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第5話
アヤメが目を覚ますと、辺りは薄暗く、自分のベッドに寝かされているのだとわかった。泣きじゃくったまま眠ってしまったらしい。起き上がろうとするが、締め付けられるような頭の痛みに呻いた。寝返りを打つのも億劫で、このまま死ぬのかしら、とアヤメは思った。これまで何度そう思っただろう。
(忌々しい体)
昨晩は自分を卑しい体だと自嘲したが、今はこの体が憎らしくて堪らない。また彼を困らせてしまった。
不安から左耳をなぞると、ピアスがない。詰襟の服はシルクの寝巻きに変わっている。アヤメはどうにか身を起こし、ベッドサイドの小さなテーブルを手のひらでぺたぺたと触るが、覚えのある感触はなかった。次に這うようにベッドから降り、ドレッサーを漁る。
(ない、ない……ッ!)
重い体を引き摺り、クローゼットの中を引っ掻き回すと、再びドレッサー、コンソール、コモード、ベッドサイドテーブルと、開けられる引き出しはすべてひっくり返し、半狂乱になって探し回った。他のものは全部あるのに、あの金のピアスだけが綺麗さっぱり失くなっている。
(落ち着け、落ち着け……、思い出すんだ)
アヤメは頭痛と動悸が激しくなるのも構わず、懸命に記憶の糸を辿った。最後の記憶は、コンサバトリーで泣きじゃくり、アランに抱き締められたことだ。
(さっきまでは、あったのに──……!)
アヤメはよたよたと寝室を出ると、壁伝いに歩きながらコンサバトリーを目指した。体が燃えるように熱い。
シーツのアイロン掛けを終えたメイドは、廊下の奥に亡霊を見た。咄嗟にしゃがみ込み、太腿に仕込んだ暗器に手を掛けたが、亡霊が闖入者ではなくアヤメだと分かると、驚きに目を見開いた。
「アヤメ様……!」
駆け寄ると、その手を払われる。アヤメはアランとミン以外の人間に触れられるのをひどく嫌がる。
「な、んでも……、ない……ッ」
アヤメは呼吸を乱しながらも、メイドを遠ざけようとする。彼はアラン以外に敬語を使わない。ここへ来た当初、ミンがそうしろと言ったから、律儀にそれを守り続けていた。おかげでアヤメはこの屋敷でアランに次ぐ立場にある。
メイドは廊下を叫びながら走った。
「だれか……! アヤメ様が……!」
アヤメはもう、立ち上がることすらできなかった。頭は痛いし、体は熱いし、胸は苦しいし、汗がへばりついて気持ちが悪い。
「──アヤメ!」
朦朧とする意識のなかで、足音が近づいてくる。今にも床に倒れそうなアヤメを、逞しい腕が支えた。覚えのある匂いにアヤメはかすかに微笑む。
「ぁ……、さま……」
「アヤメ、しっかりしろ」
アランはアヤメを颯爽と抱き上げ、メイドには仕事に戻るよう命じた。ふっさりとした睫毛を固く閉ざしたアヤメは、微動だにしない。アランは彼の顔色の悪さを気に掛けながら、寝室に入って絶句した。物盗りにでもあったかのような荒れようだ。アランは溜息を飲み込み、自分の寝室へアヤメを寝かせた。
「アラ……、さま……」
何かを訴えようとするアヤメの唇に耳を近づけると、ピアスがどうとか言っている。
「ああ」
アランは自分のコモードからピアスを取り出し、アヤメに握らせた。アヤメは安堵したように笑みを浮かべた。
「済まない。不安にさせてしまったな。お前が眠っている間に、磨いてやろうと思ったのだ」
額に張り付いた髪を梳くように撫でつける。アヤメは生気のない微笑みを向け、長い睫毛を閉じた。
初めて体を繋げた夜、アランは金のピアスを贈った。彼の母親のバングルを作り直したものだ。母の遺品で残ったのは、あれひとつきりだった。
アヤメは覚えているかわからないが、屋敷で探検ごっこをしたとき、あのバングルを宝物に見立てた。アヤメの子供らしい細い腕に取り付けられたとき、アランの中でようやく一区切りついたような気がした。
──いつか、この子に譲ろう。
そのときはバングルのまま渡して、アヤメに好きに作り直させようと思っていた。
