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第4話

 朝を迎え、アランはダイニングルームで一人朝食を摂っていた。いくつもの新聞を拾い読みしながら、傍らのミンに言う。 「二、三日はゆっくりできそうだ」 「それはよろしゅうございました。アヤメ様は、まだお休みに?」 「ああ。寝かせてやれ」  ミンは苦笑し、後で叱られても知りませんよ、と言った。  アランとミンの関係は厳格な屋敷の主人と有能な執事のように見えるが、ミンの本分は執事ではない。執事(バトラー)にはロイドという初老の男がいる。ミンは生来の稼業ゆえに、今はアランの右腕として仕えているに過ぎない。 「アヤメが起きたら、コンサバトリーに茶を用意してくれと、ロイドに」 「かしこまりました。人払いをいたします」 「頼む」  せめて、庭で茶会でもできたらとアランは思う。  とかく屋敷の外へ出るという行為は、アヤメの心身にかなりの負担を掛けるようで、アヤメを引き取って以来、彼も試行錯誤を重ねてきたが、どれも大した成果は得られなかった。  小さい頃は、屋敷と庭の境界を越えるのにも嫌々とぐずった。立ちすくみ、体は強張り、時には震えて失禁もした。荒療治として無理やり外へ連れ出せば、情緒不安定になり、激高し、泣き喚き、暴れる。挙句の果てには発熱や嘔吐、自傷行為までして、何日も寝室に閉じこもった。アヤメをプリンセスのように扱い、手を取ってエスコートしてみたり、横抱きにして連れ出したりしたが、甘やかせば甘やかすで、アランにしがみついて離れようとしない。かと思えば、人形のように身を硬くし、呼吸しているのかさえ怪しいほどに動かないこともあった。  彼にはこのままアヤメを籠の鳥にしておくつもりなどないが、アヤメの心身への負担を考えると、無理強いもできない。しかし、社会に馴染めなければ苦しむのはアヤメ自身なのだ。  路地裏で野良犬のようなアヤメを拾ったとき、彼はまだ七つかそこらだった。ただし、起点となる孤児院の記録ですら曖昧なので、実際の年齢はわからない。劣悪な環境で育てば発育も不十分だろうし、東洋の血が混じっているせいか、成長した今でも見目は幼い。  あの夜、ミンはアヤメを「始末しますか」とこともなげに聞いた。それが彼の本職である。  アランには決断ができなかった。これがこの男の弱さであり、甘さであった。近衛兵として王族付きの軍人であった頃は、躊躇わず殺せた。市井に紛れ、偽の身分を幾つも使い分け、世間に潜んでいる時でさえ、常に覚悟してきたことだ。それが無辜の民草の、なんの罪もない小さな生命の前では、覚悟も鈍る。  アランはミンの反対を押し切り、セーフハウスのひとつとしている宿場へ少年を連れ帰った。このときはまだ軍を退いたばかりで、始めた外商も軌道に乗ったところだ。危険だ、とミンは警告したのである。それを(しりぞ)け、ミンには「子供の世話は得意だろう」と嫌味を言って少年の看護を命じ、自分は少年の刺青を頼りに娼館を訪ねた。女主人はあっさり面会に応じ、少年は確かにその娼館の所有物だったが、一週間ほど前に逃げ出したと言う。 「一週間? マダム、それは確かですか」 「ええ、そうです。正確には、八日ね。あたくし数字の覚えはいいのよ。お金、日付、番号、なんでもね」  でっぷり太った女主人は貫禄たっぷりに煙草の煙を吐き出し、カラカラと笑った。  アランは少年を拾って三日経つ。少年は今でも昏昏と眠り続けている。彼を拾った日から逆算すれば、彼には空白の五日間が存在した。この女主人の言う事が正しければ、彼は娼館を飛び出してから五日間、アランに拾われるまで彷徨い続けていたことになる。 (まさに野良犬ではないか)  アランは絶句した。同時に、彼の浮浪児に近い身なりにも得心がいった。  