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次の日。
今日のシフトも閉店まで店長と同じだった。朝から昼に掛けては時間帯責任者の出来るベテランのパートさんが入るので、必然的に店長や俺は午後からの出勤が多い。と言っても店長は店長なので事務作業などもあり、繁忙期やピーク時以外はバイトに持ち場を任せて事務所にいることがほとんどだ。
今日も何事もなく一日を乗り切り、閉店作業のためにバックヤードでやたらと重いゴミ袋を裏に運んでいると、事務所の開けっ放しのドアからひょろ長い腕が伸びて中から店長が顔を出した。
「店長」
「ああ、やっぱり鈴木くんだ。ねえ、今日この後どう?」
それはこの人がいつも飯に誘う時の文句だ。持ち上げていたゴミ袋を置いて立ち止まる。
「昨日も行ったじゃないですか」
「そうなんだけどさ、今日はちょっと行きたい店あって。付き合ってよ」
店長と二日続けて飯に行くのは初めてだったが、帰ってもシャワーを浴びて寝るだけなので断る理由もなく、俺は頷いた。
「いいですよ」
「やった。じゃあまた後で。締めよろしくね」
その後閉店作業を終えた俺は着替えを済ませ、休憩室でスマホをいじりながら店長を待った。店長は少し仕事が残っているらしく、先ほど事務所にタイムカードを切りに行った時にはまだパソコンの前に座っていたので少し掛かるだろう。それから十分ほどすると着替えを済ませた店長が事務所から姿を現した。チンピラか韓流アイドルくらいしか着ないような幾何学模様の半袖シャツを着ている。
「ごめんごめん、お待たせ」
セコムを掛けて二人で店を出ると、むわりと湿気を含んだ空気が俺たちを出迎えた。風がないせいで立っているだけで汗が滲むほどで、ウインドブレーカーを着たことを後悔するこの蒸し暑さは例年通りの六月ではあり得ない気温だとネットニュースでやっていた。
「うわ、暑いな。もう十時回ってんのに――あ、ちょっと待って」
一日店の中にいると分かんなくなるなあ、と言いながらシャツの襟元をバタバタさせている店長を横目に自転車を取りに向かうと、後ろから呼び止められる。
「今日《ふか津》行こうと思ってるんだけど、酒飲むなら自転車置いて歩いて行こうよ。帰りは代行で送ってくからさ」
《ふか津》というのはこの店の三軒隣の雑居ビル一階に入っている個人経営の創作居酒屋だ。店のすぐそばなので存在は知っているが行ったことはないし、何より酒に誘われるのは初めてだった。
「酒飲むの珍しいですね」
「まあね。なんとなく飲みたい気分でさ」
俺の家から店までは歩いて二十分程度の距離なのでそれほど苦ではないし、明日は休みだ。明後日は歩いて出勤すればいいかとその提案を受けることにする。
「それなら、まあ」
話がまとまったので俺たちは《ふか津》へと足を向ける。三軒隣なのですぐだ。いつも混んでいる店だが、平日のこんな時間にもかかわらず開け放した引き戸の向こうから紺の暖簾越しにガヤガヤとした声が漏れていた。
「ちょっと待っててね」
店長が暖簾をくぐって中で二、三言葉を交わし、カウンターが空いていると言うのでそのまま中に入る。厨房を囲むL字のカウンターとテーブルが数席の小さな店で、縦長い店内の奥、L字の長辺の端に通された俺たちで満席だ。席に向かう途中で店長がカウンターの中で作業しているいかつい男に向かってひらりと手を上げ、挨拶を交わす。
「知り合いですか」
「うん。店長の安本さん。商店会の清掃活動とかでよく一緒になるんだよね」
その安本さんという人物にちらりと目を向ける。パーマを当てたツーブロックと顎髭のせいで年齢不詳感があるが恐らく三十代半ばくらいだろう。握っている包丁が小さく見えるような日に焼けた筋肉質な腕といい、色白でひょろ長い店長とは対照的な容姿だ。
そんな俺の人間観察はカウンターの中から差し出されたお通しの皿によって中断された。お通しを出してくれた店員に店長が慣れた様子でビールを注文したので俺も慌ててドリンクメニューに目を走らせ、梅酒のソーダ割りを選ぶ。
お通しに手を付ける間もなくジョッキが二つカウンターに置かれた。
「はい、じゃあ、今日も一日お疲れさま」
「お疲れさまです」
いつもはドリンクバーかお冷やで交わされる恒例の音頭と共に、結露のたっぷり浮いたジョッキふたつがガチンとぶつかった。泡がシュワシュワと俺と店長の喉に流し込まれてゆく。一口二口ジョッキに口をつけてから箸を取り、お通しを口に運ぶ。
「あ、うまい」
刻んだ葉わさびが添えられた炙りしめ鯖、胡椒の利いたジャーマンポテト風のポテサラ、長芋の梅和え。細長い皿に少しずつ盛られている三品はどれもうまくて、仕事終わりの空腹も手伝って夢中で箸を動かした。
「よかった。気に入ってもらえて。ここなんでもうまいからさ、好きな物頼みなよ」
そう言って店長はメニューを差し出した。白い厚手の和紙のメニュー表は筆で一品一品説明書きがしてある。
上の一行は赤字で店長おすすめと書き添えられており、見たところ旬のものが並んでいるようだった。鯵の南蛮漬け――新鮮な真鯵を出汁の効いた特製タレで。真蛸のカルパッチョ――瀬戸内レモンとオリーブオイルでさっぱりと。福島の桃と道産モッツァレラ――甘さとまろやかさのハーモニーに黒胡椒と岩塩をピリっと効かせて……等々、食欲を刺激する文が並んでおり、その無骨な筆跡は安本さんのものだろうかと想像し、あのいかつい人が一枚一枚これを書いている場面を思い浮かべてなんとなく微笑ましい気持ちになった。
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