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第7話
忘れ難い『大事故』から数日経った。
魔女の軟膏作りは暗礁に乗り上げていた。慎重にレシピを確認しながら何度か再挑戦したが、結果は変わらなかった。と、いっても実際に試してみるわけにはいかず、洒落に遠巻きながら嗅いでもらった匂いで確かめているため、精度としては微妙なところだ。だが、洒落は何度も唸りながら、首を横に振って正規の軟膏ではないと否定した。曰く、「こないだのと同じ軟膏の匂いがする」――と。
正しい軟膏がどんな匂いなのかはわからないが、少なくとも前回と同じものだという判定は下された。
「はあ……」
安吾は大学図書館の席に座るなり大きく溜息をついた。
ここのところ、ほぼ毎日【一九二一】に通い詰めていることもあって課題の進捗が滞っている。提出期限を超えてしまうようなことはないが、多少なりとも不安要素は解消したい。そこで講義の空き時間には図書館へ足を運び、課題を進めているのだが……気が付くと洒落のことを考えていた。
穏やかな笑みを湛えた青年。鼻の上に乗っかったロイド眼鏡からは機知と静謐といった言葉が浮かぶ。
だが実際は真逆だ。表情がころころと変わり、まばゆく笑ったかと思えば涙を溢れさせて泣き、しょんぼりと俯いたたかと思えばぱっと目を輝かせて顔を上げる。安吾の数倍は年を経ているはずなのに、困ったようにほころばせる表情はどこか幼く可愛らしい。
そんな彼に好きだと言われた。
「……」
告白された記憶が蘇った瞬間、思考回路が停止する。連想ゲームのように昔の記憶が引っ張り出されたせいだ。
十六年前の記憶。断片の光景でも覚えている。
物心ついたときには母親は病気で入院していた。今では匂いも声も、顔すら覚えていない。どんな人だったのか自分の記憶だけでは推察することも叶わない。それほどまでに母親との思い出は乏しいのだ。父親が病院に連れていってくれなければ母親に会うこともできなかった。ふと、ある日、母親に手紙を書くことを思い付き、どうせなら華やかな手紙にしようとお絵描き帳を使ってクレヨンで絵を描いた。鉛筆で覚えたてのひらがなで自分の思いを綴った。『はやくげんきになってね』『げんきになったらいっしょにあそぼ』『いっぱいあいたい』――といった、言葉だったはずだ。
作った手紙を綺麗に折り畳んで、父親にこれを渡したいのだと伝えた。すると父親はいきなり手紙を開いて、こう言った。『てにをはが無茶苦茶』『勉強してないからこんなクズを作るんだ』『くだらないものを作るな』。そして手紙は破り捨てられた。
けれども諦めなかった。意地になって何度も手紙を描き、その都度破り捨てられた。
それで――
「あーんごちゃーん」
「……!」
我に返った瞬間、ずしりと頭に重たいものが乗った。
「重い。退け」
「やーん、お前様ってば冷たぁい」
笑いながら身を引いたのは黄だった。
重たげな上製本を片手に安吾の隣に腰を下ろす。
「珍しいね、安吾ちゃんが図書館に長居してるなんて」
「そっちこそ図書館でなんの儀式をしてるんだ? 今日はオカ研の活動日だったか」
オカ研ことオカルト研究会は黄の所属しているサークルのひとつだ。
主に超常現象の調査と真相探求に重きを置いていて、怪しさこそあれどその辺のサークルよりも真面目に活動をおこなっている。
議題を提出し、期間を決めて手間暇を惜しまない調査をおこない、レポートにまとめて発表している。黄はリサーチ担当で時々発掘や探索で遠出をしたり、海外のイベントに参戦したりとそれなりに忙しいらしい。疲れた声をあげても、けして愚痴は零さない辺り、黄なりに活動を楽しんでいるのだろう。
「そうそう、それで本を借りに来たの。書庫の方から取り寄せてもらった海外の翻訳本。これでやっとリサーチの幅が広げられるよ」
「……そうか。よかったな」
