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act.4 Ver.Wataru

 その日、環が教会を訪れると莉音の姿はなかった。  熱を出して寝込んでいる、と夕爾から聞かされ、見舞いを申し出たがすげなく却下されてしまう。 「嵯峨くん、ちょっといいかな。話したいことがあるんだ」  普段とは違う、有無を言わせない強い口調。莉音に関することだろう、と察しがついた環は、黙って頷いた。  応接室に入るのは初めてだった。  花瓶に生けられた薔薇から放たれる濃い芳香が、簡素な造りの部屋にちぐはぐな印象を与えている。 「きみの友人から話を聞いてね。あまり他人の色恋沙汰に口を出すものではないと思うんだが……」 「そうですよ。オレたちは、今のままでじゅうぶん幸せなんです」  きっぱりと言い放つ環に、夕爾は泣き笑いのような表情を見せた。 「本当にそう思っているのかい? 陣内くんは、きみが今にも泣きそうな顔をしていたと言っていた」  やはり悠を誘ったのは失敗だった、と環は苦々しい思いでくちびるを噛む。 「そんなの気のせいですよ。あいつ、りおを見て興奮してたくせに」 「どうして、きみたちはあんなことを……」  夕爾がしまった、という顔をするのを見て、環はソファから立ち上がった。 「オレたちのことは放っておいてください。もう帰っていいですよね。りおに会えないなら、ここに来た意味もないし」 「すまない……ぼくはただ、なにか力になれることはないかと」  うなだれる姿に少しだけ胸が痛んだが、環は背中を向けて部屋を出ていく。  夕爾が心配する気持ちも理解はできた。でも、もう手遅れだ。  自分たちはとっくに、後戻りできないところまで来てしまっている。  礼拝堂に向かった環は、誰もいないことを確かめてからパイプオルガンに近付いていった。  そっと鍵盤に触れてみると、自然に頭のなかで美しい旋律が鳴り響く。  出逢ったばかりの頃、莉音は同じ曲ばかりを繰り返し弾いていたっけ。    環がアニメの主題歌とか聴きたいな、と言うと、それはそれはとんでもなく冷たい視線が返ってきたものだった。  教会に通うようになって、自分の来訪を心待ちにしてくれているのを感じ始めた頃に告白した。  返事をもらうまでに一ヶ月要したが、無事に恋人同士になり――そこからは、蜂蜜のようなあまい世界が待っているはずだったのに。  主のいない椅子の座面に片手をすべらせる。ひんやりとした木の感触に、なぜか涙が滲んだ。

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