アランは養い親としてアヤメに接してきたつもりだった。その自信が揺らいだのは、アヤメが十四歳になったときだ。
アヤメは美しく成長した。思春期になり、反抗こそしないものの、避けられるようなことが増えた。ミンに尋ねれば、どこか懐かしむような口ぶりで「お年頃なのですよ」と笑った。それでもまだ理解に及ばなかった。
ある日、すれ違いが続いたので、アランが「久しぶりに一緒に風呂に入ろう」と言うと、アヤメは恥じらいながらも了承した。湯煙のなか、濡れた白い肌は乙女のようだった。あんなに幼いと思っていたアヤメも大きくなったのだなと、アランはしみじみとした寂しさと感慨を味わっていた。彼の成長は喜ばしい。そんな気持ちも頭を殴られたような衝撃に変わった。
アヤメの大人になりつつある性器は、ゆるく兆していた。
あまり動じないアランも、このときばかりはどくんと心臓が脈打ったのがわかった。
彼の知らないところで、アヤメは大人になろうとしている。
アヤメの視線、アヤメの表情、仕草、態度──。
アランはひとつひとつ思い出していき、自分は大馬鹿者だと項垂れた。
ようやく気付いたのだ。
自分の肉体もまた、熱く疼いていることに。
*
アヤメは風呂が嫌いだった。寒いし、冷たいし、恐ろしい。汚れたタイルの上で乱暴に水を浴びせられることは、幼いアヤメには拷問に等しかった。
この屋敷に来たときも、風呂に入れられる気配を察知すると、すぐに逃げ回って隠れた。恐怖心から逃げ隠れしていたのに、アランやミンには隠れんぼで遊んでいると思われていたらしい。
彼らはアヤメが風呂を怖がっているのだとわかると、少しずつ慣れさせた。アランが一緒に入るようになったのも、その方がアヤメは逃げないし、素直に洗わせてくれ、手間が掛からなかったからだ。何よりアヤメがよく笑うので、できる限りそうした。
アヤメは入浴の間、アランを独り占めできることが嬉しかった。アヤメの楽しそうな笑い声が浴室に響くと、アランも、外に控えていたミンも、微笑ましく思った。
アヤメが初めて言葉を発したのもこのときだ。アランと二人っきりで、程よくリラックスしていたのだろう。「アヤメ、これ、すき」と湯船に浮かぶ花弁を手のひらですくった。特別に調合したハーブは、アランが風呂の時間を楽しいものにしようと用意させたものだ。これで堅苦しい屋敷での生活による緊張も、少しは解れるのではないかと思った。
ハーブを湯船に入れると、萎びた花弁がいくらか生気を取り戻し、湯はほんのり色づき、いい匂いが立ち込める。アヤメにはアランが物語の魔法使いに見えた。
「いいにおい」
アヤメは花弁をすくっては指の隙間から花びらが流れていくのを楽しんだ。
「楽しいか」
「うん。アヤメ、たのしい」
いとけない口ぶりでアヤメは笑う。彼が自分を「アヤメ」だと認識していること、それを受け入れていることがはっきりわかり、アランは言葉を失った。安堵と幸福に瞳を潤ませ、喉奥から込み上げるものを懸命に飲み込もうとした。
「みて、ゆび、しわしわ!」
アヤメがアランの眼前に手のひらを突き出す。
「アランさまも?」
アヤメがごく自然に「アランさま」と呼んだのは、ミンや使用人たちがそう呼ぶからだろう。その呼び方にすっかり慣れてしまっているアランは、涙を気取られまいと、訂正するのも忘れて「どうだろう」と自分の手のひらを見た。アヤメが急かすようにその手を掴もうとする。
「みせて、みせて! アヤメにも、みせて!」
次々と発せられる言葉。無邪気な姿。アランは堪えきれず、もう片方の手で目を覆った。
「アランさま、どうしたの? おなかいたい?」
「……いや、なんでも、ない……」
涙を誤魔化すように、アランはアヤメを抱きしめた。幼い体はやわらかく熱を持っていて、強く抱き締めれば湯船に溶けてしまいそうだった。
*
寝室はしんと静まり返っていた。日は高く、重厚なカーテンの隙間から漏れる陽光が眩しくて、アヤメは思わず顔をしかめる。熱はすっかり引いていた。どのくらい眠ったのだろう。
