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第8話
情交の後、二人は微睡みながら他愛もないおしゃべりをしていた。
「僕、明日からはいつもの格好にしようと思うんです」
「ああ。好きなものを着るといい」
アヤメは嬉しそうに微笑んだ。良家の子息らしい格好をしていても、金のピアスはハンカチに包んでポケットに忍ばせ、肌身離さず持ち歩いていた。詰襟の服ならば、堂々と身に付けられる。
日が傾くにつれ、雨雲が空を覆い、しとしと降り始める。アランは負傷した肩をだるそうに動かした。
「風呂の用意をしよう。待っていなさい」
アランは自ら風呂の準備をし、バスタブに半分ほど湯を張ると、アヤメを抱いて運んだ。アヤメはアランの傷を気遣ったが、問題ないと答えた。
湯舟に浸かり、互いに体を慈しみ合う。アヤメが子供の頃はもう少し広々としていたバスタブも、今では少々窮屈で、それがかえって心地好かった。
アヤメはアランに後処理を手伝ってもらったあと、彼の体をやさしく拭いながら回復を喜んだ。
「すっかり快くなりましたね」
「もともと大した傷ではないからな」
「雨で痛むでしょう」
「……そんなことはない」
窓を激しく叩く雨粒の音で、本格的に降り出したのだとわかる。風も強くなってきた。
アヤメはアランの髪を丁寧に櫛で梳いた。甘い余韻には十分浸らせてもらったし、体も綺麗にしてもらった。気怠い体に幸福を感じる。だから、心を込めて彼の長い髪に櫛を通した。
(僕も、子供の頃はこんなだったのかしら)
櫛で梳いた後は軽く結う。アヤメはアランに背を預け、後ろから抱かれるようにしてのんびり湯に浸かった。
バスルームでは、なんでも話すことができた。一日の出来事、うれしかったこと、かなしかったこと、いやだったこと。言えないことも、ここでは言えた。アランにとっても、聞き分けがよく、我が儘を言わないアヤメの本心が聞ける大切な場所であった。
「怪我の間、アヤメには世話を掛けたな。何か褒美をやらねば」
「ご褒美、ですか?」
「欲しいものはあるか?」
「ええと、欲しいものでは、ないのですが……」
子供だった頃は、アランを独り占めする権利だとか、ロイドのお菓子をお腹いっぱい食べたいだとか、勉強しなくてもよい日だとか、アランと一緒に寝たいだとか、そんなことばかりだった。
今、彼が望むのは外へ出ることだ。アランが再三言ってくれたように、社会に馴染む努力をしなくてはならない。籠の鳥のままでは、アランの危機に駆けつけることさえできないのだ。
アヤメは躊躇いがちに目を伏せた。
大きく頼もしい手がアヤメを撫で、言ってごらん、と続きを促す。
「あっ、あの……、僕、ぼく……」
口にするのも恐ろしいことを言わなくてはならない。
でも、言わなければ一生このままだ。
(それでもよかった……。でも、今は違う)
「ぼく……、そっ、外に出たいです……」
気付けばぼろぼろと涙が落ちてくる。それを拭い、しゃくり上げながら、会いに行けないのは嫌だと言った。
「わが、ままなのは……、わかってるんです……。出たくないって……、言ったのは、僕だから……。でも、でも……っ」
アランの大きな手がいっとうやさしくアヤメを撫で、後ろから羽交い絞めにするように抱き締めた。美しい肢体にそぐわぬ火傷痕に、アランの心が痛む。
「──だめだ」
アランは、はっきりとそう言った。腕に力を込め、再び「だめだ」と繰り返した。
「どうして……?」
アヤメは困惑した。あんなに出ようと呼びかけたのは、彼の方なのに。
「出たい、」
アヤメは諦めなかった。湯船の波がばしゃりと跳ねた。
「出して……!」
絞りだすようなアヤメの声。アヤメがどれだけ懇願しても、アランは許さなかった。しまいには「この話は終わりだ」と言って、さっさとバスタブから出てしまう。アヤメは慌てて彼にバスローブを掛けながら、後ろから抱き着いた。甘えれば許されると思った。
「使用人以外とだって、ちゃんと話せます。看護婦たちだって……」
「関係ない。どうせ、一人では出られないだろう」
「そ、それは……、練習します……! アランさまがおっしゃったように、まずは庭へ……」
アヤメが食い下がると、アランはその手を掴み、正面から向き合った。
素っ裸のアヤメは心もとなげに胸に手をやる。気持ちを落ち着かせようと、目についた赤い鬱血痕を指先で撫でた。
雨風の音が部屋中に響き渡る。
外は嵐になっていた。
「覚えているか」
アランの手が顎先に触れ、上を向かされるが、彼の表情がアヤメにはよくわからなかった。暗い影がアヤメの顔に落ちる。
「お前がこの屋敷から、一歩でも出てみろ。どうなった?」
「ぁ……」
「恐怖で体は竦み、怯え、泣いて暴れた。熱を出して、嘔吐することもあったな。それで何日寝込んだ? 自分の腕を掻きむしったことは覚えているか?」
「あ……、ぁ……」
聞きたくない、とアヤメは首を振った。一歩下がればアランも一歩進む。壁へ追い詰められ、磔にされた。
