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「昨日のさあ」
こちらを見ないまま店長が呟く。
「昨日のことなんだけど」
胡乱な視線が俺を捉え、焦点を合わせるためかほんの僅かに眇められた。やっぱり一旦水を飲ませた方がいいんじゃないかと思ったが、声を掛ける前に店長が口を開いた。
「一緒にいて気を遣わなくて、性格が良くてかわいい。……思ったんだけど、それって俺じゃない?」
一瞬なんの話だと思ったが、先ほどの「昨日の」という言葉で俺の好みのタイプの話だと分かる。
「はあ? なに言ってるんですか。俺じゃないって」
分かったが意味は分からない。なにが俺なのか。問いただすと店長はグラスを持つ手をくいっと曲げて自分を指した。
「俺ってまさにきみのタイプなんじゃないかと思ってさ。だってほら、きみって俺の前だととても上司相手とは思えない遠慮のなさだし」
なにを言っているんだこの人は。思いながら俺はすかさず否定の言葉を口にする。
「だからそれは、店長の前だけじゃないんですって」
「でも他のスタッフ相手だと必要最低限しかコミュニケーション取らないじゃん。休憩室でもずっとスマホいじってるし」
「それは」
図星なので言葉に詰まる。しかしそれは俺の社交性が皆無なせいであって、そんな人間でも何年もしょっちゅう飯に行ってしょうもない雑談ばかりしていれば少しは素だって出る。
「そして俺はそんな鈴木くんを怒ったりしない優しい上司だし、まあかわいいと言うよりはかっこいいかも知れないけど、まあそのくらいは妥協してもらって……」
「ちょっと、あの」
呆気に取られる俺をよそに意気揚々と続く意味不明な言葉をなんとか遮ると、店長がなんだと言いたげな顔でこちらを見返して来る。なんだじゃない。
「酔っ払って変なこと言うのも大概にしてくださいよ。というかそもそも店長が俺のタイプだったとして――まあ違いますけど、だったとしてどうなるって言うんです」
「昨日きみが言ったんじゃない、彼女がダメなら彼氏だって」
「はあ?」
「鈴木くん、俺の彼氏になってよ」
――ぼと。
今まさに口に入れようとしていた鯵の南蛮漬けが小皿の上に落ちた。
「はあ!?」
鯵を入れるために開いた口が塞がらず、そのまま叫びが飛び出す。幸い店内の喧騒のお陰で他の客からの注目を集めずに済んだが、カウンターの中から店員が一瞬こちらを振り返った。慌てて動揺を取り繕い、信じがたい思いで目の前の男へ視線を向ける。
「……水、飲んだ方がいいんじゃないですか。やっぱり」
なんとか絞り出したのがそれかと思うと我ながら情けないが、その言葉を一蹴するかのように店長は首を横に振った。
「あのさ、言っとくけど酒のせいで出た冗談とかじゃないからね。これを言うために酒の力を借りたのであって、順序が違うから」
「いや、素面で言える冗談じゃないでしょう」
「だから冗談じゃないんだって」
そんなに言うならと店長は烏龍茶を注文し、テーブルに置かれたそれをすぐさまひと息に呷った。
「これ飲み終わったら喋るから、きみは食べてていいよ」
「…………」
小皿に横たわる鯵の揚げたのを取り上げて口に入れる。うまい。次々料理を口に入れていると次第に落ち着いて来たので俺の食い意地も捨てたものじゃないなと思う。あらかた平らげたところで店長が烏龍茶を飲み終え、ふうと息を吐いた。
「まず、俺が彼女作らないって話なんだけど」
「はい」
「ピンと来てないってことは、俺が前にいた店の話知らないんだね」
「なんですか、前の店の話って」
いつだったか店長から前は関東の店舗にいたという話は聞いたことがあるが、彼女云々に繋がるような話は聞いたことがない。
「もう五、六年経つから学生の子たちは流石に知らないけど、パートさんとか長い人は皆なんとなくは知ってるんじゃないかな。俺さ、前の店で女の子に刺されて今の店に飛ばされてきたんだよ」
「え」
