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第8話
あれは幻だったのか。それとも夢か。
起き抜けの、ぼんやりとした頭の中で繰り返される数時間前の出来事。
圭に抱きしめられ「恵」と呼ばれ、情報処理が追いつかないままでいると、圭はいつの間にかいなくなっていた。
何かを言われ去ったのか、何も言わずに去ったのか、それさえも覚えてないくらいに意識は行方不明のまま、しばらくその場にいた。
嬉しいはずの感情は戸惑いに塗り潰され、やがて疑問だけが残った。
圭はどうして俺を抱きしめたのか?
圭はどうして俺を恵と呼んだのか?
圭はどうして……
「若旦那様、具合でも悪いのですか?」
「い、いや。少し寝不足なだけだ」
昨夜は布団に戻っても、一睡もできなかった。部屋に戻ると、圭は何事もなかったように背を向け寝ていて、やっぱり夢だったのかと思ってしまう。
けれど、耳元を掠めた生ぬるい吐息は身体が覚えている。証拠だと言わんばかりに、俺の下半身は一晩中燻り続けた。
「圭様が心配されてましたよ」
「え……」
「疲れが溜まってるみたいだから、気にかけてやってくれと。兄弟っていいものですね」
朝起きたら、圭はいなかった。きちんと畳まれた布団を横目に、ダイニングルームに行くと紺堂がいつも通り朝食の準備をしていた。尋ねる前に圭は先に家を出たと告げられ、少しだけホッとした。顔を合わせたら何を言ったらいいかわからない。ましてや、紺堂の目の前で完璧な兄を演じきれる自信がなかったから。だから、好都合だった。
「アイツがそんなこと言うの珍しいな。実家にだってたまにしか寄り付かないのに」
紺堂に悟られないように、平然と圭の話をする。
「たまにだからこそ、じゃないですか。ご実家に戻られた時は、必ず若旦那様を気遣っておられます」
「必ず?」
気まぐれな圭がすることは予測不能だ。実家に帰って来た時、話をしない時もあれば、昨夜のように一緒に飯を食う時もある。それでも、たいした会話もしないし、何より俺は圭から嫌われていると思っている。だから、紺堂に言われたことは意外だった。
「兄弟ですから、ご心配されることは当たり前なのでは?」
「俺たちは……違う」
兄弟だからと言って、仲良しこよしな関係ではない。世の中には仲がいい兄弟もいるだろうけど、俺たちがそうだったのは小さい頃だけだ。
「紺堂から見て、俺たちはどんな風に見える?」
「と、おっしゃいますと……」
「仲がいい兄弟に見えるのか?」
紺堂に聞いてどうなると思いながらも、聞いてしまうのは、俺が安心したいからなのかもしれない。外面だけでも円満な兄弟を演じていたら、俺の想いがバレることはない。けれど、紺堂からの返事は少し予想外な答えだった。
「難しいですね……仲がいいと言うか……」
「もういいよ。朝から変な質問をして悪いな。味噌汁、よそってくれ」
歯切れの悪い口調。それが何を意味するのか、感じ取った答えから逃げるように、自分から話を切り上げる。
余計なことを言い過ぎたと自覚して、目の前に置かれた味噌汁の椀を引き寄せる。
俺は、神咲家の若旦那だ。
圭への想いを隠すために、何度も何度も頭の中で繰り返す。何事もなかったかのように、味噌汁をすすりながら何度も。
自分でがんじがらめにしている自覚はある。けど、そうするしか術がない。
切ない、辛いと思う暇があるなら、完璧な神咲恵を演じることに徹する。
それは、今までもこれからもきっと変わらない。
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