女主人はもくもくと煙を吐き続け、あの夜の顛末を語り、アランはそれにじっくりと耳を傾けた。彼女に虚偽や不審点がないか、注意深く観察するために。 「……それで、あの若い娼婦は一昨日亡くなりましたのよ。借金があるから置いてくれって泣きつかれたけど、客を取れる状態じゃなくてね。内臓がだめになってたのよ。うちじゃ性病くらいしか診てやれないから、かわいそうなことをしたわ」  彼女は遣る瀬なく煙草の煙を吐いた。実際は、軍の圧力に屈した。向こうは紙幣と金貨を握らせ、黙らせたつもりでいるらしいが、したたかな女主人はこの金を自室の植木鉢に隠しておいた。日記に見せかけ、やり取りの一切を記録している。もちろん、裏帳簿も存在する。女主人はアランの背後にある植木鉢を忌々し気に一瞥した。 「それで、あの子は見つかりましたの?」 「はい。ですが、衰弱していて、まだ何も聞き出せていないのです」 「おほほ。起きても何も聞けやしませんよ。あの子、口が利けませんもの。でも困ったわね。うちはもう人手は足りていますのよ」 「ご心配なく。私が引き取ります」  好青年のように微笑を向けるアランに、女主人はふんと鼻を鳴らした。どうにもいけ好かない若造だと思った。これは男も同様で、彼らは同族嫌悪のような、互いに何か嫌なものを感じ取っていた。  女主人は面倒臭そうに煙草を揉み消しながら聞く。 「書類は?」 「あります」 「用意周到ね」  男は茶革の鞄から書類一式を取り出し、女に渡した。女はそれにさっと目を通しただけで、あっさり署名をして突き返した。 「感謝します、マダム。ところで、孤児院でのことで何かご存知でしたら、教えていただきたいのですが……」  その言葉に、女主人は思い出したように引き出しをまさぐり、「極秘」と書かれた報告書を取り出した。 「すっかり忘れておりましたわ。あの子を引き取る条件に、用意させましたの。わざわざ娼館へ『孤児』を寄越すなんて、体よく厄介払いしたいだけですもの。そうでしょう? そしたらなかなか骨のある子で……。おほほ。口さえ利けりゃ、うちに置きましたのに」  今度は男が渡された報告書にさっと目を通した。健康状態、病歴、治療歴、身体的、性格的特徴、問題行動の履歴などが簡単に書かれている。  アランはある一行に目を止めた。 (──男性職員のペニスに噛み付いた?)  アランは驚愕の表情を隠し、再び女主人に礼を述べた。 「レポートは、これだけですか?」 「ええ、それだけですわ。あの子がうちにいたのは半年くらいですけれど、孤児院はその間に閉鎖されましたの」  孤児院のことはアランも調査済みだ。確かに現在は廃業しており、建物自体はもぬけの殻となっている。レポートも手に入ったことだし、登記を追えば埃が出るだろう。 「そうでしたか。失礼いたしました」 「ごめんなさいね、お役に立てなくて。次はぜひ、お客様としていらしてくださいね。ミスター・アラン」 「ええ。そうしましょう。次はとびきりいい酒を仕入れてお持ちしますよ、マダム・シンシア」  二人は親しげに握手を交わした。  互いに嫌悪を抱いていたはずが、その後も長きにわたって善きビジネスパートナーになろうとは、このときはまだ、知る由もなかった。    *  ダンッ、と机を叩く音に加え、食器のぶつかり合うけたたましい音が響いた。何枚割れただろう、と少年は混濁する意識の中で思った。 (お掃除、しなくちゃ。おそうじしないと、また、なぐられちゃう)  少年は這うようにしてベッドから降り、床板に這いつくばって音のした方へ向かった。割れたのは、キッチンテーブルの上にあった花瓶だったようだ。少年が覚束ない手で破片を手にすると、つい先程まで口論していたアランとミンはぎょっとした。  生傷だらけのやせ細った少年が、素手で割れた花瓶の破片を拾っている。