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第16話

 グラスを磨いていたアダムは、磨いたものを棚に片付けようとつま先立ちになった。腰の辺りに鈍い痛みが走る。咄嗟に棚に手を掛けてしまったが、少々揺れただけで済んだらしい。 (よかった、割らないで)  静かに息を詰め、ゆっくりと吐いた。自然と頬が緩む。この痛みさえ、アダムには愛おしいものだった。 「アダム、グラスは終わった? ティムを手伝ってくれる?」 「はい」  クリスに言われ、素直に二階へ上がる。ティムは狭いカウンターで酒瓶を並べては、しきりに首を傾げていた。 「ティム、手伝うよ」 「アダム。よかった、おつかい頼まれてくれない?」  あまり表情筋の動かない彼だが、アダムの登場に安堵した様子だった。  最近はこうして頼られることが増えた。そのことが嬉しくて、アダムは満面の笑みを向ける。 「もちろん。どこまで?」 「バックスって店、知ってる? 三ブロック先のバーなんだけど。酒の在庫が足りなくてさ」  アダムはううん、と首を振った。  ティムは「ちゃんと注文したんだけどなあ」と頭を掻き、紙にバーの住所と簡単な地図を描いて酒の名前を列記していった。 「うちで仕入れてる酒は、親父の代から付き合いのあるところなんだけど、店主がいいかげんな人でさ。注文してるのに入荷しないし、頼んでもないもの寄越すんだぜ。困ったもんだよ」 「よくあるの?」 「たまにな。こういうときはバックスで借りるんだ。借りるって言っても、後日同じ酒を買って返すんだけど」 「そういう取引もあるんだ」 「持ちつ持たれつってやつさ。バックスの方が酒の種類は多いし、うちが貸すことは滅多にないけど。あそこは場末の酒場で客筋もおっかないけど、いい店だよ。俺は好きなんだ」 「そうなんだ」 「でも、あの辺は治安が悪いから気を付けろよ」 「うん。大丈夫だよ」 「アダムはとろいからなあ。俺が行けりゃいいんだけど、今日は開店(オープン)から常連の爺さんが来るって言うからさ」 「心配しないで。うんと急いで行って、すぐに帰って来るから」 「市場のときみたいに財布は落っことしても、命は落っことすなよ」 「あはは。そしたら幽霊になって飲みに来るね」 「幽霊って見えるんだっけ? 合図くれる?」 「いたずらしちゃおうかな。ティムのお尻を叩くとか」 「俺はお前みたいに驚いたりしないぜ」  ティムが冗談めかして揶揄い、アダムも軽口を言って返す。こういうやりとりがアダムには本当に楽しかった。  二人は声を押し殺してくすくすと笑い合った。うっかり大声で笑おうものなら、クリスに叱られかねない。 「ついでにバックスで一杯飲んで来たら? うちにない酒もあるし、勉強になるよ」 「ええ? 勤務中だよ。お休みの日に一緒に行こうよ。ナタリアも誘って」 「言ったな? あいつとしこたま飲ませてやるからな。覚悟しとけよ」 「うん。期待してるね。それじゃあ、行ってきまあす」 「ありがとな」  アダムは階下を駆け降り、受付にいるクリスに外出することを伝えた。言いながら、もうタブリエを外し、ジャケットを引っ掴んでいる。 「おつかい? どこまで行くの?」 「はい。バックスまで」  店の名前を出すと、クリスはぎょっとして「バックスだって?」と聞き返した。 「あそこはあんまりお行儀のいいところじゃないんだよ。わかってる?」  クリスときたら、小さな子供が初めておつかいに出されるかのような狼狽っぷりだ。アダムは苦笑しながら「はい。聞きました」と答えた。 「そう。ならいいけど……。まあいいか。店の人はいい人たちだから、よろしく伝えてね」 「はい」 「お客とは口を聞かないこと。うちの客とは大違いだからね。酒なんか絶対貰っちゃだめだよ。後が怖いんだから」 「はい」 「いってらっしゃい。