにを聞かれているかわからないが、とりあえずうなずいてみた。 「今も、話せるの?」  古賀の言っていることが理解出来ない。 「羨ましいな。俺には母親の思い出がないから」  初めて見る仮面だ。緊張しているような、深刻な話をしているような。 「よかったら話を聞かせて欲しいんだ」  いつものように無理やり引きずっていこうとする表情ではない。どうすればいいのかわからず、三鶴は視線を彷徨わせた。 「今じゃなくていいんだ。三鶴くんの気が向いたときで」  それだけ言うと、古賀は自分の席に戻っていく。いつも一緒に行動している仲間に話しかけられていたが、気のない素振りで、一人、教室を出ていった。  古賀がどうしたいのか、三鶴には見当もつかない。ただ、困惑するばかりだ。  放課後、また古賀に話しかけられるのではないかと震えながら教室を見渡した。古賀は部活に行くらしく、スポーツバッグを抱えている。  今日は家までついてこないらしいとホッとしていると、視線を感じたのか、古賀が振り向いた。  友人に見せるような笑顔で三鶴に手を振る。手を振り返すべきなのか。そんなことはとても出来ない、だが古賀の要求に反すればなにをされるか。  急速に頭の中が疑問と不安でいっぱいになる。答えを出せずにいる間に、古賀は教室を出ていった。  いつものように、不機嫌を優等生の仮面で隠しているのだろうか。それとも、怒ってなどいないのだろうか。知りたくてたまらないが、自分から古賀に近づくようなことは出来なかった。  夕食の席には、やはり父がいた。義母と二人で黙々と食物を胃に運んでいる。  三鶴は二人の食事が終わるまでリビングでじっと座っていた。三鶴の夕食は毎日同じだ。白米、海苔、父と義母が食べ残したもの。  義母がそれらを一つの皿にぶちまけて食卓に置く。父は無言で部屋を出ていく。義母も二人分の食事の後片付けを済ませると、電気を消して出ていく。三鶴は漏れ入ってくる廊下の明かりで食事をし、片付けを終える。  翌朝、父は早出だったようで、身繕いを終えた三鶴が一階に下りたときには食卓にはなにもなかった。  父はたびたび早出し、帰宅はほぼ毎日遅い。家のものとは違う石鹸の香りをさせて深夜に帰ることもしょっちゅうだ。  父が朝食の席にいるときには、三鶴にも食物と弁当が与えられる。今日はなにもなかった。  空腹を抱えて教室に入ると、古賀と目が合った。いつも古賀がいるのか確認するため、そちらに視線が行くクセがついていたが、古賀があからさまに三鶴を見るのは初めてだ。 「おはよう」  距離が遠く、声は聞こえなかったが、古賀は明るい笑顔でそう言った。それは地球語とは違う響きを持っているようで、三鶴はあわてて目をそらして席についた。  朝一番の授業はきつかった。体育の授業で、種目はバスケットボールだったのだ。走らないわけにはいかない。  三鶴は運動が苦手だ。その上、酷い空腹で、走ろうとしても、よろよろと足を動かすのが精いっぱいだ。  同じチームの生徒が苛ついているのが気配で伝わってくる。そのイライラが大きく膨らみ、とうとう三鶴の顔にボールが投げつけられた。  横倒しに倒れて、したたか脇腹を打つ。 「三鶴くん!」  古賀が叫んで駆け寄ってきた。三鶴の背を支えて助け起こす。 「すごい鼻血だ。手は動く? 鼻をつまんで。止血しないと」  教師がやって来て、三鶴の出血を確認すると、保健室に行くよう指示した。当然のような顔をして古賀が付き添う。 「二十分くらい手を離したらダメだそうだよ。頑張って」  痛む脇腹をかばいながら、古賀の不気味な親切におののく。これからまた古賀と保健室に行かねばならない。精液のどろりとした感触が口の中に蘇る。  鼻をつまんだ状態で嘔吐は出来ない。気を引き締めて、唾を飲み込み、吐き気を追いやった。  ありがたいことに、保険医がいた。三鶴の鼻血については、古賀が指示した通りの止血法を継続し、頭を打っていないかと尋ねた。三鶴が小さく首を横に振ると、座って安静にするようにと言い渡して、自分の仕事に戻った。  古賀が壁際にある椅子を移動させて、三鶴の隣にぴたりとくっついて座る。 「脇腹を打ってたけど、大丈夫?」  保険医が振り返って三鶴の返答を待っている。小さく頷いてみせると「痛みが引かないようなら言ってね」と、簡単に応答は済んだ。  それでも古賀は心配そうに眉根を寄せている。三鶴の痛む脇腹にそっと手を触れる。  痛みと驚きで三鶴の体がびくりと跳ねた。古賀は優しい手つきで三鶴の脇腹をさする。痛いように感じたのは最初のひと撫でだけで、温かい手が上下すると、そこから波のように安心感が体中に広がっていく。  三鶴は初めて古賀のいるところで緊張を解いた。  二十分ほど経っただろうと手を離すと、確かに血は止まっていた。保健室の水道で手と顔は洗えたが、ジャージは胸から腹にかけて血で染まっている。 「早く着替えて洗ったほうがいいね。シミが落ちなくなるよ」  古賀に急かされて保健室を出る。授業時間はまだ終わっていない。更衣室は無人だ。古賀の攻撃に備えようと、体が勝手に緊張する。  古賀はそんな三鶴には目も向けず、さっさと制服に着替え始めた。三鶴もロッカーの扉の陰に隠れて手早く着替えを終えた。  ジャージをそのままカバンに入れようとしていると、古賀が横から手を伸ばした。 「洗わないと。ね?」  そのままスタスタと更衣室を出ていく。あわててついていくと、運動部の部室棟に向かっている。各部が共通で使っている洗濯用の流し場で三鶴のジャージを洗い始めた。  三鶴が呆然と見ていると、古賀が振り向いて、にこりと笑う   「家事は得意だから、任せてよ」  そう言う古賀の考えていることがわからない。知りたくてたまらない。けれど、どう尋ねればいいのか、果たして尋ねて機嫌を損ねないのか。考えても答えは出ない。    タオルが何枚もかけてある物干し竿に、三鶴のジャージも並べてかけられた。 「放課後までにはある程度乾くと思うよ」  三鶴はおずおずと、小さくうなずいてみた。古賀は満足そうに微笑む。どうやらこれで正解だったらしい。自分の行動が古賀の不興を買わなかったことにホッとすると、腹が鳴った。古賀がぷっと噴きだす。 「もうお腹すいたの? 昼休みまでまだ二時間もあるよ」  そうだ。そして、そのあとの授業も空腹で過ごし、父がいない今日は、夕飯もない。暗澹たる気持ちで、またうなずく。 「もしかして、朝食、食べてない?」  ちらりと古賀を見上げてみると、心配そうな表情だ。うなずく。 「もしかして、義理のお母さんが食事を作ってくれないの?」  少し迷ったが、またうなずく。古賀は三鶴の手を取り、ぎゅっと握った。 「今日、一緒にお昼を食べよう」  本当に、古賀がなにを言っているのかわからない。三鶴は不安に思いながらも、またうなずく。

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