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第17話

「起きろ!」  頬を引っぱたかれたことにより、アダムは完全に覚醒した。じんとした痛みが頬から唇へ広がっていく。そこで初めて唇が割れていることに気付き、血の味がすることもわかった。あ、と思うと同時に頭から冷水を浴びせられ、今度は頭の傷口が染みる。なぜ頭が痛むのか、どうして体が動かないのかわからなかったが、ずきずきと激しさを増す痛みが霧中の記憶を呼び覚ましていった。 (ああ、そうか……僕……)  よく見えない視界で周囲を確認する。ふらつく頭で懸命に状況を理解しようとした。見慣れない部屋だ。左目が開きにくく、頭を動かしたことにより全身に痛みが走った。短く呻き、下を向く。縄が食い込んで痛い。そこでようやく自分が椅子に縛り付けられているのだとわかった。  頭が割れそうに痛かった。凝固し始めた血は冷水と共に流れ、項垂れるアダムの髪を男が無理に引き上げた。アダムの顔が苦悶に歪む。霞む視界の中で男と目が合った。髪を掴む男は路地裏で自分を暴行した男で、水を浴びせたのはもう一人の男だった。  また殴られるのだろうか。縄で縛られているから、無抵抗に思う存分殴られるんだろう。そんなことをぼんやりと考えていると、ドスの効いた低い声がアダムの鼓膜に刺さる。 「乱暴にするんじゃねえ! 顔に傷付けやがってクソったれが!」  怒号と共に葉巻の独特な臭いが漂う。白い紳士服に筋骨隆々とした肉体を押し込んだ、禿げ頭の男だ。男は口悪く威張りくさっていたが、アダムの前では幼い子供に話しかけるように猫撫で声を作った。 「ごめんねえ、アヤメちゃん。躾がなってなくて」  気持ちの悪い声に、アダムは身を固くした。その声も次の瞬間には野太い声に変わり、男が顎で指図すると、側近の男がアダムに拳銃を突き付けた。銃声は二発。アダムは反射的に目を瞑った。ぱん、と弾ける音に続き、火薬の匂いがした。薬莢の落ちる音もしっかりと聞き取れた。覚悟した痛みはない。おそるおそる目を開けると、アダムのそばにいた男たちが血を流して倒れていた。頭部を撃ち抜かれた二つの死体は、一目で即死だとわかる。 「これで許してくれるかな。もうちょっと待っててねえ」  男はアダムには気持ちが悪いほどやさしい口調だったが、側近には厳しかった。「さっさと片付けろグズが!」と尻を蹴り飛ばし、数々の罵声を浴びせた。二つの死体は側近の指示により、さらに下っ端が呼ばれて片付けられた。階段からわらわらと数名の男たちがやって来て、アダムは初めてここが二階以上の室内なのだとわかった。部屋に窓はない。天井の作りから見て屋根裏でもなさそうだ。背後がどうなっているかわからない。アダムは古い絨毯の上の椅子に座らされながら、できる限り状況把握に努めた。ついさっきまで生きていた男たちの血液が足元に広がっている。自分もこうなるのかと思うと、寒気がした。  男は相変わらず葉巻を吹かしている。天井には豆電球。部屋の隅には大きな樽や木箱、太い縄に藁くずがある。それ以外に調度品はなく、物置のような納屋のような、殺風景な部屋だ。古臭い部屋は埃っぽく、あまり使われていないことがわかる。  死体が片付けられ、室内に静寂が戻った。アダムは再び項垂れた。古い絨毯に自分の影が落ちる。彼は「自分が死んだら、この絨毯に包まれて燃やされてしまうんだ」と漠然と思った。 「さあて、やあっと二人っきりになれたね。アヤメちゃん」  男は部屋の隅にあったアダムと同じ椅子を持ち出し、向かい合わせになって座った。破顔し、手をすり合わせながら言う。 「おじさんと少しお話しようか。ね?」  ねっとりとした声で喜びを噛み締めるように笑う男に、また悪寒がした。なんなんだ、この気持ちの悪さは。アダムは痛みと疲労、自身の置かれた状況に絶望した。まさかアヤメと間違えられて、こんな目に遭うなんて。  男は懐からレースのついた純白のハンカチを取り出し、アダムの口元をやさしく拭った。殴られたせいで、裂傷した唇は少しの刺激でも痛みを伴う。 「……ッ、」 「おっと。ごめんね、痛かったねえ」  アダムは懐かない猫のようだった。男を見上げる瞳は、憎悪、軽蔑、恐怖、そして怒りに満ちていた。男は背筋がぞくぞくしてますます笑みを深める。 「ねえアヤメちゃん。首の後ろ、どうしたの?」  男は自分の襟首を指で叩いて指示した。火傷痕のことを言っているのだろう。  しかし、アダムは答えない。正確には、答えられない。 「……まあいいや。