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第11話

 それからしばらくして、アヤメは屋敷から姿を消した。  アランとミンは地下競売(オークション)へ出掛けていたし、ロイドも別命を受け、数人の部下と共に外出していた。残された使用人たちは少ない人数で屋敷を切り盛りせねばならず、いつも以上にきびきびと忙しなく働いていたが、上司のいない屋敷にはどこか開放的な雰囲気が漂っていた。アヤメがどれだけ問題行動を繰り返そうと、屋敷から出ることは決してなかったので、気の緩みもあったのだろう。  夜明けにはまだ早い深夜、アヤメはむくりと起き上がった。クローゼットからシャツとスラックスを取り出し、何の躊躇いもなく身に着けた。ベストにジャケット、ロングコート、仕上げに帽子を被れば、一見して誰だかわからない。  このときも、アヤメはアヤメではなかった。  自分が何をしているか記憶になかった。無意識に行動していた。不思議なことに、自身の記憶は失っても、日常生活を送るだけの記憶はきちんとあった。夢遊病のような症状でありながら受け答えまでそつなくできるのだから、驚くべき記憶障害と言えよう。日常生活になんら支障なく、自分が「アヤメ」であった記憶だけがすっぽりと抜け落ち、全く別人を名乗るのだ。  彼は街へ出て、自らを「アダム」と名乗った。  アダムは屋敷を抜け出し、街を徘徊して回った。空腹を思い出したのは、昼をとうに過ぎた頃だ。前を歩いていた男女の二人連れがひょいと通りのレストランへ入ったのを見て、アダムも真似た。予約をしていないと言うと、給仕(ウェイター)は「運がいいですね」と微笑んだ。ちょうど空いているテーブルがあると言う。店は繁盛しているようで、まもなく昼の営業も終わろうかと言うのに店内は賑わっている。同じように一人客の姿がちらほら見えたので、アダムはほっと胸を撫で下ろした。  メニューを眺める。空腹であるものの、何を食べればよいかわからなかった。ランチには一皿で完結する料理が提供されている。アダムは困り果て、給仕(ウェイター)におすすめを尋ねた。 「では、ミートボールスパゲッティなどいかがでしょう? 私の大好物です」 「それをください」 「かしこまりました」  しばらくして運ばれてきた一品に、アダムはごくりと生唾を飲んだ。湯気の立ちのぼるスパゲッティ、鮮やかな赤いソースには肉団子がごろごろ転がっていて、バジルのいい香りがした。  アダムはナイフとフォークも器用に使えた。咀嚼もでき、味覚もある。初めて外の世界の料理を堪能した。  食事を終え、いざ会計を済ませようとポケットに手をやるが、当然何も持っていない。アダムの顔からさあっと血の気が引いた。慌てて胸や太もものポケットを確認し、預けたコートに財布がないか見てもらったが、あるはずもない。彼は先程の給仕(ウェイター)にそのことを素直に申告した。 「すみません、財布が見当たらなくて……。あの、働いてお返しさせていただけませんか?」 「ええと……。そうですか。困りましたね……」 「申し訳ありません……」  縮こまり、項垂れるアダムに、給仕(ウェイター)は弟の姿を重ねた。やんちゃばかりしていた三番目の弟だ。歳も同じ頃だろうか。そう思うと、自然と頬が緩んだ。 「スパゲッティはお口に合いましたか?」 「え? は、はい……! とてもおいしかったです」 「それはよかった。家庭料理ですが、我が家に代々伝わるレシピで作るんですよ。あ、そうだ。少々お待ちくださいませ」  給仕(ウェイター)は感じの良い微笑を崩さず、皿を下げると彼のためにコーヒーを提供した。それから三階の事務所へ行き、オーナーであり自分の父親でもあるダンテにアダムのことを報告しに行った。 「身なりもいいし、食事の作法もきちんとしてる。スリにでもあったんじゃないかと思うよ」 「無銭飲食には変わらん。いいから連れて来い!」 「はあ……。わかりましたよ」  クリスは溜息を吐き、アダムを事務所まで案内した。事務所の扉を開ける際、アダムに片目を瞑って見せる。アダムは緊張しながらも軽く頷いて応えた。  扉の先にはオーナーだと言ういかにも成金のような肥えた男が、デスクに足を上げて座っていた。威圧的だが、アダムは動じなかった。「この度は、申し訳ございません。どうか働いてお返しさせてください」と謝罪を述べると、オーナーは顎で椅子をしゃくった。意図を汲み、大人しく腰掛ける。 「私はダンテだ。お前さんは?」 「アダムです」  アダム、と噛み砕くようにオーナーは繰り返した。息子の言う通り、アダムはそれなりに身形(みなり)がよく、どこかのお坊ちゃんのように見えた。また、おぼこそうにも見えたので、堂々と罪を犯すような度胸と狡猾さがあるようには思えなかった。クリスの言う通りスリにでも遭ったか、うっかり落っことしたのだろう。幼く見えるのは、東洋の血が混じっているからだろうか。