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第9話
アランが負傷したのは、地下競売 でのことだった。予兆があった訳ではない。ただくだらない小競り合いに巻き込まれ、咄嗟に肉の盾となった。相手の持つ獲物、距離を見定め、あのくらいであれば撃たれても支障あるまい、という楽観的算段があった。
彼はかつて軍人という身分であったが、出自も相まって特殊な任務に着いていた。前線に送られる兵士ではなく、王族直属の部隊として諜報や工作、潜入、運び屋、時には要人暗殺と、多岐に渡って暗躍した。軍人らしく傷跡の目立つ肉体ではないが、この手の死線にはある程度の場慣れがあった。
あの夜、アランは騒ぎが大きくなる前にそれとなく人々の避難誘導を行い、混乱に乗じて姿を消した。血の滴る左肩を抑えながら、利き腕が使い物にならなくなるかもしれないことに一抹の不安を感じた。汚れた手のひらを見つめ、おそるおそる指先を動かしてみると、痺れるような激痛が肩に走る。それでも指の感触からして神経に支障ないことは判ったので、このまま事態の把握ないし収束を目標に定め、ミンを使って尾行の有無を探らせた。
尾行はなかった。念を入れて何処か適当な酒場にでも寄ろうと提案すると、ミンはアランを言いくるめ、病院で手術を受けさせた。アランは最後まで「大したことはない、アヤメが心配するから帰る」と抵抗したが、彼は昔から自分の傷には無頓着なので、ミンが「アレン様に言いつけますよ」と弟君を盾に一蹴したのだった。
後日、アランの身を案じ、御礼にかこつけてお近づきを目論むご婦人たちや資産家などには「非公式の場であるから」という理由でミンを代理に遣わした。ミンはアランに代わって歓待を受け、地下競売 にも顔を出し、彼なりに人脈を再構築し、情報収集に勤しんだ。
夜半、アランはプレイルームで一人スヌーカーやダーツに興じていた。教養のひとつとして嗜む程度だから、大して上手くはない。いつ社交の場で必要になるかわからないからこうして練習してはいるものの、左肩の感触に首を捻り、すぐにやめた。飽きたといってもいい。
プレイルームには簡易バーがあり、戸棚にはお気に入りの酒瓶がずらりと並んでいる。アランはスコッチを取り出すと、自らグラスに注いで飲み干した。そこへ扉を叩く音がする。
「──失礼いたします」
「ミン。遅かったな」
「申し訳ございません」
二人が顔を合わせるのは、アランが退院してから初めてのことだった。
アランは新しいグラスに酒を注ぎ、ミンの方へ押しやった。煙草を薦めるが、ミンは首を振って「私はこちらだけで」とグラスを指した。
二人は静かにグラスを重ねる。耳障りのいい音が、仄暗い室内に静かに響いた。
「聞きましたよ。アヤメ様が看護婦になられたのだとか」
「何から何まで世話を焼こうとするのだ」
かえって手を焼く、とアランは微苦笑を浮かべ、溜息混じりに煙草に火を付けた。
ミンは彼の照れ様に弟君のアレンを重ね、笑みを深めた。彼らは共に暮らしたことなどないはずなのに、時折こうして「血」を感じさせるところがある。
「アヤメ様は、アラン様に似て強情なところがおありです。いじらしくてよいではありませんか」
「はは、それは認める。アレンはどうだ。元気にやっているか」
「お変わりありません。ご立派にお務めですよ」
「そうか……」
アランは灰皿に煙草の灰を落とし、酒を煽った。
「──それで、首尾はどうだ」
「くだらない噂話ばかりでしたが、それなりに収穫はございました」
「聞かせてくれ」
「はい。あの夜の小競り合いは、アラン様を狙ったものかと……」
「私を? はっ、馬鹿馬鹿しい」
アランは失笑を禁じ得ず、グラスの酒を飲み干すと、ミンに寄越した。ミンは静かに琥珀色の酒を注ぎながら言う。
「ここ最近、素行の悪いマフィアが地下競売 に出入りするようになったそうです。盗品の一部を横領しているのだとか。さすがに贋作は主催側 で締め出しているようですが……」
「当然だ。地下競売 と言えど、信用が落ちるような真似を主催側 がするはずない」
