13 / 22

第13話

 二階のバーは、レストランの利用客しか入れないようになっており、客同士の待ち合わせや、食後に強い酒を飲みたい客が訪れる。せり出した回廊にはテーブル席もあり、階下のレストランの賑わいを楽しみながら飲むこともできる。  大抵は常連のための場所だから、一度目の来店で通されることはまずない。ダンテはよほど彼をこのレストランの常連にしたいのだろう。そのことにアラン自身も気付いているから、それに相応しい対応をする。  先導するアダムはすっかり緊張していた。クリスの期待、ダンテの重圧、アランの視線。接客のときは自然体を心掛け、程よい緊張感を持っているが、アランを前にすると胸の高鳴りを抑えられなかった。ひたすらに懐かしく、焦がれるような愛おしさ、恋しさが募る。目が合うと心音が鼓膜にまで響くので、より一層集中して周囲の言葉に耳を傾けなければならなかった。  バーカウンターで待ち構えていたティムも、事情は父親のダンテから聞いていた。ティムは三男坊だから、顔繋ぎの意味もあるのだろう。  ティムは父親のダンテと違って、愛想のいい人間ではなかった。まず、表情に乏しい。よほど親しくなければ彼の感情の機微に気付けない。笑いはするし、冗談も言うが、目が笑っていないのでいっそ不気味だ。性格はどちらかと言えば内気な方で、他人と打ち解けるには時間が掛かった。かと思えば、意外にいたずら好きな一面もある。彼なりに他人と接点を持つための方法なのだろう。アダムはそれをわかっているから、微笑ましく見守るし、時にはやり返す。お客様にも気安いといいのにとアダムは思うが、ティムは客相手には必ず一線引いた。冗談のひとつも言わないし、世間話も積極的にしない。生真面目に、黙々と仕事をこなしていく。  休日になると、ティムとナタリア、それにアダムは三人でよく語り合った。ナタリアは何種類ものソースを試作し、ティムはカクテルを作った。三人で飲み食いしながら率直に感想を言い合い、アダムは二人の知識と経験をどんどん吸収していった。  彼らの探求心や向上心はアダムを感心させた。彼らが情熱を込めて作ったものを、お客様(ゲスト)に届けるのが給仕(ウェイター)たる自分の役割なのだと思うと、ますます身の引き締まる思いがした。 (そうだ、仕事に集中しなくちゃ)  アダムはティムに視線で挨拶する。ティムは耳を赤らめたが、平然を装ってアランに声を掛けた。 「ようこそ、アラン様。何を飲まれますか」 「ウィスキーを」 「かしこまりました」  ティムはアダムに酒を用意させた。父親からアランはアダムを気に入っているようだから、接客は彼に任せるよう言い付けられていた。  アダムは慣れた手付きでグラスに氷を入れ、琥珀色のそれを注いでいく。 「どうぞ」 「ありがとう」  アランはそっとグラスに口を付けた。彼の所作は堂々としていて、大人の余裕と貫禄があった。すらりとした長身で、紳士服の下には鍛えられた肉体を隠しているのだろう。立ち振る舞いは優雅で、語り口も穏やか。野性味のある紳士そのものだ。 「君は……アダム、だったかな?」 「はい。アダムと申します」  アダム、とアランは吟味するように呟いた。 「ここは長いのか?」  グラスを傾けながら問う。僅かに溶けた氷がグラスの中で小気味よい音を立てた。上品で色っぽい仕草に、アダムの顔に朱が差した。 「い、いえ……。まだ、ほんの数か月で……」 「そうか。素晴らしい給仕だった。以前はどこへ?」 「さあ……、ええと、どこだったかな……」  アダムは笑って誤魔化した。こういうとき、無意識に首元を触るのが癖だった。火傷痕に触れると不思議と落ち着いた。記憶がないなど、口が裂けても言えない。  アダムが過去のことを話したがらないことを気味悪く思う同僚もいたが、ナタリアとティムは決して悪く言わなかった。むしろこの火傷痕をきっかけに自分たちの生い立ちを話してくれた。  ナタリアの母親は教護院で彼女を出産した。まだ十代も半ばに差し掛からんという幼い身体で出産し、生まれた子供は養子に出された。養親はシェフのデニス夫妻だ。  ティムの一族は移民で、戦火を逃れ、一日一日をどうにか食い繋いでいた。ティム自身、幼いながらに盗みもやったし、饐えた匂いのする残飯やネズミを焼いて食べたことも、一度や二度ではない。人様に言えないようなことをして、どうにか生き延びた。  それを知ったとき、アダムは彼らを眩しく思った。彼らの隣に立つのに相応しい人間になろう、給仕として完璧な仕事をしようと決意した瞬間でもあった。 「──仕事は楽しいか?」  思いがけないアランの問い掛けに、アダムはシノミディの人たちに思いを巡らせた。  ナタリアに「もしかして、その火傷、自分でやったの?」と聞かれ、アダムは答えることができなかった。そんな気もする。