「なになに? なんかお悩み? 俺でよければ相談乗るよ?」
安吾は深々と溜息を零して、頬杖をつく。
そして、なんとなく思い付いた体(てい)で――黄に尋ねてみる。
「なあ、たとえばなんだが。物作りで失敗しないようにするにはどうしたらいい?」
黄はわざとらしく瞬きを繰り返し、そして苦笑しながら言った。
「へえ、物作り。安吾ちゃんなに作ってるのさ」
「まあ……料理みたいなものだ。何度やっても失敗してしまう」
ここ数日、嘘とは言い難い、誤魔化すような物言いばかりしているような気
がする。安吾は心の中で独り言ちながら黄の反応を待った。
「んー……俺も、物作る経験は薄いからねえ。ちなみにどういう失敗なの。味付け? 見た目? それとも完成品に辿り着かないとか?」
「不味くはないが作ろうと思っているものと違うものができあがる」
「へえ、ある意味成功じゃん?」
「でも、それじゃ駄目だ。目的のものができないと……困る」
一瞬、言葉に悩みながら呟く。
「……料理ってさ、思い切りが大事だったりするわけよ。やりすぎるとそれはそれで失敗の元になるけど……なにか決めあぐねてることがあるとか、タイミングとかで躊躇してるとか」
言われてみれば――材料を入れるタイミング、入れ方、量。すべてが安吾の感覚や勘に託されていた。躊躇するタイミングや迷う場面がなかったとは言い切れない。これまで数回こなしてきたが、毎回首を傾げながら材料に手を伸ばしている。未だに慣れはやってこない。
「本当にそれを作りたいなら、そのことだけに集中しないとね。横着は駄目――なんかそういう心当たりはない?」
「そんなこと……」
軟膏作りに集中力を欠いていたとは思えない。横着もしていない。ただ完成だけを目指して、必死で――
……本当にそうだろうか。
心のどこかで上手くいかなかったことを想定していなかったか。軟膏について懐疑的に考えていた瞬間がなかっただろうか。軟膏の不出来を洒落のせいだと、責任のなすりつけができないかと無意識に穿(うが)った目で見ていたことは?
思い浮かんでは否定するも、考えれば考えるほど自分の思考が疑わしく思えてくる。
「そもそも――作り方は合ってるの?」
「それは……」
と、言葉を留めて考え込む。
留書の書かれたノート。古いインク。軟膏の作り方が書かれたページ。
わかりやすく置かれていた場所。
「もしかして」
一人呟く安吾に、黄は肩をすくめながら微笑みかけてくる。
「なにか掴めた?」
「まあな。それで、黄に頼みがある」
予想外だったらしく「へえ?」と声を漏らしながらも姿勢を崩した。
「ウィジャボードの使い方を教えてくれないか」
オカルトはフィクションの要素に過ぎないものだと思っていた。
魔女も、魔法も、超常現象も、現実ではありえないものとされているものすべてが、別の次元の物事として分類されていた。本で読むことはあっても現実では存在しない――と思っていたのだが。
「降霊術がしたい」
「へ?」
黄と別れた直後、【一九二一】にやってくるなり、安吾はカウンターで読書中の洒落に尋ねた。
魔女やら使い魔やら魔法の薬やらに関わるようになってから、正気を疑われるような単語を口にすることに躊躇いがなくなった。おかしなもので、安吾を巻き込んだ張本人を驚かせることになるとは数週間前には思いもしなかったことだ。
「降霊術って……死んだ人の霊を降ろす術のことだな。どういうことだ?」
洒落は唐突な質問に驚きながらも、読んでいた文庫本のカバーを丁寧に直しながら聞き返した。
「まずはできるのか、できないのか。その答えが欲しい」
「……できるとは思うけど。それには今、作ろうとしてる軟膏が必要になる。ただ、キヨが亡くなってまだ三十日は経ってないから、もしかすると……なにか儀式の媒介になるような別のものがあれば、わしの魔力で誘導できるかもしれない」
「そうか。なら――これは媒介になりそうか?」
