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第9話
五月にしては日差しが強く、初夏を感じさせる爽やかな朝、風が吹き抜けるダイニングルームにその声は響いた。
「恵、食事に集中しろ」
「申し訳ございません」
炊きたての白米の匂いに相応しくない重い空気に、気分が一気に滅入り我に返る。
「朝食の時くらい、いいじゃないですか。楽しく食べましょうよ」
「紺堂、余計なこと言ってないで手を動かせ」
神咲賢之介 は、漆塗りの椀をテーブルに置くと、深く息を吐いた。
賢之介は俺と圭の父であり、神咲屋の大旦那だ。神咲家はもちろん、神咲屋の全ては父、賢之介に権限がある。逆らうことは絶対に許されない。大人になるにつれ、重圧は相当なもので、若旦那と呼ばれながらも大旦那には足元にも及ばない。
日常生活の殆どを着物で過ごし威厳がある父は、今も昔もあまり近寄りたくない存在だ。
今朝も例外なく着物で現れたと思ったら、こうして小言をいくつか浴びせられる。正直、空気が重い。
栗色の結城紬のアンサンブルは琉球のヤシラミ織りを思わせる網代の文で、身体に沿うようにピッタリと仕立てられている。
さすが、長年着こなしているだけあって、品格と貫禄が滲み出ていた。
「圭はこの間帰ってきたんだろ?」
不意打ちで尋ねられ、箸を持つ手が一瞬震えた。
「はい。二日前、気まぐれに」
「気まぐれに、か。アイツらしいな」
他に気に止めることなく、父は目の前の鮭の西京焼きに手を伸ばす。骨を丁寧に取り除き、口へ運ぶ。
お手本のような食事の仕方から視線を外すし、ため息を吐いた。
父は躾に厳しいだけあって、食事の仕方もいちいちうるさい。大人になっても、さっきのように小声を言われることが多い。それはもう諦めている。けれど、圭には昔から甘く、滅多なことでは怒らない。
余程のことがない限りは咎められることもなく、「アイツらしい」で話が片付いてしまう。それが羨ましいとか狡いとか思うわけもなく、それ以前に諦めてしまうのだ。
長男だから仕方ない。次男だから仕方ない。それでいい。現状を変えることは出来ないのだから、仕方ないのだ。
「次の日も、気づいたらいませんでした」
「きちんと朝食は食べて行きましたけどね」
紺藤がさりげなく会話に加わり、俺が知らない圭の行動を報告していく。
「圭は相変わらずフラフラしてるのか?」
「……と、いいますと」
「特定の恋人も作らないで、遊び歩いているのかと聞いているんだ」
「……どうでしょうか」
圭のことは正直わからない。この前のようにふらりと実家に帰ってきても会話らしい会話は何もない。だから素直にわからないと答えた。
「兄弟なんだから近況報告くらいするだろ」
「しません。そこまで踏み込んだ会話はしないので」
「全く、お前たちはもう少し仲良くできないのか。昔はあんなに――」
昔話を切り出され、遮るように手にしていた茶碗を音を立てて置く。
「俺も圭も、いい大人です。お互いのことをあれこれ話したりしないです」
いつも一緒にいて、なんでも話していたあの頃には戻れない。当たり前だ。
なのに、圭が今どこにいて何をしているのか、考えだしたら止まらない。
今頃、誰かが作った朝飯を食っているのか。それとも誰かと一緒にベッドで寝ているのか。どこかの知らない「誰か」を想像して嫉妬している。
この前、圭と一緒に飯を食った時に出てきた煮浸しをさっき口にした時もそうだ。嚥下する時に動く喉仏に欲情したことを思い出し、気づいたら父から集中しろと咎められた。そんな風に何をしていても、圭に結びつけては余計なことを考えてしまう。もう立派な病気だ。
「まぁ、そうだな。圭よりお前が心配だ、恵。誰か一緒になりたい女はいないのか?」
「それは、どういう……」
「圭はともかく、お前は神咲家の長男だ。若旦那と呼ばれながらも、いつまでも独り身なのもどうかと思うぞ」
いつかは言われると思っていた。結婚して、子供を作って神咲家を引き継いでいく。絶対に避けては通れない。
「結婚はまだ……」
「なんだ、相手はいるのか?」
いるわけないだろ。俺は圭しか見てない。俺が好きなのは圭だけだ。
口が裂けても言えない言葉を飲み込み、「いません」と一言告げた。
「そうか。なら話は早い」
嫌な予感に、食事の続きもする気にもなれず、箸置きに箸を置くと同時に父は言葉を続けた。
「今度、見合いしろ。恵にぴったりなお嬢さんがいる」
見合いという言葉に、喉の奥がぎゅっと締め付けられる。既に、相手まで決まっているなんて。
言葉が詰まり、声が出ない。嫌だと拒否する権限はなく、黙っていてもそれは決定事項に値する。
「い、今、仕事が立て込んでいるので……少し待っていただけたら……」
せめてもの悪あがきで、やっとの思いで絞り出したのは口からの出まかせだ。
急な案件は東雲の一件だけで、他のスケジュールは比較的余裕がある。見合いで一日潰れてもなんて事ないのに、少しでも引き伸ばしたかった。
「そうか、じゃあ時間が取れるようになったら言え。でも、あまり待たせるなよ、印象が悪くなる」
「かしこまりました、無理言ってすみません」
こめかみに人差し指と中指を押し当てて、軽く深呼吸する。頭の中では圭の顔がチラついて、胸が苦しい。
そんな俺を気に止めることもなく、父は食事を終えダイニングルームを出て行った。
「若旦那様、どうぞこちらを……」
モダンな美濃焼の湯呑みが、俺の目の前にさりげなく置かれる。すると、紺堂が小さな声で「飲んだら少しは落ち着きますよ」と添え、その場を後にした。
言われるがまま、手に取り一口含む。ほうじ茶の香ばしい香りが鼻に抜け、少しだけ呼吸がラクになった気がした。
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