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第19話

「──誰が渡すものか!」  怒号と共に、陶器の割れる甲高い音が響いた。  また始まった、と使用人の女はげんなりした。この屋敷の主人は夜な夜な虚ろな顔で徘徊する。激昂して喚き散らす夜もあれば、さめざめとしたすすり泣きが止まない夜もある。  おかげで巷では幽霊屋敷と噂されていた。無論、ここに幽霊などいない。いるのは哀れな若い主人ひとりと、それから使用人の女たちだけだ。 (迫真の一人芝居ね)  女は疲労から薄く自嘲した。この屋敷に勤めて半年経つ。暑い夏の盛りに来て、すっかり冬になった。  爛々と輝く鮮やかな世界は冷たく侘しく、惨めに変化していった。彼女は初めこそ狂った主人を恐ろしく思ったが、今では辟易した気持ちと、憐憫の情を持っている。  夢遊病、錯乱、自殺未遂──。この屋敷の主人は狂っていた。正気な時間は長くない。痩せ細った得体の知れない幽鬼であり、魂のない人形であり、物言わぬ子どものようでもあった。  女は主人を落ち着かせるために温かい紅茶を差し入れに行った。  主人──アヤメは大抵それで我に返り、騒いだことを詫びて床に就いた。女は寝具をたっぷり掛け直し、割れた花瓶を片付け部屋を出て行く。  割り当てられた自室に戻ると、このことを手紙にしたためた。宛名は書かない。それが彼女の仕事だった。主人の世話をし、その日彼に起こったすべての出来事を余すことなく書き記す。起床や就寝時間から、体調、会話、食事の内容、気付いたことはなんでも。書いた手紙は洗濯係のマリエラに渡した。その手紙がその後どうなるかは知らない。知らなくてもよいことだと言われたからだ。 「旦那様は、狂人だから隔離されたの?」  年下だが、屋敷では先輩にあたるマリエラに尋ねたとき、彼女は冷たく答えた。 「あんたが知る必要はない。余計な詮索しないで」 「でも、もう半年になるわ。アヤメ様はいつからあの状態なの? 幽霊屋敷の噂くらい、あなたも知ってるでしょう?」 「くだらない。勝手に言わせておけばいい。グレイス、あんたの仕事はアヤメ様の世話をすること。母親のように、姉のように、妻のように。そうでしょ?」 「そりゃ、そのために雇われたし、日誌もちゃんと手紙にしているけど……」  グレイスは溜息を吐き、めずらしく弱音を吐いた。確かに彼を気味が悪いと思うときも恐ろしいと感じるときもあった。しかし今はそれ以上に危惧している。アヤメは近頃、食事もほとんど摂らず、どんどん痩せていく。髪は伸び、白髪も増えた。長い間動き回ることもできなくなっていた。  そのことをマリエラに話すと、彼女は鼻で笑って「手間が掛からなくて丁度いい」と言った。 「暴れるくらいなら構やしないけど、自傷も自殺も、もううんざり」 「あなたは心配じゃないの?」 「心配しても仕方ない。所詮、あたしたちじゃどうにもなんないことなんだから」 「あなたって冷たいんだか利口なんだかわかんないわね。人の心はないの? 給仕係のマデリンとパトリスは、もっとましなことを言っていたわ」 「へえ、なんて?」 「心配ですねって」  それを聞いたマリエラは、癖のある甲高い声で笑った。 「それってあんたに同調しただけでしょ」 「そうだけど……。でも、たくさんお給金をいただいてるし……。力になりたいと思わない?」 「もっと金を積まれたら、心配もしないってわけ?」  マリエラは鋭い視線でグレイスを睨め付けた。  グレイスは首を振って溜息を吐く。 「呆れた。意地悪な人ね。私、病人や怪我人を簡単に見捨てたりなんかしないわよ」 「さすが戦場の看護婦さまだね」 「元、よ。野戦病院も普通の病院勤めも、私には合わなかった落ちこぼれの看護婦よ。ねえ、私たち、はみ出し者同士、仲良くできない?」 「あたしがはみ出し者だって?」 「給仕係の態度を見ればわかるわ。あなたに怯えてるみたいじゃない」 「馬鹿馬鹿しい。おしゃべりの暇があるなら、ちょっと手伝ってよ。アヤメ様はサンドラが見てるんでしょ?」 「ええ。