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遥かな闇から 九
「ま、待ってください! 旦那様の前です……!」
「なに、相馬様は粋人 だ。野暮なことはおっしゃらんだろう。ですな、相馬様?」
苦い笑い声が響く。
「まったく雨沼さんにも困ったものだ。今夜は離れに部屋を用意しましょう。ですが、くれぐれも約束は守ってやってくださいよ」
「勿論ですとも。この雨沼大蔵は、契約は必ず守る男です」
障子に描かれた影絵は鬼の宴と題をつけたるなるようなものだった。鬼と鬼の会話だ。だが向こうにいるのは紛れもなく望の父なのである。
身体の震えをおさえている望の耳に、足音が聞こえてきた。
望はそれが誰の足音か、直観していた。
逃げる間もなく、勇がすでに背後に立っていた。
彼の持つ熱気と、男の匂いが辺りにたちのぼり、それだけで望は圧倒されている自分を自覚する。
勇は勤め帰りなのか、軍服姿のままだ。
あ、あの……。
何か言わねば、と焦った望に、相手は、にやり、と不敵な笑いをむけた。
そしてすぐに望を無視するように座敷に向けて声を放つ。
「遅くなりました!」
望の心臓が止まりそうになるほどの大声で、勇が障子向こうの男たちに告げると、普段めったに動揺などしないはずの男たちが、あきらかに狼狽 えているのが伝わってくる。こんなときだが望はすこし痛快に感じてしまう。
「いきなり大声を出す奴があるか!」
座敷から父の苛立った声が聞こえてきた。
「おお、こちらが噂にきく男前の中尉さんかね。いや、なるほどなかなかの、いや、たいした男ぶりだな」
雨沼の声は、香寺に向けられていたときとはまた違ったぬめりのようなものを含んでいた。
勇はそのまま座敷にずかずかと入っていく。
「そちらが雨沼さんで? 噂はお聞きしていますよ」
「勇、立ったままで失礼だろう。とにかく座りなさい」
どかっと、勇が座ったような気配が伝わってくる。おそらく雨沼の前で平然とあぐらをかいているのだろう。
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