気を付けてね」  クリスに見送られ、アダムはメモを握りしめて駆け出した。ジャケットの懐にはアランから貰った金のピアスが入っている。きっと「アヤメ」のものだったのであろう金のピアスは、金細工の小さな箱の中で眠っている。何度も捨ててしまおうと思った。箱ごと粉々に砕いて、薄汚いどぶ川に投げ捨てることを幾度となく妄想した。それが出来なかったのは、アダムがアランの愛情に縋っているからだ。こんなに憎らしいものなのに、不思議と安らぎを感じる。手離すのが惜しくて、でも身につけたくなくて、せめてもの罪滅ぼしに肌身離さず持ち歩くことにした。  アダムは重怠い腰の痛みのことなどすっかり忘れ、急ぎ足で石畳の路地を駆けて行った。  夕暮れは、すぐそこまで迫っている。    * (ええと……一七三六番地……。あ、ここだ)  メモに書かれた住所と簡易地図を頼りに辿り着いた先は、いかにも下町の酒場と言った風合いの店だった。外から中の様子を伺うと、すでに幾人かの客がいて、店内はそれなりに繁盛していた。アダムはごくりと生唾を飲み込み、店に踏み入る。 「こ、こんばんは」 「あら、いらっしゃい。適当に座って」  両手に空の酒瓶を持った女性がにっこり笑いかけてくる。若く見えるが、落ち着いた色っぽさもある女性だった。 「あの……、シノミディの使いで来ました。このリストのお酒をお願いします」  女はアダムが客じゃないとわかると、ああ、そう、と急に冷たくなった気がした。愛想して損したと思ったのだろうか。それともアダムが緊張しているからそう見えただけだろうか。 「座って待っててくれる? マダムに聞いてくるから。勝手に渡すと大目玉なの」  大目玉、と言った彼女は大げさな表情を作っておどけてみせると、あははと楽しそうに階段を昇り、事務所へ行ってしまった。  アダムは仕方なくカウンターの端に座った。二つ隣に座る初老の男はウィスキーを舐めるように飲んでいる。奥のテーブルでは肉体労働者と思わしき三人組が麦酒(ビール)を飲み、笑い声が絶えない。後ろの席には胡散臭そうな、素行の悪そうな男が二人いたけども、アダムは別段おそろしいと思わなかった。少なくとも、クリスやティムに心配されるようなことは微塵も起こり得ないだろうという気がした。ジャケットの中の宝石箱に触れると、そうした根拠のない自信がみるみる湧いてくる。 (ティムもクリスも心配性だな。そりゃ、市場で財布をすられたり、誰かに後を尾けられたこともあったけど)  ティムの描いた地図だって、人や店の多い安全な道順を描いてくれたのだろう。地図を見ながら、アダムは何度も「こっちを行ったほうが近いはずなのに」と不思議に思った。彼らの信用を勝ち得ていないのだろうか。いや、彼らだって悪気はないのだ。ただ、心配してくれるだけで。 (前にも、そういう人がいた気がする……)  アダムは首の後ろをさすり、記憶を辿ろうとしとた。しかし、彼の思考はすぐに中断させられた。不意に声を掛けられたのだ。 「よう、兄ちゃん。見ない顔だな」  後ろの席にいた二人組の男だった。アダムの心臓は警鐘のように早鐘を打った。激しく脈打つせいで呼吸がしづらい。それでも彼は冷静を装い「おつかいに寄っただけなので」と答えた。発した声の気弱さに自分でも驚いた。 「一杯おごるぜ」 「い、いえ……。すぐに仕事に戻りますから」  男たちは煙草を吹かしながら、そいつは残念だと言って笑った。その意地悪そうな、こちらを卑下しているような視線に既視感があった。値踏みされるような視線だ。アダムは気持ちの悪さと居心地の悪さを感じ、助けを求めるように階段を見遣った。女性の足が見えた。先程の女性が酒瓶の入った木箱を抱えて戻って来たのだ。アダムは彼女に駆け寄り、代わりに木箱を持ってカウンターへ置いた。 「ありがとう。待たせちゃってごめんね。これで全部よ。確認してくれる?」  