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第14話

 路地裏で足を止めたアランは懐をまさぐり、ポケットから真新しい煙草を取り出して火を付けた。溜息を煙と共に吐き出しながら、上手くやれただろうかと冷たい夜空を仰ぐ。煙が風に流れていくのを目で追い、黒く塗りつぶされた空にぽっかりと浮かぶ月を睨めつけた。それもすぐに馬鹿馬鹿しくなり、とんだ八つ当たりをしてしまったと自嘲した。 (月がなぜ私を責める? 私のことも、アヤメのことも知らないのに)  アランは静かにこれまでのことを思った。彼が屋敷の使用人たちを使って調査させた通り、アダムはアヤメに間違いなかった。間違うはずがない。自分が拾い、育て、愛したものを。  嫉妬、憎悪、愛情、失望、自責、罪悪といった幾多の身勝手な感情が彼の中に浮かんでは消えていった。それに飲み込まれまいと抵抗するうち、今度は「なぜ」という疑問符に縛り付けられる。それも時間の経過と共に愚かな自分自身への罰なのだと理解するに至った。そもそもアヤメが嵐の中を飛び出したのは、自分のせいなのだ。  ポケットから金のピアスを取り出した。これを見せれば、何か思い出してくれるのではないかという淡い期待があった。そうでなくとも強引に連れ帰るつもりでいた。彼はアヤメを迎えに行ったつもりだった。アヤメに記憶がないことを知りながら、自分のせいだと責めていながら、なお都合のいいことを夢想せずにはいられなかった。  アヤメがレストランで給仕をしていると知って驚いたのは言うまでもない。連れて帰りたいと思う反面、アヤメの働く姿を一目見てみたいとも思った。  アヤメは──アダムは、生き生きと働いていた。  半生を籠の鳥で過ごしたとは思えぬほどの社交性を身に付け、まったく違和感なく社会に馴染んでいた。  アランはわからなくなった。  奪い去るつもりで連れ帰るはずが、それがアヤメにとって良いことなのか。このまま社会で生きていけるなら、その方がよいのではないか。何がアヤメにとって最善なのかさっぱりわからなかった。このピアスも今の彼には必要のないものだ。それは喜ばしいことでもある。彼が自ら嵌めた枷から逃れ、自由を手にしたということなのだから。  月光の下、アランは再び自嘲した。煙草はどんどん短くなる。手のひらで冷たくなる金の糸も今となっては愛の証などではなく、男の傲慢、その死骸だった。それでも未練がましくアヤメを求めてしまうのは、愛か、執着か。  調査報告の際、ミンは「手放す愛もございますよ」と殊勝なことを言った。離れることも愛だと。しかしそれは彼の経験則に基づくものであって、アランは彼ではない。  アランはやり場のない怒りを抱え、吸い殻を踏みつけた。さっと周囲を見渡し、尾行がないことを確認すると、大通りのホテルまで歩いた。この区画で最も豪華な最高級のホテルだ。 「おかえりなさいませ」  よく躾られたドアマンもホテルマンも、アランの顔を見るなり緊張を走らせるが、顔には出さない。アランは受付を通すことなくエレベーターに乗った。ポケットから鍵を取り出し、基盤に差し込む。ペントハウスのボタンが押せるようになり、エレベーターは鈍い音を立てて最上階へと上昇した。  絢爛豪華なフロアに足を踏み入れたとき、アランは違和感を嗅ぎとった。どうやら先客がいるようだ。ベルトの背に拳銃を差し直し、そっと息を吐いた。  絨毯張りの廊下を進み、自室の扉を開ける。 「──おかえりなさい、兄上。遅かったじゃないですか」  室内のソファーセットには、自分と同じ髪の色をした青年が優雅にティーカップを傾けていた。傍にはミンが控えている。 「アレン……。なぜここにいる」  彼の言葉は、敵意からではない。お前はここにいてはいけない立場なのだという心配からくる言葉であったが、アレンは鼻で笑った。 「別に構わないでしょう。