いいわよ。アヤメ様はよく眠っておられるし。サンドラも少し休んだほうがいいわ。朝から働き詰めだもの」 「年寄りは朝が早いからね。おかげで助かってるけど」  言いながら、マリエラは洗濯し終えたシーツの半分以上をグレイスに渡した。アイロンを掛けろと言うことらしい。 「ねえ、私の方が多いんじゃない?」 「気のせいだよ」 「ちっとも気のせいなんかじゃないと思うんだけど」 「うるさいな。あたしが早く終わったら手伝うんだから、いいだろ」 「あなた、ナイフだの鋏だのは器用に扱うくせに、アイロンはからっきしじゃない。今まで何枚焦がしたの?」 「だからあんたに多く渡した」 「ほら! やっぱり私の方が多いんじゃない!」 「くそ、騙したな。性悪女め」 「誰が性悪よ」  二人は言い争いながらも、どこか楽しそうだ。  可憐な乙女の笑い声が慰みのように幽霊屋敷に小さく響いた。  屋敷の使用人はすべて女性で賄われている。若い処女(おとめ)から老女まで、八人の女たちで給仕、洗濯、掃除、主人の世話を助け合いながら行っていた。女だけでは管理が行き届かず、建物はすっかり寂れてしまった。かつて栄華を極めた屋敷は見る影もなく、庭は荒れ、ひび割れた外壁には蔓草が絡んだ。まるでこの屋敷の主人を隠そうとするように。  ある晩夏のことだった。  二人組の男が屋敷に侵入した。盗みが目的だが、見つかれば口封じのために殺しも厭わない手練の泥棒だ。  彼らが息を殺して家探しをしているとき、静寂の中に床を擦る規則正しい音を聞きつけた。 「……なんだ?」 「静かに」  男は指を立て、そっと聞き耳を立てた。  その音は廊下の板を軋ませ、ゆっくりと近づいてくる。彼らは互いに「足音だ」と目配せをし合った。それは殺しの合図でもあった。引きずるような音からして、足が悪いらしい。自分たちには幸運だが、相手には不運であろうことをほくそ笑んだ。  男が足音の主に向かってぱっと懐中電灯を当てる。強い光源に照らされ、痩せ衰えた亡霊が浮き彫りになった。男たちは予想だにせぬ正体に絶叫する。伸びた髪で相貌は判らないが、寝巻きから鎖骨が浮き出て、か細く青白い体は人間味がなく、とても生命あるものの姿とは思えなかった。  幽霊屋敷の噂はここから始まった。  夢遊病で徘徊しているアヤメに仰天した男たちの絶叫に、遠く離れたところでこっそりアヤメを見守っていたグレイスも驚いて悲鳴を上げた。不協和音が屋敷中を震わせ、マリエラがすっ飛んで来て泥棒を退治したのだが「あたし一人で警戒するにも限界がある!」と使わない窓や出入り口は戸板で塞いでしまった。以来、屋敷を施錠していてもアヤメの見張りとは別に交代で不寝番を勤めた。  主人たるアヤメは一歩も屋敷から出ない。日中は部屋に閉じこもるか、コンサバトリーで過ごした。  今でこそ誰の面会もないが、グレイスが使用人として雇い入れられた当初は、複数の面会があった。このこともきちんと記録し、話の内容まで仔細に書き記してある。ナタリアにティム、クリスという友人だ。あの予約が取れないレストランで有名なシノミディの従業員らしい。なぜか彼らはアヤメを「アダム」と呼んだし、アヤメもアダムとして対応していた。アダムと呼ばれるたび、アヤメの顔はほんの一瞬強ばった。  アヤメが面会を拒否するようになり、グレイスが代筆して詫びの手紙を書いて送った。彼らからの手紙は今も届いているが、アヤメの目に付かないところへ隠した。使用人たちで話し合い、その方がいいと判断したのだ。あれがあるとアヤメは怒り、暴れ、悲しみ、ますます狂う。  アヤメが部屋の窓からぼんやりと外を眺めているとき、誰かを待ち侘びているような気がして、グレイスはひどく不憫に思った。彼の待ち人はシノミディの人たちではない。だからこそ混乱し、おかしくなってしまうのだろう。 「風邪をひきますよ。夜は冷えますから」  グレイスはにこやかにアヤメの肩へガウンを掛けた。アランが着ていたものだ。彼女はそのことを知らない。アヤメは肩口から袖にかけてゆっくりとベルベットの生地を撫でた。細い肩が震える。