移民だから狙われたのかもしれない。  そんなことを考えながら、ダンテは品定めをするようにアダムを見た。 「調理場の経験は?」 「ありません。掃除はできます、たぶん……」 「皿洗いは?」 「はい。それはやったことが……いえ、できます」 「決まりだ。ちょうど人手が足らん。雑用係が欲しかったところだ」  店側は皿洗いが一人いるだけでもだいぶ助かった。レストランは目の回る忙しさで、常に人手不足だ。厳しい環境で人を雇ってもすぐ辞めてしまうし、シェフ見習いのナタリアは朝早くに仕入れや仕込み、夜遅くまで掃除や片付けと事務所に寝泊まりまでしていたから、アダムの申し出はオーナーにとって願ったり叶ったりのことだった。それに彼は躾が良さそうだったから、給仕の穴埋めにも使えそうだ。長男のクリスは人当たりはいいが、仕事に厳しく、人を雇ってもすぐに辞めてしまう。  これは使い勝手がいい、とオーナーは内心ほくそ笑んだ。出来損ないだったらさっさと追い出してしまえばいい。たかだか賄いにも出しているようなミートスパゲッティ一皿くらいの値段で、目くじらを立てるほどでもない。  そんな目論見をよそに、アダムはダンテの期待以上の働きをした。皿洗いの手際のよさ、自分の仕事をしながら周囲の動きを観察し、フォローに入る無駄のなさ、気遣いの一言、素直な謝罪と謙虚な反省。物静かだが愛想はあるし、仕事の覚えも悪くない。ダンテはアダムの仕事ぶりを気に入り、彼の方から「しばらくここで働いていかないか」と持ち掛けた。行く宛もなく、一文無しだったアダムは二つ返事で快諾した。  アダムはよく働き(こき使われたと言っても過言ではないが)文句ひとつ言わずに掃除や雑用を引き受け、ダンテの思惑通り給仕までこなした。酒の扱いにも小慣れており、二階部分に併設されているバーでも役に立った。  始めは事務所で寝起きし、シェフ見習いの補助として仕入れや閉店作業を手伝っていたが、給仕やバーテンの手伝いをするようになると、店が所有しているアパートに部屋を借りて生活を始めた。ダンテの三男坊でバーテンのティムもここに住んでいて、彼と、ティムの従姉妹でシェフ見習いのナタリアとは歳が近く、すぐに仲良くなった。 「──ホントよ、気が気じゃなかったの」  ナタリアは素早い手つきでじゃがいもの皮剥きをしながら、ティムに笑い掛けた。 「また市場で変な人に付けられた?」  ティムはカウンターで肘をつき、ナタリアの試作品のフィッシュパイを食べていた。その隣では、アダムがワイングラスを磨きながら二人の会話に苦笑いを浮かべている。 「そうなの! 撒こうと思ったんだけど、すぐいなくなっちゃった。でも、気のせいじゃなかったわよね。ね、アダム?」 「うーん……、僕にはわからなかったけど」 「鈍感ねえ。そんなだから、財布を盗まれても気付かないんだわ」 「ごめん……。気をつけます」 「またやられたの?」 「ちゃんと返ってきたよ。取り返してくれた人がいて、僕に返してくれた」 「アダムって本当に運がいいのね」 「財布は首からぶら下げておいた方がいいんじゃない? そのうち鍵まで失くすぜ」  ティムが笑うと、ナタリアはじゃがいもの下拵えを終え、今度は玉ねぎを剥き始めた。 「でも、あたしたち、アダムが財布を失くしたおかげで出会えたんだもんね。ドジのアダムに感謝しなくちゃ」 「ドジならこんなにこき使われねえって。てっきり調理場の雑用係で終わるのかと思ったら、給仕にバーテンの手伝いまでするんだもんな」 「やあね、ティムったら。アダムは皿洗いしかできなかったから、調理場を追い出されたのよ。給仕も人手が足りなかったし、クリスの下でよく頑張ってるわよ」 「兄貴は給仕となると人が変わるんだよなあ。温厚な善人面しといて、本性は悪魔なんだ」 「あんなに紳士な悪魔がいる? クリス目当てで来るお客だっているじゃない」 「外面がいいから、みんな騙されるのさ」  二人は愉快そうに笑った。アダムは二人のやりとりを微笑ましく思いながら、グラスを磨く手は止めない。彼らといると、毎日が新鮮だった。 「アダム、兄貴とは上手くやれてる?」 「うん。よくしてもらってるよ」 「何かあったらすぐ言えよ。仕事のときもおっかないけど、怒らすともっとおっかないんだからな」 「大丈夫だよ。ありがとう」  クリスはアダムの恩人だ。あれ以来ミートボールスパゲッティはアダムの大好物になり、好んでよく作ってもらった。それに、彼はアダムの密かな憧れでもある。物腰が柔らかく、おっとりしていて、ダンテやティムとは似ても似つかない。母親にそっくりらしいので、きっとその血を受け継いだのだろう。仕事には厳しいが、彼がいるからこそ、ホールには適度な緊張感と安心感があった。 (僕も、早く一人前になりたいな)  アダムは新しい人生を歩み始めていた。

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