もしかして、おじさんとアヤメちゃん、うんと昔に出会ってたのかもって思ってね。それが今じゃアランのものだなんて、皮肉だねえ。んふ。アヤメちゃん、かわいいねえ。あの頃に出会ってたら、おじさんがたぁくさん遊んであげたのに」  アダムはぞっとして言葉を失った。また悪寒が肌を走る。 「ま、どうでもいいや。おじさんはねえ、お宝を探しているんだけど」  汚れたハンカチを仕舞いながら、男は勝手に話し始めた。 「そのお宝はねえ、お屋敷に大事に大事に仕舞われていて、だあれも見たことがないんだ」  アダムはなんのことだかさっぱりわからなかった。アヤメに間違われたことと、何が関係しているのだろう。話を聞く気力も抵抗する元気もなく、ただぼんやりと男が話すのを見つめていた。 「噂はあったんだよ。東洋の花とか、門外不出の美だとか、いろいろ。でもそれがどんな宝石なのか、どれくらい大きい石なのか、どのくらいの値打ちがあるのか、指輪なのかネックレスなのか……それともブローチ? ブレスレット? だあれも知らないんだ。ねえ、アヤメちゃん。かしこいアヤメちゃんなら、おじさんが欲しいもの、わかるよねえ?」 「……、ぃ」 「ん~?」 「しら、ない……」 「そうかあ。知らないかあ」  男はアダムを拘束する縄を呆気なく解いていった。アダムにはそこから逃げ出す力がない。手足は冷たく痺れ、強張っていて力が入らない。男を押しのけることも、この場から走り去ることも、出来そうになかった。 「お店を荒らしちゃってもいいけど……。あそこはおじさんも気に入ってるしね。それにあの受付の支配人、あれはなかなか油断ならないよ。あーあ、小さい子がいれば、おじさんもやりようがあったんだけどなあ」  暗にシノミディを人質に取ろうとする男に、アダムは反吐が出そうになった。今すぐこの男を殴り飛ばしてしまいたかったが、身を起こそうとして汚れた絨毯の上に崩れ落ちる。倒れた拍子に背後を観察することができた。扉があった。脱出の目はあると希望は捨てない。が、体は思うように動かない。悔しくて、睨め付けるように男の方に視線を動かした。よく磨かれた男の革靴が目前にあった。これではまるで無様に命乞いをしているかのようで、はらわたが煮えくり返りそうだ。 「ねえ、アヤメちゃん。これが何だかわかるかなあ?」  男も椅子から降り、アヤメの前に宝石箱をちらつかせた。中には大粒のサファイアが光る指輪が入っていた。台座は透かし彫り、オーバルカットのサファイアの周りにはダイヤモンドが散りばめられ、室内の粗末な豆電球でも神々しいまでの輝きを放っている。 「見事だろう? 別名は『聖母の祝福』と言ってね。代々王族に伝わる結婚指輪だよ。石自体は『祝福のサファイア』と呼ばれることもあるけどねえ。これほど大きなロイヤルサファイア、後にも先にも世に出ることはないだろうね」  男は忍び笑いをしながらアダムの手を取り、薬指に嵌めようとしたので、アダムは弱々しく払い除けた。男は肩を竦め、手を出してごらん、とアダムの手にその指輪を乗せた。 「かざして見てごらん」  にんまりと笑った男の顔が気持ち悪い。アダムは訝しがりながらも、素直に男に従った。血と泥に薄汚れた手で、薄暗い電球にかざして見る。傷で汚れたアダムの顔に青い光が映った。男はそれを満足気に見つめる。 「うんうん。綺麗だねえ。アヤメちゃんによく似合う」  男は手を差し出し、指輪を返すように示した。アダムは大人しく指輪を渡した。 「この指輪はね、アランが求めていたものだよ。ほら、夜な夜な晩餐会に出てたでしょ?」 「ばん、さん……、かい……」  その単語を聞いたとき、アダムの心臓は息が詰まるほど大きく脈打った。それに合わせ、頭が痛み出す。額が血と汗に滲んでいく。頭を抱え、床に蹲る。胸が締め付けられる思いがした。虚しく、寂しい気持ちに押し潰されそうだ。待ちぼうけをくらったような、失恋してしまったような、心を撃ち抜かれたような痛みと悲しみ、取り残された寂しさ、不安。 「この指輪は、アランの父親が愛人に贈ったものさ。温室育ちのお坊っちゃまが初めて愛したのは、嫁ぎ先が決まっていたお嬢様でね。彼女は家柄は中の上だけれど、とびきりの美人で、社交界の女神だったのさ。でも幼馴染の許嫁がいたんだ。慎ましく愛し合っていた二人を引き裂いたのが、アランの父親だよ。誰があの男を拒めると思う? この国で一番えらあい王様をさ」  男は皮肉たっぷりに笑い、昔話を始めた。 「昔々、あるところに──……」

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