ぼたりぼたりと大粒の涙が垂れ落ちた。  堪えきれず、アヤメは声を上げて泣いた。  翌朝、アヤメは開け放した玄関扉の前にぼんやり突っ立ったまま、遠くの門扉を眺めた。最後の一歩は踏み出さない。左足を引き摺り屋敷中をうろつくことはできても、玄関ポーチへ出ることも青々とした芝生を踏むこともしない。扉を境界に呆然と立ち尽くし、草の伸び切った庭の奥の、蔦の絡む門扉の向こうにないはずの人影を見ようとした。  このときは使用人が話しかけても返答はない。アヤメの意識も魂も、どこか遠くへ連れ去られたようで気味が悪かった。不安定なアヤメが何をしでかすかわからないので、彼の魂が戻るまで使用人たちが交代で見張った。 (アヤメ様は、一体誰を待っているんだろう)  アヤメが待ちぼうけを喰らっている姿は、気味の悪い主人を幼子のように見せた。グレイスは次第にアヤメに同情的になり、より献身的になった。それから、見届けたいと思うようになった。アヤメの待ち人は誰なのか。その人が現れたとき、アヤメが安堵に頬を濡らし、幸福そうに微笑む姿を。 (早くこのお屋敷に──アヤメ様に、平穏が訪れますように)    *  あれはまだ、初夏の頃だった。  アヤメの撃たれた左足は医師によると完全に回復しないらしい。損傷した関節は元に戻らないのだと言う。これで彼は精神的な理由のみならず、肉体的にも屋敷を出ることが難しくなってしまった。  入院当初、アヤメは以前にもまして従順だったが、言葉少なく、誰に対しても壁があるように見受けられた。アランとも幾度となく衝突した。彼を遠ざけ、そのくせ彼が傍にいないとアダムを持ち出して当たり散らした。かと思えば、あの蜜月を過ごした穏やかなアヤメになる。  「──アヤメ、気分はどうだ」 「アランさま」  待ち望んだ声にぱっと面を上げ、アヤメは破顔してアランに手を伸ばした。  アランはベッドに腰掛け、伸ばされた手を取り傷を負った頬に触れた。アヤメは心地良さそうに瞳をとろけさせる。  アヤメが退院するまではミンとロイドを見張りに付け、アランは仕事の傍ら足繁く見舞いに通った。以前、自分も世話になりアヤメに看護を指導した二人を専属にさせ、病室にはなるべく屋敷と同じ環境を用意し、アヤメに配慮したつもりだったが、やはりアランがいなければ完成しないようだ。  アヤメは病院のベッドで初めて目を覚ましたとき、言葉を発することを躊躇った。  どうすれば──どう振る舞えば、彼の傍に置いてもらえるのだろうと思った。アダムの振りでそれが叶うなら、喜んでそうしようと思った。  彼には断片的ながらアダムの記憶があった。  そのことでたびたびアランと口論になった。アヤメにとっては自分ではない誰か、それがアダムだというのに、アランにとっては同じアヤメの体だから理解してやれないでいた。  アダムもお前自身だろうとアランが言うと、アヤメは目を釣り上げて激昂した。 「僕はアダムじゃない!」  その気迫に押され、アランは「済まない」と小さく詫びる。 「しかし、お前の体は──」 「だから、アダムを抱いたの? 僕もアダムも『同じ』だから?」 「アヤメ……」 「僕が……っ、僕が、アダムのなかで、どんな思いだったか……!」  アヤメは声を荒げた。  僕のアランさまなのに。  僕の身体なのに。  アダムが憎い。憎くて、殺してしまいたかった。 「……済まない。軽率な発言だった」  まだ傷の癒えぬ顔を見つめる。左目の腫れは引いたものの、痣はくっきりと残り、唇の裂傷も癒えては出血を繰り返した。  アヤメはこんなぼろぼろの姿だって、本当は見られたくなかった。これがアダムならよかったのにとさえ思う。彼の前では美しい愛妾でありたかった。あんなに撫でるのがお好きだったのに、今は恐々触れられるだけだ。  アランは私のせいで済まないと何度も詫びた。アヤメはそのたびに意地を張り、拗ねた。時にはアランさまのせいではありませんよと慰めたが、彼がこうして後悔と罪悪に苛まれる姿に人知れず悦びを感じていた。  屋敷に戻るとき、アヤメは眠っている間に移して欲しいと懇願した。