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第35話
古賀の家は高台の高級住宅地にあるらしい。三鶴は坂道を駆け上る。途中で息が切れて立ち止まった。地球の空気が薄いように感じる。宇宙に、故郷の星のかけらに近づいているような気がする。
どうしようもないほど、空に近づきたい。
息を乱して辿りついた古賀の家は塀が高く、中の様子が見えない作りだった。正面にまわると門は鉄柵で、ようやく庭が見えた。手入れの行き届いた和風の庭だ。建物も二階建てでどっしりした黒い瓦屋根の日本家屋だ。
大きな表札の下にあるインターフォンに飛びつくようにしてボタンを押す。カメラ付きのインターフォンは繋がったようなのに、待っていても応答しない。もう一度押そうとした時、玄関の扉が開いた。
「三鶴!」
古賀が裸足のまま駆けてくる。門を開ける余裕もなく、柵の間から腕を伸ばして三鶴に触れた。
「二度と会えないかと思った」
三鶴は古賀の腕を撫でて、にこりと笑ってみせる。泣きそうだった古賀の表情も和らいだ。
「待って、すぐ開けるから」
腕を引っ込めて門扉を開くと、飛び出してきて三鶴を抱きしめた。
「会いたかった……!」
三鶴も強く抱きしめ返した。古賀のにおいだ。呼吸が楽になって、深く息を吸い込んだ。
手を繋いで家に入る。広々とした玄関には古賀の靴だけがぽつんと並べられている。家の中はしんとして、人の気配がない。
扉を閉めると、古賀はもう一度、三鶴を抱きしめた。三鶴の髪をいつまでも撫でる。
「どうやって来たの? 俺の住所、誰にも教えたことないんだけど」
握りしめてくちゃくちゃになったメモ用紙を古賀の目の前に差し出す。少しだけ頭を引いて、几帳面な文字で記された住所を見た古賀は、首をかしげた。
「もしかして、斯波?」
三鶴はうなずいて、メモ用紙をポケットに入れると、古賀の頬を両手で挟んで唇を重ねた。軽く触れて顔を離すと、古賀が「ふふっ」と噴き出した。
「さっきは驚いた。インターフォン見たら三鶴がいて。思わず走ってたよ。幻じゃなくて良かった」
古賀も幻を見るのだろうか。自分が母の幻を見るように。自分の幻を見てくれるのだろうか。
古賀の瞳の中に答えを探してみたが、そこには現実の三鶴がいた。
「汗だくだな。もしかして、走ってきたの?」
うなずくと古賀は目を細めて三鶴の頬を撫でた。
「シャワー使って。風邪引くよ」
手を繋いで浴室に連れて行かれた。かなり広く、浴槽はヒノキだ。ぴかぴかに磨き上げられている。
「タオル、ここに置くね。なにか着るものも持ってくる」
古賀が出ていこうとするのを、袖を握って引き止めた。
「どうしたの?」
問われても三鶴は答えず、じっと古賀を見つめるだけだ。
「もしかして、一緒がいいの?」
三鶴はうつむきがちに、黙ってうなずく。古賀は苦笑した。
「三鶴は俺の前だと無口だな。そりゃそうだよな。俺はずっとお前に酷いことしてたんだもんな」
古賀は三鶴を傷つけ続けていたことを有耶無耶にするつもりはないようだ。三鶴にはもう、過去のことはどうでもいいというのに。
それをどう言い表せばいいのだろう? 地球語でなんと言えば伝わるのだろう?