「お前を、この屋敷から出さない。絶対に」
「あ、」
稲光が走った。
薄氷を張ったような瞳がぎらりと光る。
アランの顔は、今まで見たことのない悲憤に満ちていた。
怪我人とは思えないほど強い力で手首を掴まれ、その痛みにアヤメが呻くと、はっとしたように手を離される。
アヤメは泣いていた。立っていられなくなって、ずるずると床に崩れ落ちていく。
アランは自分を傷つけないはずだった。
自分は愛されてきた。
自分を必要として欲しかった。だから、お役に立ちたかったのに。
「服を着なさい」
アランの声が頭上から降って来る。
アヤメはのろのろと立ち上がり、渡された自分のバスローブを羽織り、衣服をかき集めた。
ポケットからハンカチを取り出す。金のピアスは輝きを失わず、アヤメの手のひらで静かに煌めいていた。
彼の愛妾であることは、幸福以外のなにものでもない。彼から愛妾だと言われたことは一度もないけれど、そう振る舞えば、彼の傍に長く置いてもらえると信じていた。
詰襟の服を脱ぎ、一般的な服に着替えれば、それなりに振る舞える。看護婦の訪問がそのいい練習となり、自信となったはずだ。
アヤメは、はっきりと意思を持った瞳で、まっすぐにアランを見つめた。
証明したい。いや、しなければならない。自分は家畜でも、役立たずでもない。彼にとって有用な人間であると。
かつて浴びせられてきた数多の罵声を振り払うように、アヤメは声を張り上げた。
「証明して見せます……! 僕が、一人で外へ出られること!」
裸足のまま、アヤメはずかずかと部屋を出て行く。
「アヤメ!」
アランの声を振り切るように、歩は早まり、駆け足になった。アヤメの心臓は高鳴る。緊張と、興奮と、恐怖と、高揚。たくさんの感情が彼を急き立て、追い立てた。
「アヤメを止めろ!」
背後から怒声がする。その声に使用人たちが集まり、アヤメを通すまいと立ちふさがったり、引き止めようと袖を引いたりした。その手を振りほどき、行手を阻む使用人たちに負けじとアヤメも怒鳴る。
「離して!」
アヤメは止まらなかった。肩からローブがずり落ち、火傷痕や生々しい情交の痕が露わになっても構わず、転がるように階段を駆け降り、玄関先へ辿り着いた。
そこに一人の男が立ちはだかる。背筋を伸ばし、凛とした初老の男──ロイドだ。強面の顔で凄まれると、使用人たちの間に緊張が走った。
「アヤメ様、どうかお戻りを」
アヤメの醜態は酷かった。もみくちゃになったバスローブは肌蹴け、裸同然で、これでは痴話喧嘩の末に取り乱した娼婦のようだ。
「そのようなお姿で、外へ送り出すことはできかねます」
「退いて」
「なりません」
「退いてってば!」
アヤメの悲痛な叫びには、覚悟があった。
ロイドは微動だにしなかった。かつての命のやりとりを思い出し、むしろ高揚した。アヤメの気迫に、銃を構え、今にも引き金を引きそうな幻覚を見た。
「──アヤメ」
アランの声が響く。アランは簡易ではあるが、シャツにズボンを身に着け、きちんと身なりを整えていた。
羽織ったガウンの襟を正しながら悠々と階段を降りる姿は、まさにこの屋敷の主人たる威厳があり、圧巻だった。
「とんだ醜態だな」
周囲の使用人たちは一斉に一歩引き、畏まる。
「ロイド、行かせてやれ」
「しかし、外は嵐で……」
「構わん。どうせ出られるはずがない。扉を開けろ」
ロイドは躊躇いながらも扉を開け放った。びゅう、と音を立て、霧のような風が乱暴に屋敷の中へ入り込む。
濡れた外気がアヤメを包んだ。激しい風に思わず顔を伏せる。雨風が吹きつけ、アヤメをからかうように飛沫を浴びせてくる。外は土砂降りだ。怒号のような落雷がアヤメを嘲笑う。
気付けば、アランが隣に立っていた。開け放した扉を背に腕を組み、お手並み拝見といったところだ。
アヤメは堪えきれず、涙をこぼした。大粒の涙が次々と頬を伝い、啜り泣きに変わる。アヤメは滂沱の涙で真っ赤になった瞳で、アランと、外の世界を見比べた。
外へ出ようと彼が言ってくれたとき、彼はアヤメをエスコートしてくれた。自分から率先して外へ出て、手を差し伸べ、アヤメの先を歩いてくれた。あるいは、逞しい腕でしっかりと横抱きにし、アヤメの代わりに地面を踏んでくれた。
それが、今はどうだろう。まるでアヤメを愚弄するように見下して、手を貸そうともしない。
蝋燭の炎が吹き消されたように、アヤメの心が凪いでいく。誰かに視界を塞がれるように、視界が暗闇に染まっていく。
「もういいだろう。部屋に戻りなさい」
アランが彼の腕を掴むと、アヤメは耳をつんざくような悲鳴を上げた。それに驚き、アランはうっかり手を放してしまう。痛むほど掴んでしまった自覚はない。
アヤメは弾かれたように雷雨の中を走りだした。
「アヤメ!」
「アヤメ様!」
アランと使用人たちの声は、嵐と落雷の轟音にかき消された。
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