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遥かな闇から 十

「困った奴でして。そんなふうだからいい歳をして嫁の来てもないのだぞ。申し訳ない。大陸での任務が長かったせいで、こいつは日本の作法に疎くなってしまいましてね」  父のとりなすような言葉。 「なんの、なんの、聞いておりますぞ。相馬勇といえば帝国陸軍きっての美男子だとか。相馬仁とならべば、どちらが菖蒲か杜若か。社交界の年頃の令嬢たちは、お二人の帰国でわきたっておるとか。嫁の来てなどごまんとあるはずでしょうが。結婚されないのは……、相馬中尉は女性に興味がないのでは、と言われておりますぞ」  勇の笑い声。遠慮も照れもない、豪快な笑い声。 「とんでもない、こいつは、大の女好きですよ」  父の苦笑まじりの言葉は、雨沼に媚びているようで望はいらだつ。  思えば父忠には、あの祖父の傲岸さ泰然さはなく、勇のような豪胆さも、仁のような潔癖さもない。  華族にしては商才のきく方で、貿易の仕事をうまくやっているが、どこか小人物なところがある。家族なのだから勿論、望にとって父は大事な人であるが、なんとなく男として、人間として軽く見ているところが――望本人は自覚していないが――ある。  おそらく、こういう話をとりもつことで、仕事上のことで、雨沼からうま味を引き出すつもりなのだろう。華族というより実業家に向いている人だ。そのおかげで望は裕福な生活ができるのだが。華族でも貧しい家は多い。  祖父や勇の方が異常、というか、桁外れなところがあり、むしろ父忠などはいたって世間の尺度に合った常識人なのだろう。  しかしやはり、この時代の支配階級の人間のつねとして、人を、金や地位をもたぬ人間を人として見れないところがある。  父や勇、雨沼に囲まれるようなかたちで、香寺はどんな顔をしているだろう。望は気になって仕方ない。  気になる理由は、ただ心配しているだけではなく……追い詰められて困窮している香寺の顔を見てみたい、という欲望もたしかにある。  章一をなぶっていたときと、おなじ欲望、欲求からきているものなのかもしれない。

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