でも、やりたくてやったのではないし、誰かにされたような気もした。  結局、上手く答えられなかった。アダムはいつも自分のこととなると言葉に詰まる。  姉弟のように育ったナタリアとティムには共通の思い出がたくさんあった。良いことも、悪いことも。アダムには何もない。それでも彼らはアダムを気味が悪いなどと、陰口を叩くことはしなかった。  ダンテは売上が命だ。そうでなくては従業員を養えないし、元手がなければ可能性に投資することはできない。新しいことに挑戦する一歩すら踏み出せないのだ。  デニスは至高の一品を追求する。食べることは生きることだ。それがどれだけ贅沢なことか、身を以て知っている。  クリスは、給仕はレストランの顔だと言う。その誇りゆえに指導は厳しいが、人格者であり、頼もしい存在だ。  アダムは彼らを尊敬している。一緒に働けることが喜ばしく、光栄だと思うほどに。だからアランの質問に対して堂々と「はい」と答えられることを、誇らしく思った。 「はい、楽しいです」 「今、君は──アダムは、幸せか?」 「はい!」  アランの二つの質問に、アダムは自信を持って答えた。  こんなにも恵まれている。そのことに感謝は尽きない。だから、自分にできることを、与えられたことを精一杯やりたい。居場所を与えてくれた彼らのために。アダムは改めてその思いを強くした。 「そうか……」  アランは、やはりどこかさみしそうに笑った。彼のその微笑を見ると、アダムの胸はぎゅうっと締め付けられる。居ても立ってもいられなくなるような焦燥感に、体が震える。  二人の会話を陰から見守っていたティムは、わざとアダムに仕事を与えた。 「アダム、在庫を見て来て。カンパリが足りない」 「はい」  アヤメは裏の通路へ回った。従業員しか使えない通路だ。バックヤードには倉庫の他、従業員の休憩室や仮眠室もある。  ティムはアランを一瞥し、わざとカウンターから離れ、意味もなく空いたテーブルを拭いたり、椅子を直したりした。アランは一人静かにグラスを見つめている。呆然とグラスを眺めているようにも感じられた。その佇まいには哀愁と、大人の色香が漂っていた。  アダムが戻って来たとき、アランは「また来る」と帰る素振りを見せたので、アダムは残念に思いながらも、ダンテと共に見送った。路地の向こうへと次第に小さくなっていく彼の後ろ姿を見つめながら、どうかまた来てくれますようにと心から願った。 (あの人……もしかして、僕の知ってる人なのかな……)  今度会ったら聞いてみようか──そんな考えも、店内が忙しくなるとすっかり忘れてしまった。  店を閉め、アダムがバーの片付けの手伝いをしていると、ティムが尻をぱんと叩いた。衝撃と驚きにアダムの背筋が伸びる。 「ひっ!」 「はは。また猫みたいに驚いてら」 「やめてって言ったでしょ。次やったら引っぱたくよ」  バーテンをしているときのティムは寡黙で格好良く見えるのに、本性はいたずらっ子の子供のままだ。閉店後のティムは比較的上機嫌で、仕事が終わって嬉しいのか、緊張の糸が解けた喜びなのかはわからない。 「気を付けろよ。さっきのあの客、アダム目当てでまた来るぜ」 「あのお客って?」 「とぼけるなよ。アランとか言う奴だよ。知り合いか?」 「ううん……。また来てくれるかな。いい人そうだったよ」 「そりゃ、お前には善人ぶるさ。好かれたいんだから。振る舞いは紳士だけど、ああいうのは下心があるからなんだよ」  なんにもわかってない、とティムは溜息を吐いた。  彼の心配は、給仕をしていればよくわかる。確かにそういう客は他にもいた。アダムだけではなく、クリスや、女性の給仕にも。そういうとき、クリスが積極的に助けをくれるし、あしらい方を教えてくれる。アダムには何の不安もなかった。 「心配してくれてありがとう。あの人なら、きっと大丈夫だよ。なんだかそんな気がするんだ」  アダムが微笑むと、ティムは「ふうん」とにやりと笑ってモップを掛け始めた。 「あいつに泣かされたって知らねえからな」 「どういう意味?」 「さあね」  したり顔のティムに溜息を漏らし、苦笑する。  アランを思うと、アダムは背筋に電流が走ったような、腹が甘く疼くような感覚がした。彼の唇の感触さえ覚えているような気がする。許されるなら、あの月光のような美しい髪に触れたいと思った。彼の腕に抱かれ、あの雄々しい手ですべてを暴かれ、余すことなく触れられたい──。 (アラン様……)  これが情欲だと気付いたとき、アダムは卑しい自分を恥じた。 「アダム、クリスが呼んでる」 「いっ、今行きます!」  慌てて階下を降りると、アダムは滅多に褒められないクリスに褒めそやされ、ダンテにも労いの言葉を掛けられた。  アダムはほんの少しの小さな違和感を幸福と充実感で抑え込み、その日を終えた。

ともだちにシェアしよう!