アヤメはひとまず洗面所で顔を洗い、真っ先に風呂の用意をした。汗ばんだ体は居心地が悪かった。カーテンを開け、ベッドのそばの水差しからグラスに少しの水を飲む。ふと、自分の部屋がすっかり片付いていることに気付いた。はっとなって左耳を触り、ピアスがないことを確認すると、ドレッサーへ向かった。そこには一通の手紙と、その手紙よりもうんと小さな、金細工の装飾がなされた宝石箱が置かれていた。
──アヤメへ
帰りは遅くなる。食事はきちんととるように。ピアスは磨いておいた。
愛してる アラン
アヤメは何度も(特に愛してるの部分を)読み返し、頬を緩ませて置手紙を抱き締めた。手のひらに収まるほど小さな宝石箱を開け、金のピアスをレースのカーテンから差し込む光に翳してみた。美しさは輝きを増し、アヤメはうっとりと微笑む。
次に、ビューロからスクラップブックを取り出し、アランからの置き手紙を貼り付けた。彼から貰ったメッセージはこうしてアルバムのようにしている。日付を書き込もうとして、二日経っていることに気付いた。アランはせっかく久しぶりにゆっくりできると言っていたのに、アヤメが寝込んでしまったせいで台無しになってしまった。
(またご迷惑をお掛けしてしまった)
アヤメは肩を落とし、溜息を吐いた。この手の失敗は、一度や二度ではない。
(体を綺麗にして、今夜はアランさまにたくさん喜んでいただこう)
そうと決まれば、アヤメは張り切って湯気の立ちのぼるバスルームへ向かった。
入浴後、アヤメは広間で軽食を摂っていた。給仕をする初老の男は、屋敷の使用人を束ねる執事 である。名をロイドと言い、好々爺には程遠い、平気で人を殺しそうな恐ろしい顔をしている。そんな強面の男だが、お菓子作りを趣味としていて、その腕前はかなりのものだ。アヤメはアランが店で買ってくるものや土産として渡されるものよりも、ロイドの作るお菓子のほうが好きだった。
ロイドはアヤメが屋敷へ来たときからいる古株の一人で、ミンに次いで気安い存在と言える。仕事ぶりも評価されていて、アランとの付き合いも長いようで、信頼も厚い。
「アランさまと、ミンは?」
「旦那様は、ミン様とお仕事へ行かれました。そのまま晩餐会へ出席なさるそうです」
「そう……」
晩餐会とは、地下競売 の隠語である。アランが仕事の後にそのまま向かうのは珍しいが、これまで何度かあったことなので、アヤメは特に気にしなかった。
もそもそとサンドイッチを咀嚼しながら、食事のあとはアランの部屋を掃除しようと考えた。書斎にも手をつけたかったが、あまりまめまめしく働くと、使用人の立場がないとミンに諌められたのを思い出した。
「ロイド、コンサバトリーにお茶を用意してくれる? アランさまのお部屋の掃除が終わったら、少し休むから」
「かしこまりました。本日はチーズケーキに、クッキーをご用意いたします」
「ありがとう」
アヤメが嬉しそうに笑うと、ロイドも不器用な笑顔を作った。その顔は、なんとも極悪非道だった。
夜になり、アヤメはアランの帰りを今か今かと待ち侘びていた。いつもならとっくに帰宅している時刻を過ぎても、アランもミンも帰って来る気配はなく、屋敷は不気味なほど静かだった。
アヤメはソファーの上に横臥し、用意した酒と煙草を恨みがましく見つめた。酒はスピリットをいくつか、煙草は水煙草 に葉巻、紙巻煙草。アヤメも夜に合わせて服を着替え、磨いてもらった金のピアスを身に付け、準備は万端だと言うのに。
(遅いなあ……)
待ちぼうけは慣れている。昔はもっと多忙を極めていた。国外への出張も多く、数日から数週間、屋敷を留守にすることもあった。今は会社にも屋敷にも優秀な部下を揃えているから、少しは楽になったはずだ。おかげで晩餐会の回数は増えてしまったけれど。
「早く、会いたいなあ……」
アヤメはひとりごちると、体を丸めて顔を伏せてしまった。それを見計らったように、扉が叩かれる。
「はい……!」
アヤメは上体を起こし、期待と歓喜に震えるのをどうにか抑え、冷静に返事をした。