アングラの社交場である地下競売 には、家柄も爵位も関係ない。財力と招待状があれば誰でも容易に参加できる。アランとて公式には輸入商で通しているが、実態はマフィアの端くれであり、それも彼の持つ顔のひとつにすぎない。招待客 が都合のいいように顔を使い分けていることを主催側 は把握しているし、招待客 も暗黙の了解として承知している。地下競売 にはそうした見えない信用が、網の目のように張り巡らされている。
「処遇は?」
「いえ、ありませんでした」
「妙だな。私を狙う目的は? 主催が黒幕か?」
ミンの言うように、彼らが本当にアランを狙って事を起こしたとあれば、地下競売 を出禁になってもおかしくはなかった。主催側 の面目を潰し、信用を損なわせ、秩序ある庭を無遠慮に踏み荒らしたのだから、何らかの制裁は課せられるはずだ。
「アラン邸の『秘宝』の噂はご存知ですか?」
その言葉に、アランはすっかり短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「その手の話なら、何度も聞いた。うちに秘宝などあるはずないだろう。地下の宝物庫にあるものだって、アレンが不要だと言ったがらくたばかりだ」
「その……、秘宝というのは、どうやらアヤメ様のことのようなのです……。噂が一人歩きしているようで……」
「アヤメだと?」
「ええ。『門外不出の美』だとか、『東洋の花』だとか……。宝石の名として通っているようです」
「はっ、確かにどれもアヤメに相応しい言葉だ」
アランはにやりと笑いながらも、指先は苛立ったようにテーブルを叩いていた。
(小競り合いは演出で、狙いは私。理由は噂が一人歩きした秘宝──。私を拉致して在処を聞き出そうとでもしたのだろうか。それとも、私の素性を知って──)
彼の思考を邪魔しまいと、ミンはじっと待つ。
「──それにしても稚拙だな。黒幕か、参謀がいる」
「同感です。彼らを調査しましたが、ただの三下で……。始末の用意はいつでも」
「いや、主催側 が手を出さないなら少し泳がせる。それより屋敷の警備を強化しろ。アヤメを外へ出すな」
「アヤメ様が外へ出ることなど、有り得ないでしょう」
ミンが言うと、アランはさみしげに自嘲した。
「それもそうだ。それで、相手の素性はどこまで掴めた?」
「本星はまだ何とも。盗品で稼いだ金を、二次団体かフロントで洗浄している形跡があります。それなりに大きな組織かと」
「国外に拠点は?」
「ございます。賭場 が主な資金源です」
「後ろ盾がありそうだな。胴元の素性は?」
「傀儡ですね。他には軍用品、水産、土木、慈善事業などを手掛けております」
「軍絡みか?」
「おそらく」
「根拠は?」
「勘です」
「相手が、私の素性を知っているとでも?」
「可能性はございます。黒幕が知っていると仮定して動きますので、ご心配なく。アラン様の正体が知られていたとしたら、厄介ですから」
「お前は私ではなく、アレンが心配なのだろう」
ミンは答えず、微笑を浮かべた。
アランは罰が悪くなって頭を掻いた。
アランが王族付きの軍人であったことは公然の秘密であり、いいゴシップだった。詳細は不明で、近衛兵──王に最も近い護衛だったというのが定説である。
まず、市井の人々はアランを外商の成金だと思っている。これはアラン自ら外商を名乗っているので、当然の結果と言える。
他方、社交界の人間は、彼が王族付きの軍人であったことを知っている。任務の内容こそ知らないが、その肩書きだけで彼らはアランに一目置いた。上流階級者らしく、詮索はしない。尾鰭や背鰭がついたゴシップは、却って彼に箔を付けた。
そして裏社会の人間もまた、彼を知っていた。王族付き軍人という肩書きはアランをよく守ったし、利用しようと頼られもした。
アランは自らの前歴を利用し、今なお外の世界で暗躍していた。この世でただ一人となった血を分けた兄弟、アレンのために。彼の──彼らの本当の秘密は、別にある。
「……いいだろう。人間関係を重点的に洗い、金脈を辿れ。私はマダム・シンシアに探りを入れる。相手が軍なら有り難い。マダムは彼らが嫌いだ」
「利害の一致は結束を強める、ですね」
