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第12話

 遁走から、三ヵ月余りが経過していた。  春の冷たい夜風が店の前を通り過ぎて行く。  レストランは相変わらず忙しい。朝から仕込み、開店準備、昼の営業を終え、一息ついたと思ったら夜の営業が始まる。厨房は戦場のようだし、給仕たちは隅々まで神経を張り巡らせ、店内を優雅に奔走した。  ミーティングを終えた夜の営業の開店前、アダムは受付で予約帳を見ながら、今日初めて訪れる客の名前を確認していた。 (アラン、ね。料理は……。書いてないな。支払は請求書、苦手な食べ物はなし。メニューを見て決めるのか)  指先で文字をなぞりながら、上客だろう、とアダムは思った。  初めて訪れる客は、ほとんどがこのレストラン「シノミディ」の看板メニューである定番の肉料理を味わいにくる。夜の営業メニューは、この定番の肉料理と、旬の魚料理、それから「おまかせ」だ。常連の中でも金払いのいい太客は、この「おまかせ」を選ぶことが多い。「おまかせ」は旬の食材を料理長であるデニス自ら選定し、独創性の高いコース料理を提供する。その分、価格も高い。余談だが、ナタリアの夢はこのおまかせコースを作るシェフになることだ。いつか父親の舌を唸らせ、その背中を追い越したいのだと言う。 「アダム、看板を出して来てくれる?」 「はい、クリス」 「今日はアダムに受付を任せるよ。がんばってね」 「本当ですか? ありがとうございます!」  アダムは嬉しそうに微笑んだ。クリスは支配人として常に受付に張り付いている。客を一番に出迎え、席まで案内する。長らく母親の仕事だったが、彼女が亡くなった後、クリスが継いだ。  初来店の客には、ここで店の第一印象が決まる。屋敷でいう執事(バトラー)のような役割だ。その役割を任せて貰えるということは、少しは認められたのだろうとアダムは思った。緊張と嬉しさで胸がいっぱいになる。 (大丈夫、大丈夫……。いつも通りやればいいんだ)  店内に明かりが灯る。  店先に看板を出すと、次々と客がやって来た。店内はあっという間に賑々しくなり、給仕たちは忙しなくホールを回って食事を提供しては下げていく。  ──カラン、カランとドアのベルが鳴る。 「いらっしゃいませ」  アダムはいつものように柔和な微笑を作り、客を出迎えた。  男は帽子を目深に被り、薄手のコートを着ていた。 「お預かりいたします。お名前を──」 「アランだ」  帽子を取り去り、名前を述べる妙齢の紳士。彼は背筋を伸ばし、まっすぐにアダムを見つめた。  彼を見たとき、アダムは不思議な気持ちになった。背筋に電気が走ったような、頭がふわふわするような。  幼い自分の声が、懐っこく「アランさま!」と呼ぶのが、遥か遠くで聞こえた気がした。 (あれ……。僕、どこかで……)  彼の瞳、彼の姿、彼の立ち振る舞い。  予感のような、胸騒ぎのような、なんだか落ち着かないまま、心臓が壊れたように高鳴る。  それでもアダムは他の客に接するのと同じように、穏やかに微笑んだ。今は仕事に集中しなければならない。既視感への疑念を解明しようとするよりも、クリスの期待に応えたいと思った。 「アラン様ですね。お待ちしておりました。ようこそ、シノミディへ」  帽子とコートを預かり、予約席へと案内する。月光のような淡く美しい長髪がシャンデリアにきらりと輝いた。美しい人だな、とアダムは思った。指先があの波打つ髪の感触を覚えているような気がして、ぴくりと反応する。それを否定するように、アダムは手にしているメニュー表を強く握り締めた。  出だしの声は、少し上擦る。 「は、初めてでいらっしゃいますね。当レストラン、シノミディは古い言葉で……」 「収穫、だろう?」 「はい。そうです。あの……もしかして、一度いらっしゃったことがありましたか?」  不躾で申し訳ありません、とお詫びも添えた。もしかして、とほのかな期待を込めて尋ねたのだが、彼の答えはアダムの満足するものではなかった。 「いや……。初めてだ」  彼の寂しそうな微笑に、アダムは胸を痛めた。レストランに訪れる客はみな大事なお客様(ゲスト)だと言うのに、どういう訳だか彼の前ではずっと笑っていたい、笑っていなくちゃという思いに駆られてしまう。  うなじの火傷痕に電流が走った気がした。不安、焦燥、それでいて満ち足りた幸福のようなものが、アダムの心にじわりと広がっていく。 「……そうですか。大変失礼いたしました。お詫びに何か……」  アダムは食前酒を振舞おうとしたが、彼はゆるく首を振り、辞退の意を示した。アダムは微笑を崩さず、メニューを手渡しながら言う。 「では、メニューをどうぞ。本日のおすすめは……」 「任せる」 「おまかせ、ですか?」 