安吾が肩にかけていたトートバッグから取り出したのは――木目の美しい盤だった。
表面にはアルファベットと数字が規則正しく並んでおり、使い込まれているせいなのか、経年劣化のせいなのか、所々で擦れや汚れが目立っていた。だがそれ以上にデザインが際立っている。アンティーク品として価値があるというだけあって盤の縁飾りや細工が美しく、思わず触りたくなってしまう。部屋の隅に置いておくだけでも、インテリアとしての務めを十分果たしてくれるだろう。
「これは……?」
「黄から借りてきた。知ってるか? 降霊術をするための道具、ウィジャボードだ。これでなんとかならないか」
「おお、名前だけは。へえ、これが。ほお……」
洒落はしげしげと盤を眺め――そして、安吾の方へゆっくりと視線を戻した。
「やってやれなくはないかもしれない。でも……誰と話をするつもり?」
「加藤キヨ」
名前を出した途端、洒落が息を詰めたのがわかる。
安吾は逆に息をついて続けた。
「キヨさんに確認しないといけないことがある。これはあんたの契約云々にも関わりがあることなんだ。協力してくれないか」
「……他になにをすればいい?」
意外にも落ち着いた声音だった。眼鏡の位置を整え、真っ直ぐ安吾を見据えている。安吾の予想以上に切り替えが早い。
「キヨさんと縁があるものが必要なんだが、なにかないか」
「ここにあるものは、だいたいそうだけど――多分、一番はわし」
どこか誇らしげに、それでも照れ笑いを浮かべながら言う洒落。冗談なのか本気なのかわからないが、言葉自体は事実だろう。
安吾はぎこちなく頷いて、「あんたの次に縁があるものは?」と重ねて聞き返す。
「んー……キヨが娘時代に着てた大切な着物……二人で暮らすようになってから使い始めた急須……クロがキヨに贈った大事な髪留め……」
「じゃあ、全部置こう。縁のあるものを近くに置くと、交信時の繋がりができやすいそうだ。それと、自然物のある静かな場所があればいいんだが」
「それならいい場所がある」
「おいで」と洒落は軽い足取りで二階へと向かった。キヨともう一度会えるかもしれないという期待で、文字通り浮足立っているのだろう。安吾はそんな後姿を少し離れたところから見上げながら寂しげに微笑んだ。
本当にこれが正しい選択なのかどうかはわからない。もしかしたら、洒落にとっては聞きたくないことを聞かせてしまうかもしれない。これから安吾が聞こうとしている返答によっては洒落が傷付くような結果に転がることもあり得るからだ。
すべて話すべきだろうか、と安吾は階段を上がりながら、何度も思案したことを再び巡らせた。
結果は同じ。こうでもしなければ洒落は力を貸してはくれないだろう、だからこれでいいのだ。
……そうやって、無理矢理結論付けることしかできない。
洒落は自分のことを好きだと言ってくれた。
だが、安吾の方はというと、誰かの好意というのは――『好き』は苦手だ。
好きだと思いたくない。好きなものを作りたくない。好きなものを否定されて、裏切られて、傷付けられたくない。
だから――洒落を、これ以上好きになりたくない
そこかしこに自分本位な考えが渦巻いていて、嫌になる。
洒落には聞こえないような小さな声で安吾は呟いた。
「ごめんな」
「――ん? なんか、言った?」
「なんでもない」
安吾が素早く残りの段を上り切ると、左側の蔵のような部屋の前で洒落は待っていた。
最近は『薬草の部屋』として開け放たれている蔵だったが今は戸が閉まっている。どうやって戸を開けるのかと安吾は興味深く洒落の動きをじっと見張っていた。安吾の視線に気付いてか、洒落は少し気取ったように木札を取り出してみせた。錠前に木札を差し込むと、がちりと音を立て、続けて戸の向こうで、かちり、かち、かち……と金属音が幾重にも連なった。
しばらくして、木の擦れる音を響かせながら両開きの戸が開いた。
「暗いと思うから気を付けて」
洒落の先導で中へ入る。