危ないからやめさせようと手を伸ばすと、ぱっと防御の姿勢をとり、小さな体は震えた。ミンは少年が破片を拾わずとも済むよう、手早く片付け始めた。  アランは床に散乱したアイリスの花を一輪拾い、少年に差し出した。怯えていた少年の瞳に戸惑いの色が浮かぶ。 「花は嫌いか?」  アランは少年と同じように床に座り、アイリスの花をまじまじと見た。 「私は疎くてね。これが何の花だか、さっぱりわからん。ミン、わかるか」  ミンも片付けの手を止め、そばにあった一輪を手に取ると、しげしげと眺める。 「アイリスですね。大したことはありませんが、毒があります」 「アイリスか」  アランは少年に花を握らせようと、その手を取ろうとしたが、さっと引っ込められ、触らせてもらえなかった。アランは苦笑した。道のりは長く、遠い。 「お前に新しい名前を贈ろう。私と一緒に再出発だ」  アランの言葉にミンは呆れたように溜息を吐いたが、その表情は穏やかに微笑んでいた。言いつけられたとはいえ、つきっきりで看護していれば情も湧く。 「お前を、アイリスと呼ぶことにしよう」 「アラン様、彼は男の子ですよ。娼婦のような名はおやめなさいませ」 「……そうか。困ったな」 「あまり長いものもおやめください。覚えられないかもしれません」 「ふむ」  アランは少年をまじまじと見つめた。綺麗な目をしている。記録の通り、東洋の血が混じっているであろうことがわかる。漆黒の髪には透明感があり、肌もきちんと洗えば白くなるだろう。アメシストのような瞳は、不安げにアランを映している。 「アイリスは、東洋ではなんという」 「ホンモォー、チャンプー、ショウブにアヤメ……」 「アヤメ……」  アヤメか、とアランは呟いた。 「そうだな。アヤメにしよう。それがいい。アランにアヤメ、似ているようで似ていない」  アランは少年を抱き上げた。突然の出来事に抵抗する間もなく、アヤメは驚きに固まってしまった。握らされたアイリスの花を不思議そうに眺め、何を思ったか、ふっさりとした花弁にかぶりつこうとする。それをアランが花弁を守るように手で防いだので、結果として彼の手の甲を齧る羽目になった。アランは痛がるでもなく、穏やかに笑っている。 「毒があると、ミンが言ったばかりだろう。腹が減ったか?」  アヤメは叱られないこと、殴られないことを不思議に思い、きょとんと目を丸くしたまま、男の顔を見つめることしかできないでいた。      *  陽光と緑いっぱいのコンサバトリーは、アランがアヤメのために改築させた。庭師に手入れをさせ、小さな噴水には魚も泳がせた。本棚を(しつら)え、書斎机や、ゆったりできる長椅子を置き、天井からはハンモックを吊るした。天井のガラス窓は一部が開閉できるから、星を観察したこともあった。  アヤメはこのコンサバトリーでよく遊び、よく学んだ。屋敷から庭へ続く中継地点のようなこの場所が、アヤメにとって外界へ踏み出せるきっかけになればとアランは願ったが、その切望は終ぞ叶わなかった。  流水のせせらぎと、四季の草花の匂い立つ空間で、アランとアヤメは二人っきりの時間をのんびり過ごしていた。二人掛けの籐椅子で、アヤメはアランに膝枕をしてもらい、猫のように微睡む。そんなアヤメをアランは愛おしげに撫でた。  昔は時間の許す限り、本を読み聞かせてやった。冒険譚や、詩集、童話、昔話。アヤメはなんでも喜んだ。アランの甘く低い声で朗読されると、いつの間にか眠ってしまったものだ。  そのことを思い出し、アヤメはくすぐったそうに微笑んだ。 「どうした?」 「ふふ。子供の頃のことを思い出したものですから」  それを聞いて、アランは安堵したように頬を緩めた。彼の子供時代に幸福なひとときがあってよかったと思った。 「痛むところはあるか?」  昨晩は空が白むまで愛し合っていた。