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第19話 越境

 バキバキバキ! と雷鳴のように、木が折れる音がする。身体に衝撃があり、薫はのたうち回った。  身体があちこち熱い。痛みが引いてきて感じたのはそんな感覚だ。 「下を探せ!」  そんな声がする。木が覆い茂って空すら見えないけれど、どうやら薫は助かって、鬼ごっこは続いているらしいと悟った。けれど、地面に大の字になったまま動けない。  すると、走って近付いてくる足音がした。ああ、もう追っ手がここまで下りて来たのか、と思って目を閉じると、薫のそばでその足音は止まる。 「薫……」  エヴァンの声だった。薄く目を開けると、彼はしゃがむ。 「……痛むところは?」 「……」  全部、と口を開こうとしたら、身体中が痛んで顔を顰めた。どうしてここにエヴァンが来たのだろう、と思うけれど、それを聞いている時間は無さそうだ。 「……早くここを離れないと。動けますか?」  そう言われ、薫は何とか転がり起き上がると、エヴァンはローブを掛けてくれた。しかし、そのローブは袖が切れていて、血が滲んでいる。ハッとして彼を見ると、彼の服の袖が破られていて、彼の前腕に縛られていた。 「すみません、しばらくそれで我慢してください。街に出たら……新しい服を買いましょう」  行きますよ、とエヴァンの肩を借り、薫たちは歩き出す。  しばらく歩くと、麓の街に着いた。見つかるかもしれないので目立たない裏路地を歩き、その道中で必要そうな物を買っていく。  薫は、次第に意識が霞んでいくのを自覚した。勝手に落ちていこうとする意識を、何とか繋ぎ止めようと頭を振るけれど、強烈な眠気に襲われたように、身体が言うことを利かなくなっていく。 「薫? もう少しですから」  重くなった薫に気付いたエヴァンが、薫を抱え直した。しかし、薫の意識はそこで途切れてしまった。  ◇◇  次に薫が目を覚ました時には、馬車の荷台らしき場所に寝かされていた。起き上がろうとしたけれど力が入らず、おまけに悪路でも走っているんじゃないかと思う程揺れて、起き上がるのを諦める。 「すみません、早く街から離れるにはこれしかなくて……」  寝ていていいですよ、と言ったエヴァンは着替えていた。以前着ていた服よりも、かなり質素な服だ。それでも、エヴァンの美しさは変わらないな、と思う。  薫の視線に気が付いた彼は、微笑んで答えた。 「これから何かと入り用ですから。……貴方の服は、大人用では大きかったので、子供用にしました」  そう言われて、薫は自分が服を着ていることに気付く。子供用と言われて少しムッとしたけれど、バスローブにローブを羽織った格好では怪しさ満点なので、彼に感謝し文句を飲み込むことにした。  ガタン! と荷台が揺れる。下に薄い布を敷いているだけなので、薫は腰を打ち付け顔を顰めた。 「え、え、え……」 「何ですか?」  これからどうするつもりなのか、と聞こうとすると、彼は察して答えてくれる。 「とりあえず、国境を越えましょう。大丈夫、当てが無い訳じゃありません」 「……」  それからは、二人とも喋らなかった。重苦しい空気が漂い、薫は目頭が熱くなって腕で目を覆う。  シリル……彼はいつから、薫の中のベルしか見えなくなっていたのだろう?  薫は、割と本気でシリルのことを慕っていた。彼となら、愛されて生きていけると思っていたのに、どうしてこうなってしまったのか。 「……っ」  目尻から涙が零れる。殺されずに済んだ安堵感と、シリルとロレットに裏切られた悔しさで、涙が止まらなくなった。  エヴァンは先程から黙っている。けれど、薫にとってそれが何よりもありがたかった。 『シリルのわがままに、貴方は巻き込まれたんですよ』  いつかの彼の言葉が蘇る。あの時はどういうことか分からなかったけれど、今なら分かる。  エヴァンは、初めからこうなることが分かっていたのだ。けれど、薫が愛情と優しさを求めていたのを知って、シリルを裏切ることをするなと言うに留めた。  けれど昨夜、薫はシリルを拒んだ。だからシリルは薫を、……魂の器を替えるロレットの案を飲んだのだろう。  ひとしきり泣いて落ち着いてくると、エヴァンは「飲みますか?」と街で買ったらしい飲み物を差し出してきた。先読みの力で至れり尽くせりだな、と苦笑すると、痛む身体を何とか起こす。 「申し訳ないですが、国境を越えるまでは休む訳にはいかないんです。……辛いでしょうが、辛抱してください」  そう言ったエヴァンの表情は苦々しい。そんな彼を見て、いっその事、あそこで命を落としていた方が楽だったのでは、とよぎる。 「……」  そうか、と薫は自嘲した。無条件で愛してくれる人がいなくなった今、生きていることに何の意味もないのに、どうしてまだ生きているのだろう、と。 「……何ですか、その笑いは」  エヴァンの、心まで冷えきった声がする。それでも笑った顔は止められなかった。ここで荷馬車を降りて、何もしなかったら身体は土に還るだろうか。そんなことを考える。  すると、パシッと乾いた音がした。遅れて頬が熱く痛み、思わずエヴァンを睨む。 「ええ、確かに前世では愛に飢えていたんだなと同情しましたよ。けど、ここでシリルの寵愛を受けて、貴方は何をしていましたか?」  薫はサッとエヴァンから視線を外した。シリルの言動に疑問を持たず、耳障りのいい言葉の波に身を委ねていたのは、間違いなく薫の意志だ。そう言い切れるのは、ベルならとっくに、目を覚ましてと彼に言っているだろうから。 「何もしていないのに、何もかも諦めた顔をしないでください」  エヴァンのその一言で、収まっていたはずの嗚咽がまた漏れた。袖で涙を拭うと、エヴァンは頭をポンポンと撫でてくれる。 「……注意すべきは誰か分かりましたね? シリルを取り戻したいなら、まずは私たちの身の、安全確保です」  分かりましたか、と言う彼の声は優しい。さっきは胸に突き刺さるような冷たい声だったのに、と薫は頷いた。  そしてエヴァンには、過去未来を視る能力の他に、人の心が分かる能力もあるのでは、と思う。 (そうだ。僕はもう一度、ちゃんとシリルと愛し合いたい。……グズグズの関係じゃなく)  吃音でも、男でも、「それがどうしたの?」と言ってくれた、あのシリルを信じたい。  エヴァンの叱咤のおかげで、薫はそう思い始める。  だから、僕が逢いに行くまで待ってて。  相変わらずの悪路で尻が痛かったが、先程よりはずっと前向きになれた。

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