真っ先に飛び込んできたのは夜空だった。だが外気は一切感じられない。天井が一面ガラス張りになった部屋の中だ。白と黒の格子状の床に、本や絵画が直に散らばっている。洒落が灯りを点けると、想像以上に狭い室内だということに気付いた。正確には――あまりにも雑多に物が散乱しているせいで歩ける床面積が極端に狭いのだ。
「……ちょっと整頓する必要はあるけど、ここなら使えるんじゃないかな。自然物……空、とかよく見えるし」
「この部屋は……倉庫か?」
「クロが昔使ってた部屋だって。わしは使ってるところをほとんど見たことがなかったけど」
確かに埃の量からしてそれなりの年季は入っている。安吾は埃の固まりを床の隅に避けながら頷いた。この部屋なら、掃除をして換気さえすればすぐにでも使えそうだ。邪魔も入らないだろう。
洒落と手分けをして部屋のスペースをできるだけ空け、ウィジャボードを置く場所を作った。ウィジャボードを囲うように、周りにはキヨと縁のある品々を並べて準備完了だ。
傍から見ればなにかのままごと遊びのようだと我に返りそうになるところを堪えつつ、安吾は洒落に「始めるぞ」と声をかけた。
「やり方は知っているか」
「プランシェット――ボードに付いている小さい板に指を乗せて質問を投げかける。すると質問に対してアルファベットや記号の上をプランシェットが移動して、答えやメッセージを示してくれる……で、合ってる?」
「合ってる」
概ね黄の説明と合致していた。だが黄曰く、特定の霊に呼びかけて応えてくれるのはかなり稀なことらしい。大抵の場合、浮遊していた霊が偶然現れることがほとんどで、よほどの繋がりがない限り霊は呼ばれていることにすら気付いていない、とのことだ。
洒落が上手くやってくれればいいが、誘導のために魔力を使うということは、つまり……。
「安吾。その、安吾は嫌かもしれないけど……魔力、貰ってもいい?」
「……ああ」
嫌じゃない。本当はそう言いたかった。
安吾は唇を引き結んだ後、やんわりと洒落の唇を受け入れた。
ちゅ、と小さな音が鳴ったかと思うと、洒落は安吾の唇を舐めて離れていく。
「ん、安吾。手を握ったら目を瞑って」
頷いた安吾は洒落の手を握りしめる。
空いている手をプランシェットに乗せ、それから言われた通りに目を閉じる。
遅れて洒落も手を重ねた。
……気のせいかもしれないが、犬の手のような小さな肉球の感触が伝わってくる。だが握っている手は確かに人の手の形をしていた。
「……キヨちゃん。キヨちゃん」
洒落が名前を呼ぶと、応じるようにプランシェットが動きだした。
力は入れていない。もちろん、洒落も同じだ。このまま離してしまって勝手に動き回っていそうな勢いで――プランシェットがボードの上を回っているのがわかる。
「目を開けて、安吾」
安吾がゆっくりと目を開けると、相対するように加藤キヨが立っていた。
「……!」
大声をあげて飛び退きそうになるのをなんとか堪えて、早鐘を打つ心音と呼吸を整える。
「この板から手を離しちゃ駄目だよ。キヨが消えちゃう」
「わ、わかった……」
二、三度、深呼吸をして、改めて頭から足の先までキヨを眺め回した。
梔子色のショールを肩にかけ微笑を浮かべている。安吾が最後に見たキヨの姿そのものだ。
ただし、体は透けていて向こう側の景色が見えている。まるで動画を一時停止させたように微動だにせず、体に躍動感や生気といったものが感じられない。これが幽霊というものなのだろう。
安吾は緊張しながらキヨに話しかけた。
「キヨさん――初めまして。覚えていらっしゃるかわかりませんが、俺は蓬安吾。前に店で本を買わせてもらった者です。今日はあなたに聞きたいことがあって、洒落に頼んで呼んでもらいました」
すっとプランシェットが動いて、『YES』の文字の上で止まる。安吾の声は届いているようだ。
安吾は深く息を吐いた。
