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第10話

 目を覚ましたとき、アヤメはアヤメでなくなっていた。  自室だというベッドに寝かされていたが、汚れ一つない真っ(さら)なシーツは、かえって気味が悪かった。部屋を見渡しても馴染みのあるものはひとつもない。クローゼット、ドレッサー、コンソール、コモード、ビューロ、それらを彩る小物たち。どれも他人行儀で、居心地が悪い。  彼は裸足のままそっとベッドから降りた。ドレッサーの上で何かがちらりと光るのを視界の端に捉え、徐に近寄った。カーテンの隙間から陽光が差し、台座にのせられた長い金のピアスが慎ましく輝いている。 (誰のものだろう……。ここは女性の部屋かしら) 「うっ……、」  そう思うや否や、頭が締め付けられるような痛みに呻いた。彼の最後の記憶は、轟々と風が唸り、暗闇に稲光が走る嵐だった。土砂降りの雨の中、冷たく濡れた芝草の上に体を押さえつけられ、必死に抵抗していた。  ──離して! ここから出して!  喉が引き千切れるほど叫んだ記憶もある。泣き喚いて訴えたけれど、誰の耳にも届かない。体を押さえ付けられ、抵抗しようと緑を掴んだ。地面に爪痕を残し、泥を噛む。寒くて冷たくて、怖くて、かなしかった。 (僕、どうしてあんな嵐の中を……)  朧げにある記憶の一片から、ああ、飛び出したのだと理解した。どうしても屋敷を出たくて、でも出してもらえなくて、極度の緊張と精神的圧力に耐えきれず、嵐の中を飛び出した。  それらを思い起こし、彼は自分はここにいてはいけない存在なのだと考えるに至った。 (逃げなくちゃ)  そう決意すると、扉を叩く音が聞こえる。彼はすぐさまベッドへ戻り、シーツを被った。 「おはようございます。アヤメ様、お目覚めでしょうか」  柔和な女性の声が響いた。おそるおそる顔を出すと、メイド服姿の女性が二人、食事を運んで来た。焼きたてのパンとスープ、こんがり焼けたベーコンやスクランブルエッグのいい匂いが漂った。 「今日は、いいお天気でございますよ」  メイドの一人がさっとカーテンを開けた。一気に陽が差し込み、陰気くさい部屋が光に包まれる。彼はいっそう深くシーツの中へ潜ったが、呆気なく剥ぎ取られた。もう一人のメイドはてきぱきと朝食の支度を整えた。 「さあどうぞ、お召し上がりくださいませ」  完璧に整えられた朝食だった。膝に乗せられた銀のトレーの上には、一輪の花まで飾ってある。彼はその花を見たとき、なぜだか無性に口に入れたくなって、花弁のひとひらに噛みつき、引き千切った。  メイドはぎょっとしたものの「こちらはお召し上がりいただけません」と平然を装い取り上げた。 「お花がよろしゅうございますか? では、花びらのお紅茶をご用意して参ります。東洋のものでございますよ」  若いメイドは微笑み、部屋を辞した。残されたもう一人のメイドも仰々しく礼をして出て行く。  彼に女性の使用人を付かせたのは、アランの指示である。  アヤメが目を覚ましたのは、これが初めてではなかった。何度も目覚めては記憶の混濁、退行、奇行と実に飽きさせることのない振る舞いを繰り返し、屋敷の人間を大いに混乱させた。アヤメが目を覚ますまで、アランは時間の許す限り傍についていたのだが、初めてその瞬間が訪れたとき、アヤメは自分のことも、屋敷のことも、一切覚えていなかった。それどころか、心配するアランの顔を見てひどく怯え、拒絶した。アランが「アヤメ」と呼び掛けると「僕はアヤメじゃない!」と激高したし、ロイドや他の男性使用人に対しても同じような反応だったので、嵐の夜に取り押さえたときの恐怖心からかもしれないと、アヤメの世話はメイドに一任することになった。と言っても、執事(バトラー)たるロイドはアヤメの視界に入らないよう、部屋の前までやって来て、メイドたちの仕事が終わるのを廊下で待ち、その日の様子をアランに報告していた。  使用人はすべてロイドの部下である。彼と苦楽を共にした昔ながらの仲間もいれば、伝手や紹介を経て、過酷な面接を勝ち抜き採用された新人もいる。  給仕係の二人のメイドは、まさにその組み合わせだった。  アヤメが食事に手を付けず、ナイフやフォークをこっそり枕の下へ隠すと、すぐに気が付いてワゴンから新しいものを取り出し、再び完璧に配膳した。そしてにっこり笑って手のひらを差し出し、枕の下へ隠したものを出すよう促すのだ。アヤメは渋々フォークを差し出すが、メイドが「ナイフもお出しください。バターナイフもですよ」と言うと、ふくれっ面をしながらも言うことを聞く。メイドが代わりにスプーンを差し出すと、大人しくスープを口にした。  この程度なら、まだ可愛げがある。  頑固に食事を拒否することもあった。何か、ひとくちだけでも、とメイドが介助しようとすると、トレーごとひっくり返して「出て行け!」と暴れ、彼女たちを追い出した。そうなると部屋の扉をノックするだけで何かを投げつけられるので、部屋に入ることすらできない。そうして二、三日籠城し、空腹に耐えかねると台所でハムやチーズにパン、ロイドがアヤメのためにと作っておいた焼き菓子を貪り食らう。おそらく彼自身に意思はなく、無意識なのだろう。肉体の空腹に任せ、ぼんやりとした瞳で一心不乱に貪る姿は、人ならざるもののように見えた。  