顔を見せたのはロイドだった。彼の言葉は予想外のものだった。
「失礼いたします。ミン様からお電話でございます」
「ミンが?」
「はい」
「わかった。ここに繋いで」
「かしこまりました」
ロイドは慇懃に礼をし、部屋を辞した。しばらくして、コンソールの上の電話が鳴る。
「はい。アヤメです」
「アヤメ様。ミンです」
「ミン! よかった。ずいぶん遅いから、心配してたんだよ。そちらは順調?」
「ええ、まあ……。アヤメ様、いいですか。落ち着いて、よく聞いてください」
「うん? なあに?」
「──アラン様が負傷されました。今、手術中です」
「え……?」
受話器を握り直し、アヤメはもう一度聞き返したが、ミンは全く同じことを言った。
アヤメは身体中の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
心臓の音がうるさい。ミンの声が、やけに遠い。
「命に別状はありません。あの方は頑丈ですから。とにかく、こちらのことは……」
「しゅ、手術って、どっ、どこで……!」
「セントラル病院です。しばらく入院することになるでしょうから、護衛も兼ねて私が付き添うことにしました。入用のものは、ロイドに持たせます。留守の間、屋敷のことはアヤメ様にお任せいたします。よろしいですね?」
「ぼ、僕も行く……ッ!」
「そうおっしゃいましても……」
ミンは言い淀んだ。そして一呼吸置き、幼子 に言い聞かせるように、アヤメに語りかける。
「落ち着かれなさいませ。命に別状はないと言ったでしょう。今、あなたがすべきことは、屋敷を守ることです」
「でも……っ、だって、だって……っ」
「子供みたいに駄々をこねるのはおやめなさい。狼狽えてはいけません。そのようなお姿、使用人に見られてはいけませんよ。軽んじられます。しゃんとなさい。アラン様の代わりをしっかりお務めになるのです」
「……はい、ミン」
「アヤメ様なら大丈夫ですよ。きっとご立派に成し遂げられます」
「また……電話、くれる……?」
「アラン様が目覚めたら、電話を差し上げます。いいですか、くれぐれも電話のそばで待ちぼうけなんて、なさいませんように。ベルが鳴るや否やどたどたと駆け寄ってはいけません。電話は使用人に取らせなさい」
「……うん、わかってる、わかってるよ」
アヤメは涙を拭いながら、わざと明るく振る舞った。
「本当に、アランさまは大丈夫なんだね?」
「もちろんです。あの方を仕留めたいのなら、国を亡ぼすくらいの覚悟がなければ」
ミンは軽口を叩くように笑った。
「もう大丈夫ですね? そろそろ切りますよ」
「うん。ミン、ありがとう。アランさまを、お願い」
「承りました」
震える手で受話器を置き、アヤメは膝から崩れ落ちるように床に座り込んだ。
アヤメが外へ出ることが出来たなら、ミンに代わってアランのそばにいられるのに。
(役立たずだ)
アヤメは呆然としながら、ミンの言葉を何度も反芻する。彼の声色、落ち着きようから察するに、あまり深刻な状況ではないのかもしれない。それとも本当は危険な状態で、それを誤魔化しているのだろうか。
アヤメは震える手で紙煙草に火をつけた。ゆっくりと煙を吐く。
一本を吸い終える頃には、どうにか落ち着きを取り戻すことができた。
(今は、ミンを──アランさまを、信じよう)
最後の一口を吸い、灰皿に煙草を押し付ける。使用人を呼び、後片付けを命じた。
「僕は先に寝る。起きて来るまで起こさないで。それから、アランさまがいつ戻って来られてもいいようにしておいて」
「はい。かしこまりました。おやすみなさいませ」
急ぎ足で自室へ戻り、ベッドに伏せるや否や、アヤメは声を押し殺して泣いた。今すぐ彼の元へ駆けて行けたら、どんなに幸福だろう。
──家畜以下の分際で!
──使えないガキめ!
──役立たず!
頭の中には罵倒される言葉が次々と渦巻いて、アヤメの心を蝕んでいった。
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