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第30話
「先生は人を好きになったことがありますか」
ぽつりと言葉が滑り出た。
「どうだろうな」
「人を救いたいと思ったことはありますか」
「どうだろうな」
考えていないのか、話したくないのか、斯波はコーヒーを啜った。
三鶴は地球語を発するのをやめて、また黙った。斯波は地球語を聞きたくない気分なのだろう。
好きな人、救いたい人。地球語ではそんな言葉でしか言い表すことが出来ない。母と三鶴の会話はもっと深く、もっと暖かく感情を伝えることが出来た。
きっと、口を閉ざすために煙草を吸う斯波にも、そんな話し相手がいたのだろう。三鶴には聞き取れないが、斯波は地球語以外の言語を、煙草の煙を吐き出すときに確かに呟いていた。
「その人にもコーヒーを淹れてあげたんですか」
「コーヒーの美味い淹れ方にはコツがある」
立ち上がり、シンクに置きっぱなしの道具を洗い出した。
「道具は前もって温めておく。淹れる湯は沸騰したてではなく、少し落ち着かせる。95度が理想だ」
道具を丁寧に拭き上げて机に並べる。
「淹れやすいから、俺は豆は中細挽きにしている。挽いてやるから、コーヒー淹れてみろ」
突然の提案だったが、なぜか三鶴はこのときが来ることを予感していたように思う。斯波が大切にしている時間を、場所を、受け継ぐような。そんな気がしていた。
「湯を沸かしてドリッパーとカップを温める。さっきの残りの湯でいい」
カップにドリッパーを乗せて湯を注ぐ。残っていたのは丁度カップ一杯分ほどだ。
「淹れるための水は水道水で十分だ。硬水を使うと苦味が立つからな。コーヒー初心者向きの味じゃないだろう」
ガラス器具に新しく水を注ぎ、火にかける。沸くのを待つ間に、ペーパーフィルターの継ぎ目を折って湯を切って温まったドリッパーに入れて形を慣らしておく。
斯波が挽いた粉をペーパーフィルターに入れて、均等になるように軽くドリッパーを揺する。
「本当はサーバーと細口のポットを使うといいんだが、収納スペースがもうなくてな。簡易的な淹れ方だが、まあまあ美味くなる」
湯が沸騰したら火を止め、ポコポコと浮かんでくる泡が落ち着くまで待つ。
「そのくらいで大体95度になってる。粉全体に湯を含ませて蒸らす。湯は優しく、出来るだけ細く注ぐ」
粉を蒸らすという言葉の意味も、出来るだけ細く注ぐ方法も分からない。手探り状態で湯を注いでいると、「それくらいだ」と斯波が言ったが、すぐに手を止められず、かなり多めに粉に湯がかかった。
ちらりと斯波に視線をやると「まあ、死にはしない」と軽く言われた。
二十秒ほどの蒸らし時間を待ち、いよいよドリップ、というところで、勢いよく扉が開いた。
「こんなところにいた!」
息を切らした古賀が飛び込んできた。驚いた三鶴の手が止まる。
「なにしてたんだよ、心配したんだぞ!」
いつの間にか一限目の授業は終わっていたらしい。何人かの生徒が廊下を歩いていく。
「コーヒーを淹れている」
斯波が感情のない声で言うと、古賀は三鶴の手元と斯波の姿を交互に見やり、ホッとため息を吐いた。
「東谷、コーヒーを飲ませたいやつがいるんだろ」
三鶴はうなずくとドリップを済ませ、ドリッパーをシンクに置いた。
コーヒーカップを古賀に差し出す。
「俺が飲んでいいの?」
三鶴は緊張した面持ちでうなずいた。カップを手にした古賀は、そっと一口、飲み込んだ。顰め面になりそうなところを、ぐっと堪えて平常心を装ってみせる。
斯波がドリッパーの中の粉の濡れ具合を確認してから古賀に問う。
「味はどうだ」
「美味しいです」
「お世辞はいらん。本当の感想を言え。東谷はこれからコーヒーのスペシャリストになるために訓練するんだ」
なにごとか分からないまま、古賀は三鶴から目をそらして呟く。
「不味い」
三鶴は赤面し、斯波は深くうなずいた。
「昼休みに、もう一度練習だ。忘れずに来い」
斯波は白衣を着て教科書を小脇に抱えた。
「古賀は味見係だ。必ず二人で来いよ」
そう言い残して斯波は化学準備室から出ていった。扉も鍵も開けっ放しだ。
三鶴は使った道具を片付けたが、古賀はコーヒーを飲めずに持て余している。三鶴が受け取り、一気に飲み干した。
泥のような生臭さがある。薄すぎてコーヒーの香りが少しだけする気持ちの悪い液体だ。確かに、不味い。
がっかりしながら、コーヒーカップもきれいに洗った。
三鶴の後ろ姿を見つめていると、コーヒーの香りが漂うこの部屋は、学校にいるというよりも、誰かの家に招かれたかのような気持ちになる。古賀は三鶴を探し回っていた間の緊張がほぐれたようで、笑みを浮かべた。
「居心地いいな、ここ」
三鶴はにっこり笑ってうなずいた。
佐治たちに嬲られて古賀と顔を合わせられないという気持ちは、もう消えていた。
なにがあっても、古賀から離れない。いつでも美味しいコーヒーを淹れてやれるようになろう。地球語ではない言語で話し合おう。
こんな望みを抱いたのは生まれて初めてだ。叶えたい、手放したくない思いだった。
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