「その通りだ。だが油断はするなよ。日陰者でも多少なり知恵があれば、ああした社交場で小競り合いなどしない。よほど強い後ろ盾があるか、ファミリー内の結束が強いか、あるいは──」
「瓦解が近いか、ですね。心得ております。この件、アレン様へご報告いたしますか?」
アランは首を振り、新しい煙草に火を付けた。
「まずは精査だ。確証がなくては。とは言え、あまり関わらせたくないのが私の本心だ。下手に動いて暴動でも起きてみろ。あれにはまだ対処できるほどの力はない」
「畏れながら、アレン様への不敬は断じて許しません」
ミンは静かに怒りを燃やした。
アレンは皮肉たっぷりに紫煙を吐いた。
「過信は破滅を招く。父のように」
再び自嘲めいた微笑をミンに向ける。アレンの手は、魂は、自分と同じく清らかざるものなのだ。ミンが崇拝するほど神聖なものではない。
ミンはグラスを傾け、一息に飲み干した。空いたそれにアランが新しい酒を注ぐ。
「……もう一度、決起すべきです」
「馬鹿言え。王は死んだ」
「アレン様がおられます」
「わざわざ巻き込む必要はないと言うのがわからんか。あれは自分の足で立てる。今はそれで精一杯というだけだ」
「それこそ過信ではございませんか?」
「あの子は八歳で人を殺した!」
乱暴にグラスを置く音が響き、室内はぴんと張り詰めた空気に変化した。
アランはミンに対して怒りをぶつけているのではない。自身の恥と罪に憤りを感じている。弟の手を汚させたのは自分自身なのだと、その罪と罰をこうして背負っているのだと。
対するミンは、八歳で人を殺めたからなんだという白けた気持ちでいた。彼が人を殺したのは六歳の誕生日だった。稼業とは言え、それがミンの人生であった。
「済まない……。取り乱した」
「……いえ。私も軽率でした。お詫び申し上げます」
「必要な資源は私が用意する。アレンの援助など必要ない。ヒト、モノ、カネ……何でも用意してやる。何が欲しい?」
「そうですね……。できれば腕の立つ女性を一人……。信用に足る人物であれば、誰でも構いません。仕事は一人でします。しかし、地下競売 では連れ合いがいたほうが怪しまれません」
「花なら、シンシアから借りているだろう」
アランもミンも、地下競売へ同伴する女性はマダム・シンシアから調達していた。社交界で通用するような品格と教養のある口の堅い女性を、と言うと、マダムはそれなりの料金を提示したうえで、無傷で帰すことを条件にあっさり許可した。ちょうどいい子がいると中流家庭の未亡人や家庭教師を用意したのである。女たちには、見聞きしたことは一切口外しないなど、秘密保持の契約書に署名までさせる念の入れようだ。シンシアは疑り深く、一線引くべきところは引いた。それが彼女の信条らしかった。
「花に紛れ込ませたいのです。彼女らの護衛にもなるでしょう」
「そうか。ならば、屋敷から洗濯係のマリエラを連れて行け」
「マリエラ……。太腿に仕込みのある女性ですか」
「わかるか。ロイドの子飼いだ」
アランは鼻で笑いながらも、内心ではミンの嗅覚を恐ろしく、頼もしく思った。
「あまり接したことがないので、確信はありませんでしたよ」
苦笑で誤魔化し、酒を煽る。アランもつられて酒を飲み込んだ。
「マリエラは腕がいい。命令にも忠実だ。しかし、少々お転婆でな。社交界の花には向かんだろう。上手く使え」
「承知いたしました」
「どの花にも、傷ひとつくれてやるなよ」
「承知しております。それと、アラン様」
「なんだ、改まって」
「まだ噂ですが、お探しのものが、近々競売に出るとか」
「……確かか?」
アランの目つきが変わる。軍を退いた直後、彼の生き甲斐はこの「探し物」だけだった。そう、アヤメに出会うまでは。
「噂ですから。並行して探ります」
「悟られるな」
「もちろんです」
二人は再びグラスを重ねた。
プレイルームでの密談は、夜が深まっても続いた。
その後、アヤメが自ら「外へ出たい」と口にするなど、誰も知りようがなかった。
──アランさえも。
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