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第3話

 いつの間にか降り出した雨が本降りになり、神咲家の母屋に通じる石畳は黒く滲んでいた。  手入れの行き届いた風情ある庭を進むと、雨に濡れた白い芍薬の花が視界に入る。  暗がりにぼんやりと映し出されたそれらは、酷く幻想的に見えた。  黒と白のコントラストに自分を重ね、空虚な心を嘲笑う。黒か白だとしたら、俺の心はずっとグレーのままだ。正確には、黒になりきれないグレー。真っ黒に染まってしまえばラクなのに、いつだってそうはいかない立場が邪魔をする。  神咲家の長男として期待に応えるべく、一流大学を卒業し、一流商社で数年働いた。その後、父の跡を継ぐ為に家業の呉服商を教わり、レールから外れることなく三十代半ばの今まで優等生として生きてきた。  誰もが抱く御曹司のイメージ。その全ては崩されることなく、完璧だ。  そんな筋書き通りに生きている俺には、誰にも言えない秘密がある。  優等生とは似つかわしくない、東雲の言う『本当の姿』にも理由がある。 「若旦那様、お帰りなさいませ。雨に濡れませんでしたか?」  東雲との商談を終え、店には戻らずそのまま母屋に帰ってきた。結局、ベッドに移動して軽く一時間は解放してもらえなかった。  再度シャワーを浴びてホテルを出ると、外は雨のせいで夜が早く訪れたように薄暗かった。 「ああ、ただいま。傘を持っていたから大丈夫だったよ。夕食に間に合わなくてすまなかった」 「相変わらずしっかりとされてますね。ご夕食は旦那様も留守ですし、お気になさらずに。離れでお召し上がりますか?」 「いや、ここで食べるよ」  (おもむき)のある玄関の引き戸を開けると、使用人の紺堂(こんどう)に出迎えられた。紺堂が神咲家に来たのは、ちょうど去年の今頃……初夏の日差しが眩しい日だった。  訳ありなのか、まだ二十代そこそこの青年は住み込みで使用人の仕事を始めた。最初は理由が気になっていたが、有能な仕事ぶりにいつしかそんなことはどうでもよくなった。 「和食と洋食どちらになさいますか?」 「今夜は和食にする」 「では、軽めの雑炊をご用意いたします」  東雲に付き合ってこってりしたものを食べた日は、正直夕食を食べる気分になれない。だから、仕事を口実にパスすることが多いが、今夜は少しだけ食べたい気分だった。  会話をしながら持っていた鞄を渡して、濡れた傘を傘立てに収める。仕立てのいいスーツに合わせて買った、ブラックの革靴の紐を解いて玄関に上がる。  神咲家は母屋と離れが二つ、それらは渡り廊下で繋がっている。帰宅すると、必ず母屋の玄関をくぐるのが決まりだ。名家の神咲家には他にもいくつかのしきたりがある。  そのひとつに夕食は全員が揃って母屋でとらないといけない決まりがある。けれど、今夜のように親父が留守や、仕事で間に合わない時は例外として扱われる。  それでも、現代では珍しく縛りが多い家柄だと思う。 「紺堂……」  ダイニングルームに繋がる長い廊下を歩きながら、数歩前を歩く紺堂に声を掛けた。 「どうされましたか」 「アイツ、来てるのか?」  あえて名前は出さずに聞いたのに、察しがいい紺堂は考えるでもなくさらりと返事が返ってくる。 「近くまで来られたらしく、つい先程ご帰宅されました」  無造作に脱がれた見慣れた革靴は、雨に濡れたまま水滴が付いていた。それが誰の靴か気づかないわけがない。  平然を装って「そうか」と短く返事をしながらも鼓動が速くなる。 「(けい)様もご夕食中です。久しぶりに兄弟水入らずでゆっくりなさってください」 「……そうだな」  俺の心中など知らない紺堂が穏やかなトーンで会話を続け、ダイニングルームへ続くドアをゆっくりと開けた。

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