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第22話

 目覚めたとき、とても頭が重かった。嫌な夢を見たが、内容は覚えていない。  ただ、自分が地球にいることに絶望していた。    七時を過ぎたことを確認して、倉庫から外に出てみた。まだ雨は降り続いていて、体育館裏には、あちらこちらに水溜りが出来ている。水溜りを避けつつ進んだが、地面は全体的にぬかるんでいて、靴が泥だらけになった。  下足室まで出来るだけコンクリートのあるところを選んで進んでいると、頭の上にかざしているカバンがびしょびしょに濡れた。  七時では、斯波はさすがに来ていないだろうと、教室に向かって、カバンを置く。掃除道具の雑巾を借りてカバンを拭いてみると、いやなにおいがこびりついた。  乾けばどうにかなるだろうか。それとも永遠に臭いままだろうか。臭いカバンは惨めな自分にぴったりだ。地球人ではない自分は、異星のにおいをばら撒いているだろうから。  三鶴は机の上にカバンを放り出したまま教室を出た。  化学準備室に行ってみると、やはり鍵がかかっていてノックしても反応はない。  直ぐ側の階段に座って、十分ほどしたとき、斯波が階段を上ってきた。 「早いな、東谷」  三鶴は立ち上がってぺこりと頭を下げた。斯波が化学準備室に入る背中についていく。なにも言われなかったが、鍵を閉めた。 「東谷はいつもびしょ濡れだな」  斯波は抱えてきた小ぶりな紙袋を机の上に置くと、コート掛けから白衣を取り、三鶴に放って寄越した。 「シャツを脱いで、それ着ておけ。掛けておけば少しは乾くだろう」  人前でシャツを脱ぐことに抵抗を覚え、ぐずぐずしていたが、斯波は三鶴などいないかのように、キャビネットの下段からコーヒー用の器具を取り出している。  急いで着替えたが、白衣の前合わせは広く、胸がほとんど剥き出しだ。襟元を掻き合せて椅子に座り、なんとか胸が見えないようにした。  斯波が机に並べている用具を、三鶴は一つも知らない。四角の木の箱の上部にハンドルが付いたもの、陶器で出来た漏斗のようなもの、三角形に近い形の紙の袋。他に何本かの計測用らしいスプーン状のもの。    紙袋から銀色のアルミ製らしい小袋を取り出し、ハサミで上部を切る。焦げたような香ばしいにおいが袋から漂ってくる。コーヒー豆が入っているようだ。 「本当は焙煎も自分でやりたいんだが、さすがにここでは出来ない」  よくわからないまま、三鶴はうなずいた。  三鶴のシャツをコート掛けに掛けてくれてから、いつものガラス器具で湯を沸かし始めた。斯波は三鶴が名前も知らない道具を手に取る。  箱型の器具のハンドル付近についている金属製の蓋をずらして、小袋からコーヒー豆を計量用スプーンで掬う。  実験しているかのように丁寧に。真剣な目をしている。  コーヒー豆の袋を閉じると、箱の蓋を閉めてハンドルを回した。ゴリゴリと豆が粉砕されている音、香ばしいにおいが強くなる。  ハンドルを回し終えると、キャビネットからコーヒーカップを二客取り出す。真っ白で飾り気のないカップと、揃いのソーサー。  その一つに、漏斗のような道具を乗せ、中に紙の袋を開いて入れる。  箱の下部についている引き出しを開けると、香ばしいにおいを振りまいてコーヒーの粉が顔を出した。  斯波はやはり丁寧な手付きで、粉を掬って紙の袋の中に入れていく。  湯を注ぐと、焦げたにおいとも感じていた香りが、ふわりと甘く花開いた。  数回に分けて湯を注ぎ、一杯のコーヒーが淹れられた。  漏斗状の器具を取り、中の紙の袋を流し場に置く。水切りしているようだ。その横で漏斗のようなものを湯で簡単にすすぎ、もう一つの空のカップに乗せた。  もう一杯も同じように淹れ、三鶴の前にカップを置いた。 「そのまま、一口味見してくれ」  白い湯気がゆらゆらと立ち上るカップに口を付ける。三鶴は驚いて目を丸くした。  インスタントコーヒーとはぜんぜん違う。香りが柔らかく鼻をくすぐり、舌の上にとろりとした甘さが広がる。酸味と苦味も感じるが、深いところからゆっくりと上ってくるような優しさがある。 「砂糖、いるか?」  三鶴は首を横に振る。斯波は満足げにコーヒーを啜った。  斯波の紙袋からコーヒーゼリーが出てきた。クリームがたっぷり乗っているが、ゼリー自体の苦味が強く、甘ったるくはない。  斯波のコーヒーと合わせると、まろやかで喉を滑り下りる感覚が楽しかった。  始業前の予鈴が鳴った。シャツを着てみると、生乾きのにおいが気持ち悪かった。もしかして消臭スプレーをかけられるかと思ったが、斯波は黙々と器具の片付けをしている。思ったほど周囲にはにおいが漂っていないのかもしれない。  教室に向かおうと化学準備室を出ると、斯波も白衣を着て出てきた。鍵をかけて歩き出す。三鶴も付いていく。 「あのコーヒーには果物も合う」  それだけ言うと、斯波は黙り込んだ。  一階下まで階段を下りて斯波は立ち止まった。 「桃は好きか?」  三鶴は果物を食べたことがない。与えられたことがないのだ。なんとも返事のしようがなく、目が泳ぐ。  斯波は黙ってうなずくと、廊下を歩いていった。  三鶴の教室はもう一階下だ。下りていると、誰かが駆け上がって来る足音が聞こえた。  もうすぐ始業時間だ。遅刻しかけた生徒だろう。そう思ったが、踊り場で落ち合ったのはジャージ姿の古賀だった。  突然、両腕を強く握られた。何ごとかと驚いて動けない三鶴に、古賀はぐっと顔を近づけた。 「斯波先生と仲がいいの?」  何を言い出したのかと戸惑っていると、古賀はもう一度尋ねる。 「斯波となにを話していたの?」  話していたことを思い返す。コーヒーの淹れ方、桃のこと。それ以外になにかあっただろうか。  黙ったままの三鶴の腕を握る力が強くなる。古賀が三鶴を睨んでいた。びくりと体が揺れる。  嗜虐性にぎらつく瞳。今にも三鶴の首を噛みちぎりそうな凶暴性。 「俺には言えないことか?」  腕の痛みを感じられないほど、三鶴は怯え、震える。 「二人で化学準備室でなにをしてた?」  古賀が聞きたいことが分からず、三鶴は震えることしか出来ない。もし返答を間違えれば、古賀はまた自分を獲物として狩り続けるだろう。  蒼白になった三鶴の顔を見て、古賀はハッとして腕の力を緩めた。 「ごめん、三鶴くん。傷つけるつもりじゃなかったんだ」  ぎゅっと抱きしめられ、三鶴は混乱した。古賀がなにを望んでいるのか分からない。 「ごめん」  怖いと思ってしまう。古賀はいつでもまた三鶴を標的として牙を剥くかもしれない。  でも、古賀の腕の中にいつまでもいたいとも思う。  三鶴はそっと古賀の背中に手を回した。

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