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第19話 枢流の部屋

 人間が使える魔法など、この世に存在しない。  しかし、神の残した奇跡は確かにこの世に偏在する。  それは世界の常識だった。  その神はすでにこの世界を後にしており、新天地で、われわれの来訪を待っている。  それが、鳳凰千舞を擁する国の――いや、大陸の信仰である。  とはいえ、それらの奇跡は基本的に人の手の及ばないような過酷な場所や、到達するのに国家がプロジェクトを立ち上げて取り組まなくては到達できない遠方にある。  ほとんどの人々は、そんな奇跡などには無縁のまま、近所のマーケットやコンビニエンスストアでの、品ぞろえや価格、新商品のラインナップのほうに注目しながら暮らしていた。  とはいえ、皇沙羅衣は、どちらかといえば「国家が立ち上げるプロジェクト」に密接にかかわる血筋にあったのだが。 「ほら、皇先輩。そのナスはよくありませんよ。ヘタがやわらかくなっています。野菜の見立てもできないのですか?」 「ああ、皇先輩。そのトマトは熟し過ぎています。ほら、指で押さない。常識というものがないんですか?」 「おや、皇先輩。その玉ねぎは……」  自分の奴隷から繰り返される指摘に、とうとう沙羅衣の我慢が限界に達した。 「……なあ、枢流。この買い物って、おれがマーケットまで同行する必要あったのか……?」 「なにをおっしゃるのです。僕の一人暮らしの部屋へ、来てくださるのでしょう? 粗相なくお迎えするためにも、好き嫌いやアレルギーは把握しませんと」 「アレルギーは特にないし、うろこのない魚以外はたいがい食べられるのだが」 「その油断が命取りです」 「命の問題かなあ」  ある日曜日、二人は連れ立って、寮の近くのマーケットまで買い出しに来ていた。  沙羅衣が、「一度くらい君の部屋を訪れてみたいんだが」と言ってみたところ、とんとん拍子に話が進んだ。  枢流が「それでは、軽い夕食でもおつくりしましょう」と言ってくれ、今に至る。  昼下がりのマーケットは、親子連れでにぎわっていた。  買い物のカートにぱんぱんに商品を詰め込みながら、両親が子供をあやして、適当なお菓子を買い込んでいる。 「なんだか少しあこがれるな、ああいうの。おれが小さいときは、あんな買い物風景にはならなかったからな」 「そうでしょうね。一般人が来るようなお店には、そもそも出入りする機会がなかったのではないですか?」  その通りだった。  皇沙羅衣という皇家本家の次期当主が、幼少期に、両親とともに日常の買い物などできるわけがない。  買い物は基本的に住み込みのメイドたちがおこない、沙羅衣が学校からの行き帰りに立ち寄るところといえば、習い事くらいだった。それを立ち寄るとは言わないかもしれないが。  買い物を済ませると、二人は枢流のワンルームマンションに向かった。  入り口は二段階の自動ドアで守られており、セキュリティの高さを感じさせる。  そして五階建ての四階にある枢流の部屋は、ダイニングキッチンのほかに三つの部屋がついた、およそ同年代の男子が一人暮らしするような部屋とはかけ離れたものだった。 「……おれもそんなに詳しいわけじゃないが、尋常じゃなく広いんじゃないか、この家」 「祠堂家のお金じゃないんですよ。本家の道楽でいくつかの分家に分け与えられた分譲マンションでして、両親が住むにも広くて、二人じゃ掃除が大変だからって、ぼくがもらったんです」 「それで一人暮らししてるんじゃ、世話がないな」  沙羅衣が見た限りでは、掃除はきっちり行き届いている。  特にクリーニング業者は入れていないというので、枢流が自分で部屋を清潔に整えているのだと思うと、沙羅衣は背筋が伸びる気がした。 「少し早くつきすぎましたね。まだ二時ですよ。夕飯の支度自体は一時間もかからずに終わりますから、先にシャワーでも浴びますか」 「人の家に来て、いきなりシャワーって浴びるものか?」 「いいじゃないですか、今日は暑かったですし。一緒に入りましょう。また、体を洗って差し上げますよ」  口角を小さく上げる枢流が、先日の寮の浴場でのことを言っているのは明白だった。 「あ、あのなあ! あれは君がいきなり!」 「ほら、こちらです」 「聞けよ……」 「聞いてますよ。今日は、ふつうに洗いますから」  やれやれ、と沙羅衣は脱衣所に向かった。  枢流の部屋は、風呂場も広かった。  白い陶器の湯舟はゆうに五人くらいが入れそうだったし、洗い場の床は、これまた大の大人が寝そべっても三四人は手足を広げられる。 「よくこんな家や風呂場で、掃除が行き届くものだな……」  枢流がバスタオルや着替えを持ってきて、作りつけの棚に置いた。  そのままするすると服を脱いでいく。  そういえば、枢流の裸体をちゃんと見るのは初めてだったな、といまさらながらに沙羅衣は気づいた。  寮の時はもうもうとした湯気があったのと、後ろにいられたためにあまりしっかりと枢流の体を見ていなかった。特段、じろじろと見ようともしていなかったのだが。  雪のような白い肌で、全体的に引き締まっているのに、なまめかしいやわらかさがある。  力がこもっていないペニスは、シンプルなまっすぐさで、股間から降りていた。  腕やわき腹はそんなに強く筋肉が浮き出ていないが、枢流が風呂場のドアを開けるときなどに少し力をこめると、ふっと筋が浮いて、力強さを感じさせた。

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