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第33話

 しばらく泣いて、古賀は顔を上げた。シャツの袖で涙を拭う。 「たぶん、あいつら骨が折れてると思う」  三鶴は真っ青になった。古賀が暴行したなどと知れたら、逮捕されてしまうのではないだろうか。  なんとかバレないように出来ないか。 「な、なんだ、お前たち! なにがあった!?」  倉庫の外で武藤が叫んでいる。きっと体育館の中まで音が聞こえていたのだろう。武藤は運動部の顧問をしていたはずだ。  古賀は三鶴をぎゅっと抱きしめると、優等生の仮面を被った。 「君はなにも言わなくていいよ。被害者なんだから、脅えて震えていて。全部、俺が説明するし、悪いのはあの三人と俺だ。いいね?」  三鶴は首を横に振った。何度も、何度も。だが、優等生の古賀は三鶴の思いなどに聞く耳を持たない。バットを握って倉庫を出ていく。  三鶴は立ち上がったが、撮影でぼろぼろになった体は、うまく言うことを聞いてくれず、前に進めない。 「お前が? まさか、お前がやったって言うのか、古賀」  武藤の大声が聞こえる。早く行かなくちゃ、なにがあったか、全部話さなくちゃ。  マットの上を這い進んでいると、ジャージ姿の数学教師が駆け寄ってきた。 「大丈夫か! ケガはないか」  うなずく三鶴を肩に担ぎ上げた教師は狭い通路に四苦八苦したが、倉庫の扉までなんとか歩ききった。  三人が倒れている。完全に折れている荒川の右腕。鼻が潰れているらしい佐治の血まみれの顔、腹をかばうようにして呻いている百地。  全部、古賀がやったのだという。  あの凶暴な嗜虐心。自分が受け続けていた苦痛。それが他人に向けられたことに怒りを覚える自分に当惑する。  古賀は優等生の顔で三鶴に、にこりと笑いかけた。  それだけでわかった。古賀のためにすべてを話そうと思っていた。けれど、そんなことを古賀は望んでいない。  古賀が三鶴のために暴力を振るったことを、一生、負い目に感じること。それが古賀が三鶴に望むことだ。  なんでもしてあげる。古賀のためなら、なんでも。  三鶴は、ほほえみ返してうなずいた。  三人は救急車で搬送され、古賀は警察署に連行された。学内は騒然となり、とくに三鶴たちのクラスでは授業にならないほど、何人もの生徒たちが取り乱しているという。  それを三鶴は保健室のベッドの中で、保険医に泣きつきに来る生徒たちの訴えで知った。  優等生の古賀の暴力。その理由はまだ明らかにされていない。どうして古賀が倉庫にやってきたのか、三鶴にも分からない。  ショックが去ったと思われたら、また会議室でスクールカウンセラーと顔を合わせるだろう。いや、その前に警察官だろうか。  なんでもいい。三鶴が話すことは、なにもないのだから。 「東谷くん、起きてる?」  保険医の声で目を覚ました。いつのまにか眠っていたらしい。 「ごめん、起こしちゃったか。気分はどう?」  三鶴は起き上がり、布団から這い出した。小さく頭を下げると、保険医はホッと息を吐いた。 「動けるようだったら、あの……、またスクールカウンセラーの先生とお話してもらいたいんだけど」  うなずいて靴を履く。保険医の後についていきながら、なにも話す気はないのに素直についていく自分がおかしくて少し笑った。  会議室にはスクールカウンセラーと武藤だけではなく、学校関係者ではなさそうなスーツ姿の男性と、なぜか古賀の友人の橋詰がいた。 「東谷くん、大丈夫ですか?」  スクールカウンセラーの原田に小さくうなずいてみせる。 「たいへんなことに遭遇しましたね。ケガはないですか?」  保険医から聞いているだろうにと思いながら、原田に対してうなずいてみせる。 「良かった。今日のこと、いえ、今日までのことを聞きたいのだけど」  今日まで、とはなんだろう。 「話したくないことがあったら、言わなくていいからね」  もちろん、口を開くつもりはない。原田が見知らぬ男性を指し示す。 「こちらは枝府警察署の松方さんです。東谷くんにお話を聞きたいそうです」 「松方です」  そう言って胸ポケットから警察手帳を取り出し、開いて三鶴に見せた。  三鶴が小さく頭を下げると、松方は原田に向き合う。 「私から質問しても?」  原田は三鶴に「どうかしら」と尋ねた。誰に質問されても答える気がない三鶴は軽くうなずく。 