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第20話

 幽霊屋敷に久方ぶりに客人が訪れた。  客人と呼ぶには畏れ多く、八人の使用人たちは頭を垂れ、ただただ恐縮する。 「ようこそお越しくださいました」  マリエラの言葉は常と変わらず、ぶっきら棒で愛想がなかった。  客人の青年はちっとも意に介さず、さわやかに笑みを深める。若い声は溌剌としていた。 「やあ。忙しいところ悪いね。すぐ済ませるから。彼の部屋はどこ?」 「ご案内いたします」  アヤメに代わり、マリエラが部屋まで案内する。青年も屋敷のことは理解しているらしい。 「アヤメ様、お客様でございます」  アヤメにはもう起き上がる力もなく、清潔なベッドの上で(くう)を見つめていた。痩せ細り、腕にはいくつもの注射痕がある。こうして栄養を取らねば、彼はもう生きられない。  青年は「失礼するよ」とアヤメに向かって声を掛けた。 「彼と二人きりにしていただけますか。茶も結構。ロイドもいないしね」 「かしこまりました」  マリエラが出ていくのを見届けると、青年はベッドの側へ椅子を寄せ、優雅に足を組んで座った。 「初めまして。アヤメ……でいいのかな」  アヤメは声のする方へ気怠げな視線を向けた。  驚きに僅かに目を見開く。 「ぁ、アラ……」 「はは。僕はアレン。あなたの愛しい兄上ではありませんよ」  青年は愛想良く、にっこりと笑う。  その言葉を聞いた途端、アヤメの瞳に宿った一瞬の灯火はすぐさま消え去った。 「あなたが死にかけていると聞いたから、見舞いに来ました。勝手に死なれては困る。あなたは兄上の大切な人だから」  アレンは一人で勝手に喋り始めた。 「栄養剤はどうです? 軍部が開発したものを改良させたんですよ。おかげでなかなか死ねないでしょうけど」  アヤメはゆっくりと瞬きを繰り返し、顔を戻してまた(くう)を見上げた。  髪の色は同じだが、瞳は違う。雰囲気は似ている。威厳があり、上品だ。でもあの人は彼のような軽薄さも親しみやすさも持ち合わせていない。  アレンは溜息を吐いた。これが兄の愛した人かと思うとぞっとした。自分と同じくらいの年頃の彼は何倍も年老いた屍に見える。 「兄上──アランは、生きていますよ」  ぴく、とアヤメの体が反応する。懐疑と期待、知ることを恐れるような瞳で再びアレンに目を向けた。 「あなたたちを引き離したのは僕です。怨むなら、僕を恨むといい」  アレンは朗々と語り始めた。  アレンが玉座に就いて決意したことは、この国を国民へ返すことだった。民衆は軍の下で飼い殺されるのではなく、彼らの自由と権利のために生きるべきだ。そのために長い時間を掛け、アランの商売を通じて水面下で準備を続けてきた。 「東洋の言葉で何と言ったかな。商は詐なり、諜は卑なり、だっけ。僕は、大義のためなら詐も卑も厭わない」  アレンは長い年月を掛け、軍事政権に対するプロパガンダを行った。大衆に向けたあからさまなものはなく、まずは知識階級や土地の名士、さまざまな分野で活躍する芸術家に働き掛けた。書物や絵画を思想の苗床として利用し、それらの隠語に宝石を使った。 「僕は、民衆が僕を玉座から引きずり下ろすことを何よりも楽しみにしているんだ。そのためには一日も長く生き永らえたい。傀儡でも役に立つことはあるんだよ。軍部(かれら)の抑止にはなる」  残された自分の命を楽しむかのようにアレンは笑った。 「兄上には国外で工作活動をしてもらいました。軍は戦争をやりたがっている。それを回避するために、先に国内で革命に火を付けることが目的です」  アレンは例の手紙を暗号に利用した。軍はもう長くは持たないだろう。新進気鋭の若いマスメディアも育ってきて、軍は今、批判される立場にある。治安は順調に悪化し、市井は荒れている。アランのおかげで妻を亡命させる手筈も整えた。彼の目的は果たされた。後は民衆に賭けることにした。蜂起を信じて。 「つらいのは自分だけだと思わないでね。僕もミンを失った」  そこでアレンはしばし沈黙した。足を組み替え、とにかく、と咳払いをする。 「兄上はいつ戻るかはわからない。まだやることがおありだと言っていたから。大方、因縁の対決でもなさるおつもりなんでしょう」  アレンは退屈そうに頬杖をついた。  妹の復讐をちらつかせ、血を分けた家族はあなただけだ、あなたが頼りだとアランに付け入り動かしてきた。復讐はアレンの目的でも悲願でもない。ただ有能かつ信の置ける腹違いの兄に工作活動をさせるための道具、そのひとつに過ぎない。アランに復讐を唆し、見返りに例の指輪をちらつかせ、利用した。そのことに後悔も罪悪もない。 「僕は指輪に興味がないし、兄上を引き留める理由は、作戦を終えた今、どこにもありません。今は彼の自由意志で残留しています。僕があなたに伝えたいことは二つ。