目覚めたのが病院のベッドの上だったように、次に目が覚めたときは、自分の部屋のベッドがいいと言った。そして、アランがそばにいて欲しいと。  望みは叶えられた。アヤメは鎮静剤が効いている間に屋敷へ移送された。  目覚めたときの匂い、覚えのある天井、握られた手のぬくもり。  アヤメは目覚めたときの幸福が、満ち足りた瞬間が、永遠に続いて欲しいと思った。 「好きなだけ休むといい──」  アランはアヤメを屋敷から出さなかった。アヤメから「外に出たい」と言えば、出してくれただろう。以前のように手を取り、大切に大切に横抱きにして。  ベッドの上で窓の外を眺めながら、アヤメは自嘲した。また逃げ出してしまうと思ったのだろうか。閉じ込められても構わない。アダムに肉体を支配されるくらいなら、この姿のままで構わないから、アヤメを抱いて欲しかった。  アランは傷に障ると言って、いっかな抱いてくれなかった。  傷なんかどうだっていいのに。  早くあなたを刻み込んで欲しいのに。 「疲れたろう。少し眠りなさい」 「アランさま……」  アヤメは熱っぽくアランを見つめ、彼の手を取った。アヤメの精一杯のわがままだった。 「アヤメ……」  アヤメの意図することがわかり、アランは手を離す。 「休みなさい」 「僕は平気です……。傷なんか、」 「だめだ」 「どうして? 僕がアヤメだから? アダムだったら、抱いてくれた?」 「アヤメ!」 「傷が醜いから? 手だって、こんなに荒れて……肌だって、お手入れしてないから、前みたいに……っ」  言葉を詰まらせ、大粒の涙がいくらか痩けた頬を伝う。 「僕は、アヤメなのに……、アダムじゃないのに……」  ぼくはアヤメなのに、このからだは、アヤメではない。  アダムのからだだ。 「焦らなくていい。まずは体を回復させることを考えよう」  アランは震えて泣くアヤメを抱き締めた。  かわいそうに、アヤメは顔の傷は癒えても、足は生涯治らないだろう。引きずって歩けるようになるだけましかもしれない。 (またアヤメに一生消えない傷を負わせてしまった)  アランは彼の頸の火傷痕を未練がましく撫でた。 「済まない……。アヤメ……」  アヤメの黒黒とした扇のような睫毛から涙が一粒、流星のように煌めいた。  屋敷に戻ってからというもの、アヤメは日に日に痩せていった。食も細く、鎮痛剤の量ばかり増える。死のうとしたことも一度や二度ではない。何かに怯えながら手首を切ろうとしたし、首を吊ろうとしたし、支離滅裂なことを喚き、足を引きずって飛び降りようとしたこともある。アヤメは自分の肉体もアランも、アダムに奪われることをいっとう恐れていた。奪われるくらいならこの体ごと使えなくしてやろうと事に及ぶが、結果はいつも中途半端に苦しむだけで失敗に終わる。  松葉杖なしで歩けるようになった頃、ティムやナタリアの見舞いに応じた。シノミディには記憶のことは伏せ、アランへの怨恨による事件に巻き込まれたとし、屋敷で療養させてもらいながら屋敷を管理する仕事を与えられたと話した。  アヤメは彼らにはアダムとして対応した。朧げながらも彼らの記憶はあったし、違和感は本調子ではないのだと言って誤魔化すことができた。  アランの勧めで面会はいつもコンサバトリーで行われたが、アヤメには不快で堪らなかった。アダムの振りをすることだけではなく、この聖域とも言える場所を彼らに差し出すのが、ひどく気持ち悪かった。 「ミートスパゲティの代わりに、ミートパイを作ってきたの。食べられそう?」 「ありがとう」 「傷は薄くなったけど、また痩せたのね。あんまり顔色がよくないわ」 「調子はいい方だよ」 「そう?」  ナタリアがアヤメの前髪を触ろうとするのを「大丈夫」とやんわりとかわした。 「……ゆっくり休んでね。クリスも心配してたわよ。ねえ、ティム?」 「ああ。いつでも戻っておいでって。親父も部屋は空けておくってさ。今は倉庫になってるけど」  冗談のつもりなのだろうが、笑いを誘うティムの目はちっとも笑っていないことを不気味に感じた。お互い様か、とアヤメも笑う真似をした。 「ありがとう。