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遥かな闇から 一

「ええ、聞きましたよ……」  チョキン……、と鋏の鳴る音が午後の座敷にひびく。  都は乙女椿の無駄な葉を切りおとしながら、しずかに語った。  こんなことを、望様の耳にいれていいものかどうか……。ですけれども、やはりお知らせしておいた方がよろしいですわね。  仁様は、向こうで、好きな方ができたそうですわ。  聞いた話では、もともとはさる名家のお嬢様で、嘘か本当か、清朝の貴族の姫君だというのですけれど……。まぁ、本当かどうかは知りませんよ。そういう方が、時代の趨勢で零落なさって、妓女となり、妓楼で働くことになったそうですの。  妓女というのは、まぁ、日本でいうところの芸者さんですわね。日本でもこういう話はよくございますわね。幕末のころには、士族のお嬢様が芸者になった……、などはまだいい方で、女郎に身を堕としたというのも、ざらにあった話でございますよ。  わたくしの遠縁にも、そういう話はございましたわ。徳川の時代にはお姫様、奥様と呼ばれていた方が、芸者になった、女郎、今でいうなら娼婦になった、金持ちの商人の妾になったなどという話は、当時は本当に珍しくもなかったそうで……、あら、話がそれましたわね。  仁様は、お友達やお仕事上のお付き合いの方に招かれて、その金谷楼(きんこくろう)というところへ登楼なされたそうですわ。殿方のおつきあいには、そういう場所は必要なのでございますよ。  仁様は、それは真面目な方でございますから、最初はかたくなにそういう遊びはご辞退なされていらしたのだそうですけれど、悪いお友達に――これは、もしかしたら勇様ではないかと思うのですけれど――無理にお酒を飲まされて、強引に、お部屋へ連れこまれて、まぁ、相手の方の接待を受けたとか……。  相手の方のお名前は、紫珠というのだそうですが、本名かどうかはわかりません。向こうでも、そういう職業の人は源氏名というのを使うかもしれませんし。  なんでも、晋代の有名な妓女にあやかってつけられた名前だとか。親がつけたのか、抱え主がつけたのかはわかりませんけどね。

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