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第21話

 階段を最上階まで上ると、広い踊り場がある。正面に屋上へ続く扉。いつも施錠されていて人は来ない。  あの日、古賀に引きずり倒され、性器にケガを負わされた。屈辱と恐怖を与えるために古賀は暴力を振るう。嫌というほど身にしみていた。  だが、今、この場所に立っても、その時の恐怖は浮かんでこない。不思議なほど冷静に自分の過去に目を向けることが出来た。  痛みはすでに去っていて、屈辱は幼い頃からずっと身に添い続けた感情で、恐怖は……。なぜ恐怖は癒えたのだろう。  ぼんやりと立ち尽くしていると、扉が開いた。雨に濡れた斯波が屋上から入ってきて、鍵をかけた。三鶴が驚いて動けずにいると、斯波が髪についた雫を払いながら話しかけてきた。 「降ってきたぞ。傘は持ってるか?」  三鶴は首を横に振る。 「貸そうか?」  また首を振る。 「そうか」  白衣のポケットに鍵を突っ込んで斯波は階段を下りていく。三鶴は斯波の背中を見つめてついていった。  化学準備室に入った斯波は扉を開けたままコート掛けに白衣をかけた。  三鶴が部屋に入ると「鍵を閉めてくれ」と言って、目もくれずに白衣に消臭スプレーをかけだした。やはり白衣が水浸しになるほどスプレーし続ける。  ふと手を止めて白衣のポケットから煙草の箱を取り出した。蓋が開いたままで、箱の中、煙草はしっとりと湿っていた。  斯波は煙草の箱を手のひらに乗せて、呆然と見つめている。なぜそんなにショックを受けるのかと三鶴が観察していると、斯波は深いため息を吐いて、箱ごと煙草を捻り潰した。部屋の隅のゴミ箱に投げ捨てて、もう一度ため息を吐いた。  しばらくぐったりと首を折って床を見つめていたが、のろのろと顔を上げてコーヒーを淹れる準備を始めた。  紙コップにインスタントコーヒーを入れて湯を注ぎ、スティック砂糖の袋と共に三鶴に差し出す。小さく頭を揺らしてコーヒーを受け取り、砂糖を三本入れてプラスチックスプーンでかき混ぜる。  斯波はブラックのまま口をつけ、眉根を寄せて不快感を露わにする。 「製造中止になったんだ」  インスタントコーヒーのことかとも思ったが、悲しそうな様子を見るに、煙草の方かもしれない。 「もう二度と買えない。最後の一箱だった」  かわいそうだが、大人がたった一箱の煙草のために嘆き悲しむ姿はどこか滑稽だ。しかもそれが無表情で愛想もない斯波なので、なおさらだ。 「笑っとけばいい。大人になったらわかる。いろんなものが消えていくんだ。永遠に在り続けるものなんてないんだよ」  知らず笑みを浮かべていたらしい。三鶴は真面目な表情を取り戻すよう顔に力を込める。 「いいんだ。今は笑っておけ。何ごとにも終わりはないなんて勘違いしていられるのもあと少しだ」  斯波はなぜか饒舌だ。ショックを紛らわせたいのかもしれない。三鶴はしっかりと耳をそばだてる。 「苦しいとか悲しいとか、そんなものばかりが消えてくれたらいいが、先に消えてなくなるのは夢や希望や友情だ。残されるのは絶望ばかりだよ」  夢も希望も友情も、三鶴は一つも持っていない。消えてしまう悲しみを知ることはないのかもしれない。 「煙草の苦さだけはいつも変わらないと思い込んでいた俺がバカなんだ。それだけだ。ガキじゃあるまいし。いろんなものに振り払われて生きてきたっていうのに」  椅子をずるずると引きずって、三鶴のすぐ側に座る。 「東谷、見過ごすなよ。消える前にしっかり両手で掴むんだ」  斯波が真っ直ぐに三鶴を見つめる。なにか重大なメッセージを伝えられていることはわかったが、具体的にどんなことか理解出来ない。  両手を見下ろしてぎゅっと何かを掴んでみようとした。空気も掴めず、するりとなにかが滑り落ちたような不安な気持ちになった。 「コーヒー、もう一杯飲んでくれ」  深刻な様子で嘆願され、三鶴はしっかりとうなずいた。  渡された紙コップの縁まで並々と注がれたコーヒーは、いつもよりずっと苦い。熱さと苦さと闘いながら三鶴がコーヒーを啜っていると、斯波がインスタントコーヒーの瓶を三鶴の目の前に差し出した。 「この通り、ずっと在り続けるものはないんだ。東谷のおかげで早く粉がなくなった」  斯波が満足そうに微笑む。まさか斯波が笑うなんて。三鶴は驚きすぎて目を丸くした。 「明日は豆を持ってくる。ミルで挽くところから淹れていくから、美味いぞ。期待しててくれ」  上機嫌な斯波は朝一番に飲みに来いと厳命して、三鶴が部屋を出るのを見守った。  しばらく廊下を進んで、鍵をかけた音が聞こえないことに気付いて振り返った。斯波が難しい顔をしてうなずく。三鶴は頭を下げて笑いを噛み殺し、階段を下りた。  外は雨のせいもあり、かなり暗くなっていた。三鶴はカバンを傘代わりに頭の上にかざして走る。  体育館ではまだ運動部が練習をしているようで大きな掛け声や、靴が床を蹴るキュッという音が聞こえてくる。  体育館の窓から姿を見られることがないように、腰を屈めて通り過ぎる。運良く、体育館の裏に辿り着くまで誰にも見咎められずに済んだ。  倉庫の扉を引き開ける。体育館からの明かりが届いて、薄ぼんやりと室内の様子がわかる。  扉を閉めて鍵をかけ、掃除道具やワックスの缶を脇に避け、跳び箱や荷車の間をすり抜けて奥のマットまで歩いていく。  コーヒーで温まっていた体が、雨に少し当たっただけで冷えてきている。出来るかぎり服に付いた水滴を払い落とし、マットの上に座り込む。膝を抱いて身を縮めると、少しは温かいような気がした。  昼には過ごしやすい室温だが、夏と言っても夜間は冷える。なにか暖を取れるものはないかと見渡して、もう一枚、丸めたマットが壁に立てかけられているのを見つけた。  引きずってきて開いてみるとカビ臭かったが、横になってかぶると、かなり温かい。これで風邪も引かないだろうと安心して、カバンを枕に仰向けになる。  天井が高くて暗い。じっと見ていると吸い込まれそうになる。過去と現在と地球人と母と自分。相容れないものたちが吸い出され、どこまでも高いところに吹き飛ばされそうだ。  古賀。  自分とは決して相容れないと思っていた存在。なぜか突然、すぐ近くに存在するようになった。  与えられ続けた暴力を忘れたわけではない。なのになぜ恐怖は忘れてしまったのだろう。  考えていると古賀の顔が脳裏に浮かぶ。見つめられたことを思い出すと、体の芯が火照った。  なぜ、なんてどうでもいい。あの手で、あの腕で、古賀に包み込んで欲しかった。  そうすればきっと、こんなに寒い思いは二度としないだろう。  地球の言葉でさえ、ふるさとの星の輝きのように、温かく光るはずだ。

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