それを労わるように、アランの手つきは繊細でやさしかった。アヤメはうっとりと目を細める。 「いいえ。ちっとも」 「つらいところは?」 「ありません。まだアランさまがいらっしゃるようで……。しあわせです、とても」  アヤメは慈愛の聖母そのものに微笑しながら腹を撫でた。アランはその手を取り、指先に口づける。 「二、三日はゆっくりできる。少しはお前の我儘を聞いてやれる」 「本当ですか?」  身を起こし、爛々と瞳を輝かせる姿は子供の頃と変わらない。 「何が望みだ?」 「アランさまと、ずっと一緒にいたいです」  アヤメはアランに抱きつき、頬を擦り寄せた。アランの膝の上はアヤメの特等席だ。よく鍛えられた逞しい肉体、上品な香水の匂い、頭を撫でるときの、やさしい手つき。アヤメのだいすきな、あたたかくて、安心できる場所。 「アランさま……」  アヤメはねだるような視線をアランに向けた。くちづけが欲しいのだが、それを言葉にできない。アランはわかっていながら頬に軽く口付けるに止めた。彼の体を労わるためだ。アヤメは不満げに唇を尖らせたが、ぎゅっと抱きつくことで不満を消化しようとした。その背を撫で、落ち着かせながら、アランはもう何百回と提案してきた言葉を口にした。 「──外出しないか?」 「え……?」 「夜なら人目も気にならんだろう。食事はどうだ? オペラなら座っているだけでいい。河川沿いを歩くだけでも……」 「い、嫌です……!」  腕をつっぱり、アヤメははっきりと拒否を示した。 「どうして意地悪をおっしゃるの? アヤメのこときらい?」 「そ、そういう訳では……」  甘えられると、この男は本当に弱い。アヤメもわかっていてわざと子供らしく振る舞う。 「外出が嫌なら、庭で茶会はどうだ? アヤメの好物をたくさん用意しよう。ロイドに菓子も作らせる。庭くらいなら……」 「いや!」  アヤメはアランの膝から降りた。本格的に拗ねてしまった。普段はおとなしく、聞き分けのいい彼も、この屋敷を離れることに関してだけは感情を露わに激しく拒絶する。 「アヤメ、悪かった。許してくれ」  アランが手を取る。アヤメは振り解くなどできないから、顔を背けた。涙を見られるのが嫌だった。彼を困らせるだけだから。泣きたくなくても、涙は勝手に溢れてくる。 「アヤメ」  アランの手が顎先を捉える。アヤメの揺れる瞳は、怒気と不安と、悲しみに揺れていた。何もアランへの気持ちばかりではない。アヤメはずっとこの屋敷に閉じ籠ってきた。そのことでアランを心配させていることも、彼の提案は自分を思ってのことであるということも、重々承知している。  しかし、いくら愛しい男の言葉であっても、アヤメは屋敷を離れることが恐ろしくて堪らなかった。一度出てしまえば、二度と帰って来れないかもしれない。二度とアランに会えなくなるかもしれない。ありもしない、いや、もしかしたら万が一にでもあり得るかもしれない未来。そんな想像がおぞましい妄想となり、アヤメに襲い掛かる。  アヤメがもう二度と言わないでと懇願できれば、どんなに気が楽だろう。それが言えないのは、アランの気持ちがわかるからだ。アヤメだって、いつまでもこうして楽園に閉じ籠ってばかりはいられないと思っている。思ったまま、幾年も過ぎてしまった。アヤメは自らをこの屋敷に縛り付け、進んで籠の鳥になることを選んだ。 「ごめ……っ、ごめんなさい……っ」  ぽろぽろと涙をこぼすアヤメを、アランは力一杯抱き締めた。 「謝ることはない。アヤメは何も悪くないのだから」 「……ひっ、……うぅ、……」  アランの背に、細い指先が縋るように這う。  彼らは互いに不甲斐ない自分が許せなかった。

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