この建物は、代理を通してはいるけれど、僕の所有物です」 「賃料は払っているだろう」 「弟が入っちゃいけませんか? それとも僕がオーナーだから?」 「お前が国王だからだ」 「ご心配には及びませんよ。ミンを連れています」 「全くお前は……」  アランは身に付けていた帽子やジャケットを脱ぎながらソファーに腰掛けた。拳銃を見せつけるようにテーブルへ置く。アレンは相変わらずにこやかで、嫌味も通じない。アランが脱いだものはミンがさっさと直し、新しい紅茶を淹れた。 「それで──用件はなんだ、アレン」 「つれないなあ。せっかく可愛い弟が会いに来たのに」  にっこり微笑むアレンに対し、アランは深い溜息をついた。 「その可愛い弟が危険に遭わないように言っている。用が済んだら帰りなさい」  アレンは飄々としていて毒っ気のない人間だが、冷静、怜悧、なおかつ冷徹な一面を持つ。そうでなくては子供ながらに人を殺すなどしない。幼少時から老成した子供であったが、成長するにつれ内面に年齢が追いついたような青年だ。若く、賢く、危うい。 「国王がわざわざお出ましとは、緊急事態か?」 「いえ、喫緊に何かという訳ではありません。ただのお見舞いですよ」 「見舞い?」  ああ、左肩のことか、とアランが合点するより先に、アレンは揶揄うように笑みを深めた。 「兄上の愛妾のことですよ」  愛妾、という言葉にアランは過剰に反応した。眉間に皺を寄せ、国王──弟に対して、敵意を剥き出しにする。 「アヤメは愛妾ではない。二度とその言葉を口にするな」 「僕とそう歳の変わらない男娼まがいを囲っておいて、何を今さらお綺麗ぶるんです?」 「口を慎め」 「そのお言葉、そのままお返ししますよ、兄上」  二人はしばし睨み合った。傍に控えていたミンは、やれやれと心中溜息を吐いた。 (全く、この兄弟は……)  彼は腕時計を確認し、そっとアレンに顔を寄せ「そろそろお時間です」と言った。 「うん。ミン、あれを渡して」 「かしこまりました」  ミンは懐から二枚の写真をアランに渡した。一枚は男の顔、もう一枚は指輪の写真だった。その指輪を見たとき、アランの心臓はどくんと脈打ち、血液が身体中を巡るのを感じた。 「この写真を、一体どこで……」 「言ったでしょう、お見舞いに来たって」  人懐っこい笑みを浮かべ、アレンは誇らしげに言った。 「兄上がお探しのものは、イヴァンが所有しています。彼と面識は?」 「いいや……。互いに似たような立場だ。面識はないが、名前くらいは知っている程度だな」  イヴァンは地下競売(オークション)の主催者だ。アランと同じく輸入商の看板を掲げる同業者だが、取り扱う商品が異なるので商売敵と言うわけでもない。アランは酒類などの食品や工芸品が中心だし、イヴァンは軍需品を取り扱う。 「私よりもお前の方が詳しいのでは? 軍部の指定業者だろう?」 「ええ。でも、なかなか一筋縄ではいかないんです。イヴァンは下請けのひとつを軍部に仲介しているだけだし、彼らには分派が幾つかあって、階層も多い。うちに出入りしているのはその下層から中層の組織と思われます。組織全体が肥大化しているので、どこまで繋がっているか把握しきれていません。まあ、そのおかげで堂々と摘発できるんですけど」  アレンの話を聞きながら、アランはミンから受けた報告を思い出していた。二次団体、フロント、資金洗浄。なるほど確かに厄介だ、と思考を巡らせる。 「尻尾を掴んでも手足を捥いでも、正体は掴めんということか。よく(ふと)らせたものだ。しかし、なぜこれが見舞いなんだ?」  アランは写真を叩くようにテーブルへ置いた。 「だって、あげたいんでしょ? その指輪。永遠の愛の証に」  茶化すようにアレンが言うと、アランは仏頂面を崩しはしないが、言葉に詰まる。 「あはは、図星だ。兄上って、見掛けによらずロマンチストですよねえ。父上の血かな」 「ならばお前もロマンチストか?」 