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第32話 追走
薫が目を覚ますと、もう朝だった。昨晩は湯浴みもせずに寝てしまったので、顔は涙でカピカピしているし、服も身体もドロドロだ。
とりあえず、気持ち悪いので起き上がって身体を洗おうとキッチンに向かった。エヴァンはまだ起きていないようで、部屋はしんとしている。
外に出て井戸で水を汲むと、少し考えてとりあえず上半身だけ服を脱いだ。布を濡らして身体を拭くと、今度は下半身をササッと拭く。家の中にはシャワーらしきものがあるけれど、自分でお湯を沸かして入れないといけないので、その時間が惜しい。
再びキッチンに戻っても、エヴァンはまだいなかった。昨日の今日で少し気まずいと思ったけれど、出勤時間もあるし起こそうと、彼の寝室に向かう。
「エヴァンさん? 起きてますか?」
ノックをして声を掛けるけれど、返事がない。嫌な予感がしてドアを開けると、そこには綺麗に整ったベッドと、彼の荷物が綺麗になくなった空間だけがあった。
「え……」
何が起きたのか分からなかった。慌ててキッチンに戻ると、やはり彼のものだけがなくなっている。
エヴァンは、薫に黙って家を出ていったのだ。
「……っ」
薫は家を飛び出す。行き先は、ウーリーの元だ。
「エヴァンさん……どうして……っ!」
視界が滲んだ。そんなに僕の告白が迷惑だったのか? だったら助けたりせずに放っておけばよかったのに! そう思って袖で思い切り目を擦る。
五分ほど走って、昨日の酒場に着いた。近くに宿屋もあるから、そこを訪ねてみる。
「おはよう薫。ウーリー? ああいるよ」
気のいい宿屋の主人は、ウーリーを薫の元まで連れて来てくれた。ウーリーはボサボサの頭で大きな欠伸をし、シャツの中に手を突っ込んでお腹を掻いている。
「どーしたのカオリ。昨日の返事を聞かせてくれるの?」
寝起きのふにゃりとした顔で笑うウーリー。女性がこの場にいたら、十人中八人はセクシーだと頬を赤らめるかもしれない。しかし薫には関係なかった。
薫はウーリーに詰め寄る。
「ウーリーさんっ、クリュメエナに行く道を教えてください!」
今にも胸ぐらを掴みそうな勢いで、薫はウーリーに近付いた。ウーリーは目を丸くして驚いた顔をしたが、すぐに真顔になって「落ち着いて」と頭を撫でる。
しかしウーリーの魂を落ち着ける力も虚しく、薫はボロボロと泣いてしまった。
「……エヴァンさんが、いなくなってしまいました……っ」
「朝一で会いに来てくれたと思ったら……他の男の話かぁ」
妬けるなぁ、とウーリーは薫の頭を撫でる。そして「だから嫌いなんだよあのひと」と彼は舌打ちした。
「昨日の告白も邪魔しにくるし」
口を尖らせるウーリーは、薫の肩を抱いて部屋に連れて行く。薫はどうして? と思っているとウーリーは荷物をまとめ始めた。
「クリュメエナに戻るんだろ? 俺と一緒に戻ろう」
それと、とウーリーは片付けていた手を止める。
「薫は、エヴァンが好きなんだな?」
ストレートに聞かれて、薫はかあっと顔が赤くなるのを自覚した。でも真剣なウーリーの視線に、こくんと真面目な顔で頷く。
ウーリーはそれを確認すると、また片付けを始め、それが終わると、薫の荷物をまとめよう、と家まで付いてきてくれた。
「カオリ、きみは馬に乗れる?」
「……いえ、乗ったことがないです」
分かった、とウーリー。馬車で行くと目立つし襲われやすい、二人乗りでこまめに休憩して行くか、それとも、とブツブツ言っている。どうやらウーリーは、考え事を言葉にして整理する癖があるようだ。
「多分エヴァンは一人だから、馬で行ってると思う。カオリも前世は馬くらい嗜んでたとは思うけど、……期待しない方がよさそうだね」
じゃあ、行こうか、と薫の準備が終わるのを確認すると、二人で家を出る。
クリュメエナへの道は、馬を二人乗りして、疲れたところで馬を乗り換えて進むという、ウーリーの財力にものを言わせた旅になった。薫がひたすら恐縮していると、「好きな子の恋路は手助けした方が、後で巻き返しに出られるかもしれないしね」とにっこりされて、返答に困ったけれど。
道中、休憩がてらウーリーは色んな話をしてくれた。薫と一緒に働いていた人たちは、もともと奴隷の身か、その子供だと。みんな明るくいいひとたちだったので驚いていると、読み書きや仕事のノウハウを教えて、その楽しさに気づけば自分たちで学び始める、とウーリーは語る。
物としての戦力ではなく、人としての戦力だと思えば、これほど価値のあるものはない、とウーリーは言った。
「俺は元々、ユチソンドの表立って解決できない物事をどうにかする役割だったからね」
要は厄介事の片付け係さ、と彼は苦笑したけれど、第五王子とはいえ彼の性格からして、王族のしきたりにまみれた生活は合わないだろうから、ユチソンド国王の采配はお見事としか言いようがない。
「面倒なことこの上ないよ。ずっと下町を、奴隷の集まってる町をウロウロして遊んでたばかりに……」
「え、よくそれで無事でしたね」
薫が目を丸くして驚くと、ウーリーは「要領だけはよかったからさ」と笑う。
「ただ、やっぱり子供は普通なんだよ。遊びも俺らとそんなに変わらなかった。一緒に遊んで、お腹空いたってなると、その辺の店から盗んでいくんだ」
当たり前のように、と彼は眉を下げる。そしてその子供は、店の店主に殺されていた、と遠くを見て呟いた。
一緒に遊んでいた子が殺されて、ウーリーはショックを受けたそうだ。周りの大人にも訴えた。一緒に遊んでいた子は同じ人間なのに、どうして毎日飢えている、と。
「そしたら国王……父上が、こっそり読み書きを教えなさい。お前からは何も取っちゃならん、ただ知識を与えなさいって」
何度も読み書きを教えたゆえに裏切られたけれど、結果的に学ぶことを覚えた奴隷は、能力が高く、重要な仕事をするまでになった。
「そこで父上が視察に行くんだ。そして『このような重要な仕事をしているのに、賃金を与えないとは何事か!?』と。能力が高い者には賃金を、と命令するんだ」
そしてこの為に、俺を下町で遊ぶのを黙認してたのか、この狸爺 ! って怒鳴ったらしい。
なるほど、と薫は思う。いきなり国王が奴隷解放宣言をしたら、当然反発も起きるだろう。そして見下している人間に自分の立場を脅かされれば、頭のいい人間は、それ以上の能力を付けようと努力する。
そして、そういった努力をしない者に対して国王は言ったらしい。「力で抑えつける理屈が通るならば、私もそうしよう」と。
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