兄上は生きているということ、それから、僕の──国のために、任務を遂行したこと」  すっと立ち上がったアレンは、慈愛を込めてアヤメを見つめた。肉の削げた頬を指先でなぞる。色のない顔、かさついた唇、白髪の多く混じる艶のない髪は伸び、彼の骨ばった手は細く冷たい。  アレンは病床のアヤメに恭しく辞儀をし、手の甲に口付けた。  どうか誇って欲しいと思った。ここまで耐えたことを、国のために尽くしたあなたの最愛を。 「どうか、今一度耐えてください。あの人は必ず帰って来ます。あなたの元へ」  去り際、アレンはこんな独り言を残した。 「僕たち、違う形で出会っていたら、友人になれたかしら」  なんてね、と微笑を残し、名残惜しそうに兄の愛妾から離れた。  アヤメの代わりに使用人たちが丁寧にアレンを見送り、グレイスがアヤメの世話に来た。もう血管も細くなり、注射をするのは難しい。右腕も左腕も痣だらけだ。アレンには死なせるなと強く言われ、全力を尽くすと答えたが、内心は憤っていた。命は自然のものだ。自分にはどうしようもない。アヤメに生きる意思があればまだ望みはあるが、彼はもう生きることをやめてしまって久しい。 「アヤメ様、お加減はいかがでしょうか?」  グレイスは湿らせたハンカチをアヤメの唇に当てた。  アヤメは何か呟いたが、聞き取れなかった。  困惑を笑顔で隠し、励ましの言葉を述べる。 「お疲れでございましたね。アレン様とお話はできましたか?」  彼女の優しい声色を聞きながら、アヤメはぼんやり天井を見つめた。  昏い瞳は潤み、微かな光が宿っている。  ──あの人は、生きている。    *  長く侘しい冬は終わりを迎えた。屋敷に春が戻って来た。  アヤメはすっかり起き上がれるようになった。今では使用人に支えられ、自室から階段を降りることもでき、開け放したドアの前で一人佇むのが日課となっていた。アヤメは健気な忠犬のように、いつ帰って来るともわからぬ主人を待ち続けた。 「一人で、歩く」 「でも……」  この日、アヤメは自室から一人で歩くと言って聞かなかった。グレイスは心配して階段まで付き添った。 「グレイス、好きにさせてやんな。ここはあたしが見てるから、あんたは階段下に回って」 「わかったわ」  グレイスは軽やかに駆けて行った。 「手を離しますよ」  マリエラが声を掛ける。それを合図に、重い左足を一歩前へ。  アヤメは手すりをしっかりと握った。一層重くなった体を引きずり、牛歩のような歩みで階段を一段一段踏みしめる。  額に汗を滲ませ、ゆっくりと漕ぎ出した。ぎこちない歩みは次第にしっかりとしたものへ変化していく。  グレイスはこのときの喜びを、どのように書き記せばいいだろうと思った。生きることをやめようとした彼が、今、確かに一歩を踏み出している。  春が来たのだ。  この屋敷にも、あたたかく輝かしい春が。  アヤメはいつものように扉の前で突っ立っていた。椅子を勧めても座ろうとしない。壊れた人形のように、左足のせいで歪な立ち姿のまま、外の景色を眺めた。  扉の向こうに人影が見える。  山高帽を目深に被る男だ。短い髪は帽子に隠されていて髪の色はわからない。首元はスカーフで覆われ、すらりとした長身だが、歩き方に癖があり、傷を庇っているようにも見える。ここからでは顔もわからない。  アヤメは走り出した。  不恰好な、鈍い走り方だ。マリエラもグレイスも目を見合わせた。まさか、そんな、彼が走り出したなんて。外へ出るなんて。  アヤメは足を縺れさせ、倒れそうになっても、突進するように男に向かって一直線に駆けて行った。 「アランさま!」  最後に飛びつくと、男の帽子が舞った。  アヤメを受け止めきれず、男は尻餅を付き、アヤメを庇った。  月光のような髪はすっかり短くなっていた。顔を覆う前髪を後ろへ梳かすと、顔の左半分は醜く焼け、右頬には抉れた傷痕が生々しく残っている。 「アヤメ」  彼を呼ぶ声は、喉が潰れていた。黒皮の手袋をしているが、右手の薬指と小指が欠けている。 「可哀想に……。こんなに痩せて……」  アヤメの瞳に涙が溜まっていく。その一粒が、彼の頬に落ちた。 「髪が伸びたな」  そう言って、男は白髪の混じるアヤメの襟足を愛おしげに撫でた。 「苦労させて、済まなかった」 「アランさまだって──」  もっと他に言うことはないのだろうか。  こんなに傷だらけで、自分のことは構わないとでも言うのだろうか。  アヤメは急に胸がくすぐったくなって、ふふ、と頬を緩めた。 (この人はいつもそうだ。いつだって、僕のことばかり) 「おかえりなさい、僕のアランさま」 「ただいま、私のアヤメ」  二人は目を潤ませ、今ここに確かに存在する愛をよろこんだ。

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