かと思えば、使用人相手に鬼ごっこでもしているかのように無邪気に屋敷中を駆け回り、楽しげに笑っていた。ひとしきり遊んで疲れると、コンサバトリーのハンモックで燦燦と日を浴びながら、猫のように丸まって眠る。子供時代のアヤメに似ていたが、このときは自分の名前もわからず、言葉を発することがなかった。  夜半にアランのベッドへ潜り込んだことも、一度や二度ではない。そのくせ目覚めたとき、隣にアランがいると仰天してベッドから転げ落ち、逃げ出すか、部屋の隅で怯えて震えた。 「どこかぶつけたか?」  アランがやさしく問いかけても、アヤメは縮こまって顔を伏せ、ごめんなさい、ごめんなさいと泣いて繰り返した。そんなアヤメを見るたび、アランの心は深い悲しみと落胆、苛立ち、自責の念に苛まれた。  アヤメは夢遊病の症状もあり、夜な夜な屋敷を徘徊することもあった。彼が存在すら知らないはずの地下室へ足を踏み入れ、宝物庫の石造の床を何かに取り憑かれたように磨いていたとき、屋敷中に緊張が走った。  地下の宝物庫には古い鎧や年代物の食器、絵画や彫像などが置いてあった。他には食糧貯蔵庫もあり、それは今でも現役だが、隠し扉の奥には小さいながらも武器庫や拷問部屋、作戦室があった。アランはアヤメとこの屋敷に住むと決めたとき、それらを封印し、アヤメには地下室の存在をひた隠しにしてきた。隠し部屋のこともあったし、何より地下室そのものが、幼いアヤメにとっては恐怖の対象でしかないだろうと思ったのだ。  そのアヤメが、一体どうやって嗅ぎ付けたのか、地下へと忍び込んでいた。寝巻き姿のまま、宝物庫の床に這いつくばるようにして、懸命にブラシで磨いている。ぶつぶつと何か言っているが、アランにはよく聞き取れない。  アヤメはふと視線を感じ、その先を見据えた。  一枚の絵画があった。掛け布がずり落ち、あどけない瞳と目が合う。  アヤメは吸い寄せられるように絵画に近づき、掛け布をばさりと外した。辺りに埃が舞った。咳き込みながら絵画を見遣ると、同じ顔が二つある。揃いの鮮やかな絹と繊細なレースのドレス、色素の薄い髪色の巻毛には、宝石を散りばめた小さなティアラが輝いていた。少女の一人は天使のような微笑を湛え、もう一人はどこか怒っているような、睨んでいるような顔をしていた。 (……あれ──?)  アヤメは奇妙な既視感に襲われた。似ている気がする。それが誰だか思い出せない。靄のかかる頭の中で、アヤメはその幻の正体を追おうとした。 「アヤメ」 「ひ──……ッ!」  アヤメは手にしていたブラシを打ち捨て、頭を庇うようにして小さくなった。ひっくり返ったバケツが音を立てて転がる。 「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」 「落ち着きなさい、大丈夫だから。私は何もしない」  アランは手の平を見せながら丸腰であることを示し、アヤメと距離を取りつつ近づいた。騒ぎに気付いてやって来た使用人には下がるよう目配せをし、アヤメと視線を合わせるようにしゃがむ。 「この絵と会うのは初めてだったな。紹介しよう。私の双子の妹だ。アリスと、アルマ」  アランのどこか寂し気な声色は、アヤメの警戒心をほんの少し和らげた。  アランはアヤメから視線を外し、懐かしそうに絵画を見上げた。 「二人とも五歳でこの世を去った」  年の離れた異母妹で、アランには娘のように感じられた。生きていれば、アヤメと年齢も近い。彼女たちは外見は瓜二つだが、性格は全く違っていた。  アリスは五歳になっても二歳児のような振る舞いをしたが、純真無垢で、みんなに愛され、大切に育てられた。妹のアルマのことが大好きで、離れると癇癪を起こした。  アルマは活発で、リボンやドレスといった女の子らしいものが大嫌いだった。姉のアリスの面倒をよく見る、思いやりのあるしっかりした子だ。この絵画はアルマに無理やりドレスを着せたので、ご機嫌斜めなのだ。  二人の少女は謀反に巻き込まれ、誘拐された。最期は非業の死を遂げた。あまりにも無残な亡骸だったので、実の母親でさえ、これは我が子かと疑うほど判別できない状態だったそうだ。  そのことを思い出し、アランの瞳は静かに怒りを燃やした。忘れることも、癒えることもない憎しみと悲しみ──。  アヤメは絵画の少女とアランの横顔を交互に眺め、よたよたとアランに近づくと、彼の頭ごと腹に引き寄せるようにして、ぎゅうっと抱き締めた。しがみついたと言ったほうが正しいかもしれない。仄暗い地下で淡く輝くアランの長髪を梳くように撫で、聖母のような慈しみを与えたかと思えば、ぞっとするような艶美な微笑を向ける。 「アヤメ……! 私がわかるのか?」  堪らずアランが縋ると、アヤメはその手を払い除け、再び怯えたような、高貴な者が触れさせまいとするような、強張った表情でアランを見据えた。 「アヤメ……」  伸ばされたアランの手を、アヤメが取ることはなかった。  アヤメの瞳には困惑と憎悪が宿る。唇が震える。頭がふらつき、視線があちこちに向いた。頭を抱え、か細い指の隙間から艶を失った黒髪が覗く。 「っ、ぼっ、ぼくは……、あや、アヤメじゃ、ない……ッ!」  絞り出すように言ったあと、彼は事切れたようにその場に崩れ落ちた。

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