「でも、できたら隼人 って、呼んでくれないか。一度でもいいから」
それは地球で一番大切な言葉だ。自分に与えられた魔法のような言葉。三鶴はそっと口にした。
「……隼人」
古賀隼人は泣き笑いのような表情で、三鶴の唇を撫でた。
「やっと声を聞かせてくれた。三鶴」
「隼人」
口にするだけで甘い気持ちが胸に広がる。何度だって呼びたい。そう思うのに、隼人は三鶴の唇を塞いでしまった。
唇同士を互いに吸う。柔らかく滑らかな皮膚が触れ合うたびに、優しく心を溶かしていく。
唇を離すと、隼人は真剣な表情で尋ねた。
「本当に、一緒にシャワーしたい?」
「隼人と一緒がいい」
三鶴の声を聞いた隼人はなぜか、くしゃりと顔を歪めた。
「俺の情けないところ、見せなきゃな」
隼人は着ていたシャツを手早く脱いで、アンダーシャツに手をかけた。だが、ためらっているようで、唇を噛んで動きを止めた。
大きく息を吐き、呼吸を止め、一気にアンダーシャツを脱ぎ捨てる。
隼人の体は痣だらけだった。
付いたばかりらしい紫色に変色した皮膚、すでに色素沈着してしまって鈍い黄色になっている部分。腹も胸も、大きなものから、ほんの指一本ほどの小さなものまで。どうやって出来た痣か、想像はつく。
三鶴は隼人の腹に触れた。隼人がびくりと震えたのは、体の痛みではなく、心の叫びだったろうか。
背中側に回ってみても、痣がないのは服では隠せない部分だけだった。
「誰に?」
痣を優しく撫でながら三鶴が問う。
「父親。小さい頃からだ」
隼人は三鶴の服を丁寧に脱がせる。三鶴の白く滑らかな肌を撫で擦る。
「シャワーな」
自分の服も脱いでしまって浴室に入り、シャワーの湯音を確認する。
「おいで」
手を伸ばして三鶴の手を取り、優しく引っ張る。少し熱めの湯を三鶴の肩にそっとかける。
「熱くない?」
三鶴はうなずいて隼人に抱きつく。シャワーの湯は三鶴の背を濡らし、臀部を濡らし、足を滑り落ちていく。
温まった三鶴は隼人からシャワーヘッドを受け取り、胸に湯をかけてやる。
痛々しい痣を一つずつ撫でながら、出来ることなら洗い流してしまいたいと思いながら。
その気持ちが指から伝わったのだろう。隼人は痣の痛みを忘れたかのように、幸せそうに笑った。
「一時間位で終わるから、それまで俺の部屋に行こう」
三鶴の服をてきぱきと洗濯機に入れて、隼人が振り返った。隼人のティーシャツとショートパンツを借りた三鶴は、小柄なゆえにダボダボの服に着られている状態で、いつもよりもっと幼く見える。
隼人はそんな三鶴を愛おしそうに見つめる。
「なに? 隼人」
「かわいいなと思って」
三鶴の手を取って広い廊下を歩いていく。一瞬でも離れていたくない。二人は指を絡め合う。
隼人の部屋も和室だった。青々とした畳が藺草のにおいをたてて、爽やかだ。部屋の中にはベッドと机と椅子。それだけしかない。他のものはすべて押し入れにしまっているのだろう。
三鶴は隼人の手を引っ張ってベッドに座った。並んで互いに見つめ合う。三鶴は隼人のことをもっと知りたい、自分のことを知ってほしいと思った。だが、地球の言葉では、上手く伝えられる気がしない。
組み合ったまま、隼人の手を持ち上げ、指に唇をつける。そのまま目を閉じて祈る。三鶴の星の神に祈る。
どうかこのまま隼人と一緒にいさせてください。
僕を地球人にしてください。
目を開けて、息を吸う。地球人になってでも、隼人と話していたい。
「隼人、話したい」
「なにを?」
「知りたい、隼人のこと」
地球の言葉でも、隼人の言葉なら、きっと聞き取れる。心の底まで染み込むはずだ。
「隼人は寂しくない?」
瞳が揺れて泣き出すのかと思ったが、隼人は口を歪めて吐き捨てるように言う。
「寂しいなんて気持ちはとっくの昔になくなったよ。両親には見捨てられたし、この痣のせいで、誰とも上辺だけの付き合いしか出来なかった」
「僕が見るよ。隼人のなにもかも。だから、話して」
隼人は歪んだ笑いを収めて三鶴の耳をくすぐる。
「聞いても逃げないでくれ。俺を嫌いになってもいいから、側にいてくれ」
三鶴はうなずき、隼人は話しだした。
「父親を殺したいと思ってる」
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