「東谷くん、大変な目に会ってショックだと思う。話せないことは、無理に話さなくていいからね」  父と同じ程の年令に見える松方は、原田が言ったことを繰り返した。よほど自分は憔悴して見えるのだろう。 「東谷くんは、ずいぶん古賀くんと仲が良いと聞いているけど、間違いないかな」  三鶴はうなずく。 「佐治くんたち、倉庫の扉付近でケガを負った生徒たちだが、彼らを古賀くんが殴っているところを見た?」  首を横に振る。 「東谷くんは佐治くんたちとクラスが違うが、知り合いなの?」  動かない。松方はじっと三鶴を見て口を閉ざしている。三鶴が答える気があるのかないのか確認しているのだろう。 「じゃあ、次の質問だが。古賀くんが佐治くんたちを殴るような理由に心当たりはある?」  沈黙。それは三鶴にもはっきりとはわからない。だが、橋詰がいることで、薄々感じることはある。 「わからないかな?」  うなずく。答えるつもりはさらさらないが、特にこの質問には答えられない。顔が青ざめているのが自分でもわかるほどなのだ。  松方の視線が鋭くなったように感じるのは、疑心暗鬼のせいだろうか。警察はもうなにもかも知っていて、古賀は罰せられることが決まっているのではないかと。 「古賀くんは君も殴った?」  そんなことがあるはずがない。優等生の仮面をかなぐり捨てた今の古賀が、そんなことをするはずがない。三鶴は勢いよく首を左右に振る。 「口止めされたり、脅された?」  ますます強く首を振る。松方はまた、じっと三鶴を見ている。嘘ではないかと疑っているのだろうか。  古賀が自分をどう扱っているのか、どれだけ強く抱きしめるのか、出来るならここでぶちまけたい。だが、そんなことをすれば、そんなことが知れれば、暴力事件以上に古賀にとってマイナスになるだろう。 「橋詰くんは東谷くんと古賀くんと、クラスメートだね」  突然、松方に話しかけられた橋詰が、ビクッと肩を揺らして顔を上げた。 「今朝、古賀くんが倉庫に向かう直前に話していたんだよね」 「そ、そうです」  緊張した面持ちの橋詰が、なぜか三鶴をちらりと横目で見た。 「そのとき、なにを話していたか教えてくれるかな」 「あの、ここでですか?」  橋詰が三鶴と松方の顔を交互に見やる。松方は三鶴を意識的に見ないようにしているようだ。橋詰に「ここで」と短く答えた。 「動画を……、見せてました」  くらくらと目眩がする。まるで地球の自転に置いていかれているような気分の悪さだ。 「なんの動画だろうか」  松方は知っている。三鶴に聞かせて反応を見るために、わざと質問しているのだろう。三鶴は古賀が握っていたバットの木目を思い出した。 「あの……、男の子がエロいことしている動画です」 「橋詰くん、その男の子は誰だった?」 「わ、わかりません。モザイクとかで顔が隠れてたし、声も変えてあったし」 「なぜその動画を古賀くんに見せたのかな」  橋詰は押し黙ってうつむいた。 「答えられないかな。古賀くんに秘密にするよう言われた?」 「いえ、そんなことはないです」 「では、なぜ?」 「……もしかしたら、東谷じゃないかと思って。無理やりさせられてるみたいだから、本当に東谷なら誰かに相談しないとって思って」  三鶴のめまいは、ますます酷くなる。古賀は全部、知ってしまった。自分の動画も見られてしまった。 「それで、古賀くんに相談したんだね」  きっと古賀は傷ついた。自分が古賀を裏切ったと思ったかも知れない。 「そうです」  だが古賀は三鶴を責めなかった。三鶴が負った傷も、古賀の傷も、全て一人で背負ってしまった。 「そのとき、古賀くんはどうしたかな」  自分の傷など、痛くも痒くもない。今すぐ古賀を抱きしめて温めてやりたい。 「驚いてました。けど、すぐに怖い顔をして教室を飛び出していって」  地球語など必要ない。抱きしめれば、それだけで古賀は三鶴の気持ちを掬い取ってくれる。どうしようもなく古賀に向かう気持ちを受け取ってくれる。 「その動画を見せてもらえるかな」  三鶴の傷跡を指で辿って、痛みを共有しようとする古賀を、今ここで見つめたい。 「東谷くん。君も見てくれるかな」  地球上の誰からも、古賀を守りたい。  松方が差し出したスマートフォンに映し出されている自分の痴態を目にして、三鶴は意識を失った。

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