でも……」  この足では、もうあの賑々しいレストランを忙しなく歩いて回ることはできないだろう。アヤメは罰が悪そうに微笑した。  彼らが憎いのではない。いい人だと思う。ただ、屋敷以外の人間に心を許すことがどうしてもできなかった。  アダムのおかげで外の世界を知ることができた。その恩義からこうして彼らに「アダム」として対応しているが、本心ではアダムを憎み、恐れている。自分の人生を、アヤメという生き方を、二度と奪われたくなかった。 「──アダム? 大丈夫か?」 「え……、ああ、はい……」 「今日は帰るか」 「そうね。また手紙を書くわね」 「ありがとう」  玄関口まで彼らを見送ったあと、どっと疲労が押し寄せ、吐き気がした。コンサバトリーだけでなくこの屋敷そのものが彼とアヤメの領域(テリトリー)であり、聖域(サンクチュアリ)だ。 「──アヤメ」 「アランさま……!」  客人が帰り、アランが顔を出した。遠慮して会わなかったと言うが、このところアランは屋敷の中でも忙しそうにしていた。アヤメが左足を引きずって屋敷中探しても、姿が見えないときがある。 「疲れていないか?」 「ええ……」  アランさまこそ、という言葉は飲み込んだ。  アヤメはいつでもアダムに取って代わられる恐怖に怯えていた。アダムの影がまとわりつき、彼が自分の目を塞ぎ、耳を塞ぎ、口を塞ぐのを今か今かと楽しみにしている、そんな気がしてならなかった。  その恐怖もアランが抱いてさえくれれば、きっと消え失せるはずなのに。 「顔色が良くないな。部屋で休もう」 「はい……。すみません……」 「謝る必要はない」  アランはアヤメを横抱きにし、寝室へ運んだ。 「つらくないか」  そう言って、アランはアヤメの体──負荷の掛かる右足の腿やふくらはぎを摩った。下心ではなく、アヤメを気遣ってのことだった。アヤメはその手に触れ、ねだるようにアランを見つめた。  アランはアヤメから体を離し、ベッドの端に腰掛けた。鬱屈を溜め込むように頭を抱えて項垂れる。アヤメには、彼が老人のように老け込んでしまったように見えた。その彼がぼそぼそと呟くように話す。 「……近々、屋敷を離れる。いつ戻れるかわからない」 「──え?」 「一年後か、二年後か……わからない」  アランの声は心底参っていた。平生の雄弁さは微塵もなく、ただただ悲壮に満ちている。 「どうして──」 「詳しくは言えない。私には、やらなければならないことがある」 「アランさま、」  アヤメは震える手でアランの背中に縋った。彼の背中に触れ、確かにぬくもりを感じた。それなのに、ひどく遠く感じる。 「いや……!」  アヤメはゆるゆると頭を振った。嫌だ、その気持ちがアヤメの心を食い破る。また離れ離れになってしまう。 「いやぁ……っ、」  アヤメが泣き出しても、アランは俯いたまま何も語らなかった。縋り付くアヤメを突き放すことも、抱き締めることもしない。  背中から聞こえるアヤメの泣き声に、かつてのアヤメを思い出す。幼い頃のアヤメ。小さな痩せっぽっちのアヤメ。臆病なくせに好奇心旺盛。いとけなく微睡む顔、まあるい頬、明るい笑い声。美しく成長した彼が自分だけに向ける、慈愛の眼差し。 「済まない……」  アランは振り返ることなく立ち上がった。黙って出て行くこともできたのに、未練がそれを許さなかった。追い縋る手を置き去りにするのは自己への罰に過ぎない。身勝手でくだらない、男の矜持である。  アヤメは喉につかえて行き場を失った言葉を嗚咽とともに飲み込んだ。かつてのように「いい子で待っている」と言えたら、どれだけ彼の慰めになったことだろう。    そうして、一年余りが過ぎた。  幽霊屋敷には、狂った主人がいる。  彼は夜になると徘徊し、一人芝居で怒り狂い、怯え、昼間は呆然と外を眺めた。 「アヤメは……いい子で……待っていますから……」  荒んだ屋敷の窓辺から、掠れた歌声のような残骸が風に流され消えていく。

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