「あなたは、わざと間違った軟膏の作り方を残していきましたね。使い魔の契約破棄が失敗するように」
プランシェットは震える音を立てた。だが、『YES』の文字の上から動く気配はない。
一方で、隣の洒落の表情は凍り付き、口を半分開けたまま固まっていた。
ここで引くわけにはいかない。自分のためにも、洒落のためにも。
覚悟を決めてさらに言葉を続ける。
「最初に留書を見たときに気付くべきだった。青いインクの文字はクロさんの字。黒いインクの文字はキヨさんの字。主体となって書いているのはクロさんの青い字で、注釈を入れて補佐していたのはキヨさんの黒い字だった。間違いなくあのノートはクロさんのものだ。だが、留書に書かれた『軟膏の作り方』の文字は黒――あれはキヨさんの文字だった。たとえまったく関係のないものを作り出す留書であっても、『軟膏の作り方』と書いてあれば作り方に詳しくない者は簡単に信用する。つまり、『軟膏の作り方』の文字は後から付け加えたもの――ですよね」
洒落も全容を把握しているわけではなかった。留書がなければ作れない程度の知識しか持っていなかったのであれば、工程はともかく材料が多少異なっているだけなら誤魔化せただろう。
繋がっている洒落の手に力が入っていくのがわかった。
プランシェットは変わらず『YES』の上で震えている。
「俺たちが軟膏を作れるよう手助けするために、ノートをわかりやすい場所に置き、材料を用意しやすいように残したんだと思っていた。だが実際は他の選択肢を見えないようにするため――別のノートを探すという行動を潰すために用意された目くらましだった」
現に、安吾も洒落も、他のノートやノートの他のページは一切見ることなく制作に没頭していた。
「そこまでして軟膏とは別のものを作らせたかったのは何故か。俺は前に洒落が話してくれたことを思い出しました。『ちょっとした儀式』のこと。ただ薬草を調合して、決められた時に式をすればいい。必要なのは薬とタイミングと魔女の魔力――と、言っていたと思う。俺はこのとき、洒落に尋ねなかったことがある。 ……タイミングを逃すとどうなってしまうのか」
「……契約破棄が失敗する」
洒落が小さく呟いた。だが、その先を話すべきかどうか悩んでいるらしく言葉を詰まらせている。
安吾も聞くべきなのか――否、尋ねるのが怖かった。だから時間が置かれて情報がまとまった今でもその疑問を口にしてこなかったのだ。
やがて、洒落が口を開く。
「契約破棄が失敗すれば、わしは契約したときのただの野良犬に戻る」
「そうか。なら、成功したらどうなってたんだ」
「契約破棄が成立すれば……わしは、わしは……キヨの元にいく。繋がりがあったとしても、死後の人間とのやりとりには代償が必要になる。破棄されたと同時にわしはキヨの元にいって、キヨの伴をする。そして、クロの待ってるあの世に向かうことになる。 ……わしはそれを望んでた」
安吾は洒落の言葉を咀嚼するように、ゆっくりと瞬きをした。
「……俺はてっきり逆だと思っていたが。そういうことか」
『繋がりのない死者と契約を交わすのは死を覚悟することよりも危険なこと』。そう説明したのは洒落だった。言い換えれば、繋がりのある死者との契約は死を覚悟するということだ。
プランシェットも場所を変えずに音を立てている。どうやら洒落の言っていることに間違いはないらしい。
「あなたの目的は洒落をあの世に連れていかないようにすること。洒落を守りたかったんだな」
がたん、と。プランシェットが一際大きく『YES』の上で跳ね、静かになった。
静寂の中、聞き覚えのある声が響く。
「洒落」
「……キヨちゃん?」
目の前のキヨが困ったように微笑む。
どこか、洒落に似た笑い方だった。
「やっと声が通じた。よかった、まだ間に合って」
キヨは「あなたの魔力のおかげだねえ」と安吾に小さく頭を下げた。
「……わ、わし……わしもキヨちゃんに聞きたいことがあって……」