メモと瓶のラベルを見比べ、アダムは感謝の意を二重に込めてにっこり頷いた。 「はい。間違いなく。ありがとうございました」 「どういたしまして。あなた、シノミディの新人? あたしはマデリン。よろしくね」  赤い口紅のマデリンが懐っこく笑い、右手を差し出した。アダムも反射的に手を出し、二人は握手を交わした。 「アダムです。こちらこそよろしく」  彼女の握手は力強く、やさしかった。初対面にしては気安い微笑だ。こうして客を惹き付けてきたのだろうか。彼女のアダムへの視線は、女給にしては心が通わされすぎているように感じた。  アダムは彼女を嫌だとは思わなかった。下心があるのではなく、純粋にどこかで会ったかしらと声を掛けたくなった。初めて会ったはずなのに、見覚えがある気がしてならない。 「ねえ、一杯飲んでく?」 「そうしたいけど、ティムが待ってますから」 「ふふ。お堅いのね。お店のみんなによろしくね」 「はい。伝えておきます」 「次は飲みに来てねぇ!」  大きく手を振るマデリンに見送られ、アダムは何とか無事に店を出ることができた。達成感による高揚から足取りも軽くなる。空を見上げると、太陽はほとんど沈みきっていて、夜が今か今かと出番を待っていた。 (開店には間に合わないかな。今日は予約が詰まってるのに)  アダムは足を止め、息を整えた。痛くはないが、腰が重い。木箱がいっそう重たく感じる。ふと路地裏が目に入る。来た道を戻るか、冒険をするか。 (近道しよう)  暗く狭い、悪臭のする路地裏を猫のようにすり抜けていく。出口が近づいて来たところで、人影が見えた。嫌な予感がした。戻ろうと後ろを見ると、そこにも人影があり、こちらへ向かって来る。どちらも男の影だ。板挟みにされたアダムは、意を決して出口に近い方の男へ突進しようとした。 「よう、アダム」  名前を呼ばれ、アダムはぴたりと動きを止めた。男は黄ばんだ歯を剥き出しにして、にたにたと笑っている。 「それともアヤメって呼んだほうがいいか?」 「な……ッ!」  その一言に、アダムは身体中が燃えるように熱くなった。 (なんで……どうして知ってるの……? その名前は、あの人が呼ぶものだ。あの人の、あの人の……)  アダムの頭の中が忙しなく回りだす。何かが洪水のように溢れ、渦巻いた。頭痛がする。なぜその名前を、とアダムが問う前に、後頭部に重い衝撃と痛みが走った。瓶の割れる音と冷たい感触、酒の匂いで、殴られたことを理解した。よろめいて片手を壁に押し付ける。木箱は離そうとしなかった。その木箱を取り上げられ、腹を殴られる。息が詰まり、また痛みに呻く。膝を付き、胸ぐらを掴まれ、今度は顔を殴られた。また頭に衝撃が走って、後のことは記憶していない。 (あの人だったらよかったのに)  アダムは自分がアランに殴られ、罵声を浴びせられ、恍惚とする姿を思い描いた。自分を痛めつけ、心を抉り、苦痛を与えるのが彼であったなら、体を重ねるのとは違った幸福感や満足感を得られるだろう。あの人に与えられた苦痛さえ、愛おしいものになる。  アダムの想いとは裏腹に、アランはいつだってアダムを粗末に扱ったりしなかった。丁寧に抱き、求められれば激しく抱いてやるが、彼にはアダムにも自分と同じように求めて欲しいというエゴがあった。アダムはそれを自分がアヤメの代わりだからだと思っていた。 (僕がアヤメだったら……)  ──アダム、起きて。  またあの声がした。アダムはうんざりして耳を塞いだ。暗闇の中、胎児のように縮こまり、眠りに就こうとしている。  ──起きて、ねえ……。 (うるさい、消えろ)  ──起きて、アダム。起きて! (うるさい、うるさい!)  耳を塞ぎ、(かぶり)を振った。  頭の中にまとわりつくアヤメの声が、不快で堪らなかった。

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