「僕はロマンチストというより、ドリーマーかな。いつまでも果てのない夢を追いかけてる……」  アレンは八歳のとき、その小さな手で父を撃ち殺した。軍はすぐそこまで迫っている。規律に縛られ慣れた規則正しい革靴の音が自分の心臓と共鳴したとき、引き金を引いた。一瞬たりとも躊躇がなかったと言えば嘘になる。だが、彼らに玉座を明け渡してはならないのだ。自分がやらなければアランがやっただろう。そうしなければ、軍が完全にこの国を掌握してしまう。  アランは一歩遅かった。父の忠実なる側近と共に駆けつけたところで、処刑は済んでいる。アレンは精悍な兄が呆然と父の亡骸を見る姿を愉快に思った。  彼は初めてアランを見たとき、あれこそが自分の兄だとすぐに理解した。母が死ぬまで憎んだ女が産み落とし、父が最愛を注いだ存在。その身を守るために幾重もの嘘を纏って生きた、幻の存在。  窓の外が騒がしくなる。そろそろ終幕の時間だ。 「お二人とも、ながらく父に仕えてくれて、かんしゃします」  あどけない子供の声が、部屋の中に朗々と響いた。 「アレン様、あなたは、あなたは……!」  側近は狼狽した。アランは今にも崩れ落ちそうになるのを堪え、立っているのがやっとの様子だ。アレンは悠々と二人に近づき、まっすぐ側近の元へ向かう。その堂々たる姿は、幼いながらも歴とした王だった。 「ねえ、ホレス。あなたの娘は、いくつになったかしら」 「マ、マチルダに、何を……」 「──やくそくする」  側近の言葉を遮り、銃把を彼に向けた。彼がそれを握ってアレンを撃ち殺すこともできた。  一丁の拳銃は、選択肢だった。 「ぼくが、あなたの娘を、おきさきさまにしてあげる」  アレンはにたりと顔を歪めた。  笑っているのだ。この少年は、父を殺しただけでは飽き足らないと言うのだろうか。  二人のやり取りをただ眺めていただけのアランが、我に返ったようにその銃を奪おうとした。だが、それより先にホレスが覚悟を決めてしまった。  彼はアランを突き飛ばし、アレンからひったくるように銃を奪った。手袋を脱ぎ、汗ばんだ素手で、しっかりとそれを握った。緊張と恐怖で脂汗をかき、肩から息をしながら、銃口を二人の兄弟に向け、後ずさる。アランがさっとアレンの前に出た。ホレスは距離を取りながら王のそばに寄ると、死人の顔を一瞥した。 (なんと嘆かわしいことだろう──)  ホレスは幼い王に目をやった。そうして震える手で、自分の顳顬(こめかみ)に銃口を押し付けた。 「ホレス! やめるんだ!」  制止しようとするアランの手を、幼いそれが引いた。アレンは無表情のままホレスを見つめ続ける。彼の最期の瞬間を記憶に刻み込むために。 「国王陛下、万歳……!」  一発の銃声が響いた。  それがホレスの最期の言葉であった。  戴冠したとき、アレンは決意を新たにした。自分には守らねばならないものがある。 (そのためには、()を捨てる)  「アレン? どうした? ぼんやりしているぞ」 「ああ……。すみません、少し考え事を」  無理に笑顔を作るが、それを感じさせない。よそゆきの笑顔だ。個人としての彼は死んだ。彼は国のために尽くす奉公人になった。父のように傀儡になどならない。その決意と覚悟が、アレンを玉座に縛り付ける。 「そうだ、僕の注文(オーダー)は順調ですか? 今回はどんな石かしら」 「図面はお前が引いただろう」 「僕はアイデアを出しただけですよ。こういうのがいい、って」 「謙遜はいい。素晴らしい出来だと聞いている。予定を繰り上げることもできるが、どうする?」 「手筈通りにお願いします。東洋では『事を急いては仕損じる』と言いますから」 「わかった。すべて陛下の仰せの通りに」  アランは外商を隠れ蓑に運び屋を続けていた。正確には、運び屋をするために外商を始めたと言った方が正しいだろう。兄弟は虎視眈々と来たるべき日に備えていた。  婚外子であるアランは、物心ついたときには三つの名前を持っていた。