「その時付き合ってた相手がちょっと精神的に不安定な人でさ。色々あって別れたんだけど、しばらくして店に包丁持って乗り込んで来て、弾みで腕にそれが刺さっちゃったんだよね。
救急車とかパトカーとか呼んで当時ちょっとだけどニュースにもなってさ。刺された腕は別に大したことなかったし、結局示談にして被害届は出さなかったんだけど。それはそれとして会社からは処分として辞めるか北海道に行くかの二択って言われて、じゃあ北海道でって。
その店は大学出てから本社に配属される前の研修先だったんだ。でもそんなことがあったから当然本社行きもなくなって、辞めてもいいかなとも思ったんだけどね。当時ストーカーみたいになってたその子から物理的に距離おいた方がいいかなと思って、今に至るというわけ」
初耳だし情報量が多い。戸惑う俺をよそに、店長は更に話を続けた。
「まあ決定打はそれなんだけど、そもそも俺って彼女出来てもあんまり長続きしなくてさ。俺は相手がして欲しいこととか言って欲しいこととか察するのが得意な方でいつも色々尽くすんだけど、最終的にはなんでかうまくいかなくなっちゃうんだよね。
幸せにしたくてやってることで相手を辛い気持ちにさせちゃうのしんどいからさ、そういう意味でも女の子はもうやめとこうと思ってて。でもやっぱりひとりってさみしいからバイトの子たちと飯行ったりするので我慢してるんだ。こっちに友達もいないし」
こんな込み入った話を俺が聞いて良かったのかと思わないでもないが、ひとまず店長が彼女を作らないことにしている理由は分かった。が、それとこれとは話が別である。
「それで、それがどうして俺と店長が付き合うって話になるんですか」
「昨日きみに言われて、確かに彼氏っていうのもアリだなと思って」
「いや、そんな理由なら俺じゃなくてもいいでしょ」
「でも俺きみのことけっこう好きだなと思ってさ。今まで同性ってだけで恋愛対象だと思ってなかったけど」
「いやいやいやいや。馬鹿じゃないですか、いきなりそんな」
「ちゃんと本気なんだけどなあ。きみって自分では性格悪いって言うけど真面目で仕事はきっちりやるし、口は悪いけど俺の話いつもちゃんと聞いてくれるでしょ。だから俺きみと話すの好きだよ。あといつも飯うまそうに食うところも」
にっこり笑みを浮かべてそんなことを言われて俺はどうしていいか分からず、じっと見つめてくる目から逃れようとして視線があちこちに泳いだ。こちらを向いた店長と壁の板挟みで心理的にも逃げ場がなく、最終的に斜め下を向いて俯く。
「……困ります。急にそんなこと言われても」
本心から出た言葉だった。店長はなんでもないような顔でつらつら俺のどこが好きだとか言って来るが、自慢じゃないが恋愛経験なんて皆無な俺にこの状況は荷が重すぎる。それが伝わったのか、店長はふっと体から力を抜いた。
「男はどうしても無理とか、そういう理由で困ってるわけじゃない?」
「……それは、分かんないです。考えたこともないし」
少し迷ってそう答えた俺を見て、店長はわずかに目を細めた。
「そこで無理って言っちゃえばいいのに、嘘吐けないんだもんなあ。……まあいきなりそんなこと言われても困るってのは分かるし、まずお友達からって言うのはどうかな」
「……お友達からって、具体的になにをどうするんですか」
「うーん、きみは特になにも。そのままのきみでいてくれたらそれでいいよ。まあ俺のこと好きになってもらおうって主旨なわけだから、今まで通り飯行ったり、あとは休みの日にどこか行ったりとかはしたいけど」
「……まあ、それくらいだったら」
「ほんと? ありがとう」
早い話が根負けしたようなものだが、それでも店長は嬉しそうだった。よせばいいのに大分氷の溶けた泡盛の残りを飲み干して追加でハイボールまで注文する姿を見ながら、俺は昨日の自分の発言を悔いる。
――――こうして、俺と店長は一夜にして上司と部下からお友達という、なんとも言いがたい関係へと変化したのだった。
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