「ああ。そう言った」 「かしこまりました。お飲み物は……」  アランはなんでもいい、と言ったが、それではアダムを困惑させてしまうかもしれないと思い、すぐさま「料理に合う酒を」と付け加えるようにして言った。 「はい。少々お待ちくださいませ」  アダムはにっこりと微笑み、奥へ引っ込むと、調理場にいるシェフと、すぐ傍に控えているオーナーにアランのことを話した。 「あの……、五番テーブルのお客様は、お知り合いですか?」  こそこそと視線で指しながら聞くが、オーナーのダンテもシェフのデニスも、彼を知らなかった。  デニスは肩をすくめ、ダンテに尋ねた。 「さあな。兄貴の知り合いじゃねえのか?」 「俺だって知らねえよ。お前の客なんじゃないのか?」 「知るかよ」  デニスはアランのつま先から頭のてっぺんまでじろじろと眺め、忌々しげに「気取った奴だな」と鼻で笑ったが、ダンテは「かなり裕福そうだ」と満足気だった。上流階級が来るということは、店の格も上がるというもの。 「それが、お料理もお酒も、おまかせなんです」  それを聞くと、デニスは目の色を変え、アダムの書いた伝票をひったくり、何度も瞬きを繰り返して眺めた。ふう、とため息を吐くと、厨房に向かって真剣な顔で「おまかせだ!」と声を上げた。厨房からは歓声が上がった。戦場のような厨房はますます高揚する。  アダムは見習いのナタリアと目が合った。エプロンはソースで汚れ、額には汗が浮かんでいる。レストランの仕事は体力勝負でもある。青白い顔をして、かなり疲れているはずなのに、彼女がにんまり笑ってアダムに片目を瞑って見せるので、アダムも微笑んで返した。 (僕も頑張らなくちゃ)  アダムが気を引き締めると、ダンテの檄が飛んだ。力強く何度も背中を叩かれる。 「諸君、張り切って腕を振るってくれたまえ!」  これはオーナーにとっても逃してはならない上客だった。なんとしても常連に引き込みたい。 「よし、俺が出よう」  オーナーは嬉しそうに肩をゆすり、姿見で髪や髭を整えた。姿見は料理人や給仕たちが服装の乱れをいつでも確認できるよう、調理場とホールを仕切るカウンターの間に目立たぬよう設置されている。特に給仕の身だしなみについてはクリスが厳しく、父であるダンテを「服装の乱れは、店の品位に関わる」と説得して特注させたのだ。 「どうだ? やり手のオーナーらしいか?」  ダンテが自慢気にアダムに見せると、アダムはくすくす笑いながら曲がったタイを直してやった。  その一連の様子をアランは見逃さなかったが、厳しい目線もほんの一瞬で、ダンテがワインを持って来たときには、社交界の紳士のような顔つきでにこやかに対応した。 「ようこそ、シノミディへ。オーナーのダンテと申します。後ほどシェフにご挨拶させましょう。まずはこちらのワインはいかがでしょう? 私のとっておきのワインです」 「ありがとう」  アランは銘柄を一瞥しただけで、あとは振舞われるまま飲んだ。給仕にはアダムが付き、料理を運んでは空になった食器を下げ、その都度一言二言交わし、食事は穏やかに進む。  最後にデザートが運ばれてくると、オーナー自ら「いかがでしたか」とご機嫌伺いにやって来た。調理場は佳境を迎え、デニスは挨拶どころではなくなってしまった。 「料理はお口に合いましたか?」 「ああ。なんだか懐かしい味がした。郊外にこんなに素晴らしいレストランがあるとは知らなかったよ。ありがとう」 「愚弟のデニスがシェフをしております。彼は若い頃、王宮で修行していましてね。いつか大通りの一等地に店を出すのが夢なんですよ」 「この場所も隠れ家のようで私は好きだが」 「そうおっしゃっていだだけて光栄です」 「彼の給仕も完璧だった。名は……何と言ったかな。近いうちにまた寄らせていただこう」 「アダムですね。申し伝えます。よろしければ、食後は二階のバーでおくつろぎください」  ダンテはアダムを呼びつけると、アランを案内するよう命じた。 「こちらへどうぞ」  アダムはフロアの端にある階段を丁寧に示し、アランを先導した。粗相のないよう、慎重に上っていく。何度か振り返り、彼の足元に注意を払った。つまづいたりしないよう、また、このひと時を惜しむよう、ゆっくりと。  ふと視線に気付き、彼を見る。薄氷の瞳でやさしく微笑まれ、アダムの頬は一瞬で紅潮した。それを隠そうと慌てて前を向く。 (この人が後ろにいるの、なんだか恥ずかしいな……)  アランの視線に頭の天辺から爪先まで甘く痺れ、酩酊したような心地がした。首の後ろも、左の耳たぶも、燃えるように熱い──。  それらを打ち消すように、アダムは一段一段を踏みしめた。

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