「なに?」
洒落は鼻をすすって、唇を震わせながら言葉を紡いだ。
「どうして……なんで、わしになにも言わずに……」
「言ったら、喜んで私の伴をしただろう。他の選択肢を見ようともせず、迷わず死を選んだはず。けれど、私はそんなことをしてほしくなかった。 ……クロのようなことは繰り返したくなかった」
クロに伴っていった使い魔。主人に最後まで追従した忠実な僕(しもべ)ともいえるが、見方を変えれば主人が死の淵まで引きずり込んだともいえる。
洒落よりも長い経歴を持った使い魔も数多くいたことだろう。キヨにとっては洒落以上に長い付き合いだった使い魔もいたはずだ。クロが亡くなった瞬間、使い魔たちも消えた喪失感は想像するのは容易くても、他人が寄り添うことは難しい。
「洒落。あんたは人に寄り添うことがなにより好きな子だった。クロが死んでからはクロの眼鏡をして、クロの服を着て、クロの気に入った本をクロがいつも座ってた場所で読んでた……でも、それは人の真似事。もっと言えば、クロの『キヨが悲しまないように自分の代わりに付き添っていなさい』という命令を忠実になぞっていた」
まるで自分のことのようにキヨは悲しげに目を細めながら言った。
「もう、いいんだよ。誰かのために自分を犠牲にすることはない。あんたは好きに生きな」
洒落は盛大に泣きじゃくり、濡れたロイド眼鏡が洒落の鼻先からずり落ちる。ぐしゃぐしゃになった顔がより醜く歪んでも顔はキヨに向けたままだった。
本当は涙や鼻水を拭いたいだろうに、手が塞がっていてままならない。
安吾はそっと握った手に力を入れた。
「それでも――自分で考えて、悩んで、想像して――それでも、私と一緒にくるなら止めやしない。いいね?」
「うん……うん、うん」
首をがくがくと動かして、洒落は頷くことしかできなくなっていた。
言葉の代わりとばかりに必死になって首を振っている。
「蓬安吾さん」
「はい」
「ありがとう。やっぱり、握手してよかった」
「いえ。あの――俺も聞いていいですか」
安吾は尋ねるかどうか迷っていた疑問を口にした。
「あのとき……どうして俺と握手を……?」
「魔女は死が近付くと魔力が高ぶって一度だけ未来を見ることができる」
黄が言っていた言葉だ。
目を丸くしていると、キヨが軽やかに笑った。
「……その未来には、洒落とあなたがいた。二人とも幸せそうにしてたよ。洒落も、あなたも笑ってた」
キヨの姿がさらに薄まった。
握っている洒落の手が完全に犬の手に変わっている。魔力が足りないのだろう。
「もし、洒落ではなくあなたが軟膏を使いたいのなら……この部屋の棚に私が書き写した留書がある。それを見て作りなさい」
安吾はしっかりと頷いた。
頷いたことを確認したキヨは客に対する笑みとは別の、彼女らしい笑顔をみせた。
「ありがとう」
微かな声が耳に届く頃には、輪郭がうっすら浮かんでいるだけだった。
プランシェットはもう動かない。
やがて――犬の姿に戻ってしまった洒落の嗚咽だけがその場に残った。人とも犬とも聞き分けができない鳴き声が響く。
安吾は黙って、洒落の手を握り続けていた。
どれくらい咆哮が続いていただろうか。
鳴き声は仔犬のようにか弱くなり、くんくん、きゅんきゅんといった可愛らしいものに変わっていった。
洒落は鼻をすすりながら、「あんご……」と話しかけてきた。
「うん」
「わしは……どうしたらいい?」
「……キヨが言ってただろ。好きにしろと。好きに生きろって、そうすればいい」
「そんなの……困る」
洒落が安吾の膝に顎を乗せた。犬の洒落の顎は思っていたよりも小さかった。
「わしの好きになんて、そんなことできない……」
「どうして」
洒落は数秒黙り込み、思い詰めたように呟く。
「わしの好きにするっていうのは、安吾が人間じゃなくなるってことだから」
「……え?」
「わしの好きに安吾のこれからを巻き込むわけにはいかん」
「つまり、それは……」