母からしか呼ばれなかった名前、母以外から呼ばれる名前、そして、その名前が偽名だと露呈したときのための、予備の名前。  士官学校でも身分を偽り、名を変えた。首席で卒業した彼はそのまま王族直属となり、近衛兵として父である王と幼い弟である王子の護衛を務めつつ、作戦があればそられに参加した。諜報、工作、運び屋、暗殺──すべては父のため、国のためにと尽くしてきた。いつか父に認められる日が来ることを願って。  退役して王宮を去った後、彼はアランの名前で外商を始めた。母しか呼ばなかったこの名前を、今では自分に関わるすべての人間がそう呼ぶ。なんと爽快だったことか。彼はようやく本来の自分に戻ることができたと思った。生まれ落ちたときから嘘で塗り固められた人生を、今は堂々と歩める。何も恐れることはなかった。本当の名前を名乗っても、玉座を守るアレンが命綱となってくれる。 (守ってきたものに守られるとは……。あの頃とは逆転してしまったな)  アランは寂しげな微笑を作った。その微笑はやはりアレンに似ている。弟の存在が兄には頼もしくも恐ろしくも思えた。まだ青二才の前途洋々たる若者だと言うのに、諦めねばならないものが多すぎる。 「──さぁて、僕はそろそろ帰るとします。必ず取り戻してくださいね。兄上の愛を」 「努力する」 「弱気だなぁ。兄上らしくない」 「傷心しているだけだ」  アレンが立ち上がると、アランもそれに続き、二人はしっかりと握手を交わした。 「しっかりなさってください。兄上のことは、頼りにしてるんですよ。まだまだ僕のために──国のために、働いてもらわないと」 「ああ。心配かけて済まなかった」 「ミンはしばらく借りていきますね。おやすみなさい」  アレンに続き、ミンが畏まって部屋を出て行った。  一人残されたアランは深く溜息を吐き、ソファに身を沈めた。改めて二枚の写真を見る。 「イヴァン……」  人差し指でひじ掛けを叩きながら、思考に耽る。イヴァンの後ろ盾が軍であれば、彼らの利益はなんだろう。地下競売(オークション)の目的は? 骨董品が彼らを結んでいる? 何のために? 金のため? 何の恩恵が? (マダムに頼むか……)  マダム・シンシアは娼館の他に酒場を経営をしている。酒場はアレンが出資した。屋敷で育てた使用人を送り込み、従業員や客に紛れさせ、情報屋や運び屋として訓練した。  アランはひとり静かに作戦の概要を頭に描いていく。  つい数時間前まで愛に憂い、傷付いていた男は、今やその片鱗もなく全く別の顔をしている。      *  二人はエレベータを待つ間、終始無言だった。エレベータが到着すると、乗り込もうとするミンの手をアレンが引っ張った。 「……戻りたくない」  ミンは腕時計を確認し、では、遠回りして帰りましょうと提案した。夜の街を車で無意味に走ることはままある。アランもアレンも、考え事をしたいときや気持ちを落ち着かせたいときは、わざとそうする。  アレンは溜息を吐いて、自分より少し上背のあるミンの肩に額をくっつけた。  彼がぐずる理由を知っているミンは慰めることなどしない。 「知っているだろう? 僕は今夜、またあの女を抱かなくちゃならない」 「辛抱なさいませ。それも立派なお務めでございます」 「わかってるよ。最低でも二人──いや、三人は産ませる。男でも女でも構わない。丈夫に育てばなんだっていい。第一、なんだってあの女は……。まったく、早くこの義務から解放されたいよ」 「子は授かり物と申しますから」 「ふん。その澄まし顔、ぐちゃぐちゃにしてやる。僕が戻るまで部屋で待っていろ」 「承知いたしました」  ミンは背中にぞくりとするものを感じながら、精一杯の真面目な顔で答えた。長く短い夜への期待に体を熱くさせながら──。

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