言いかけて安吾は口をつぐむ。
以前、洒落の口から否定された可能性のことを思い出していた。
『安吾が魔女になる』ということ。今の洒落とは違って、随分穏やかに問いかけてきたことを覚えている。
「安居、前に……魔女になるっていうのは人間じゃなくなることなのかって、言ってたな? あのときわしにはピンとこなかったが、そうなのかもしれないって思ってる。人間は何百年も生きていたりしない。誰かの記憶から突然消えたり、死ぬときに遺体がなくなったりしない。魔法も使えない。使い魔も作らない。安吾はクロやキヨとは違って、わしとも違う」
人間とは違う、という言葉が安吾の耳の奥に重くのしかかった。
「わしは安吾が好きだから……好きになったから、まだ一緒にいたい。でもわしの我儘で安吾を悩ませるわけにはいかん。 ……だから、今までも言わなかった」
再び洒落の口から飛び出た『好き』に安吾は一瞬怯んだ。
無言の安吾に、洒落は体を起こしておすわりの体勢を取った。
「……洒落」
幼い頃の記憶が蘇る。今度は病室での出来事だ。
父親に母親への手紙を託しても破かれてしまう。ならば自分が会ったときに直接渡せばいい。
数少ない面会日。安吾はこれまで以上に熱を入れて手紙をしたためた。
病室に入って真っ先に、母親に手紙を渡そうとした。きっと喜んでもらえる。この手紙をきっかけに具合がよくなるかもしれないとさえ思っていた。
だが、病室には入れなかった。
その数時間後――母親が亡くなったことを聞かされた。理解が及ばなくとも無理矢理にでも納得する他になかった。
『お前の手がかからなければ、お母さんは死なずに済んだんだ。お前のせいなんだから、これを教訓にこれからは自分のことは自分でしなさい』
父親は手にしている手紙に気付き、奪い取って乱暴に破り捨てた。
「俺は、あんたのことが……」
目の前の現実と、記憶の中の過去が一緒くたになって、とにかく胸が苦しい。
言うべきか、言わざるべきか。
……言っても、いいことなのか。
自分の内側を相手に晒してもいいのだろうか。
「……わしのこと嫌い?」
まるで安吾の心の中を読んだかのように洒落は囁いた。
「そんなことはない!」
「怖い?」
「それも、ない……」
「よかった。なら、それでいい」
小さく首を傾げ、犬の鼻先が安吾の口元に押し付けられる。触れた瞬間、安吾は洒落が人型に戻ったのを感じた。
言おうと悩んで、それでも言えなかった安吾の言葉が洒落の口の中に消えていく。口づけが深まるにつれて熱が高ぶっていくのがわかった。唾液が泡立ち、音を出されれば再生されていた記憶は彼方へと押しやられていった。
「……あんた、また、いきなりだな……」
唇が離れると、人間の姿の洒落がいた。
困った顔をして――それでも笑みを湛えている。
「無理しなくていい。無理に言わなくていいから。安吾はわしが途方に暮れるくらい、優しいのは知ってるから」
「無理なんかしていない、違う。ちゃんと言いたい。だが……」
言葉を切って、先程よりも小さな声で尋ねた。
「本当に俺でいいのか?」
「うん」
「俺が魔女にならないって言ってもか?」
「うん。 ……わしが人間の形を保っていられるまで一緒にいさせて」
「それっていつまでなんだ」
「わしにもわからん。明日かもしれないし、来年かもしれない。今夜だったりするかも――もしかしたら案外安吾が死ぬまでは残ってるかもしれない」
困っているというより、今にも溢れてしまいそうな涙を堪えているような目元。
安吾は愛おしげに洒落の目尻に触れながらそっと自ら唇を合わせにいく。
「……やっぱり言わせてくれ。あんたが、好きだ」
小さな、短い告白の言葉を囁いて、安吾は洒落と再びキスを交わした。
そのまましばらく、ガラス張りの星空の下で互いに抱き合っていた。
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