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第8話 遭遇
本格的な梅雨になったからか、毎日がジメジメして鬱陶しい。ついでに言えば、いっちゃんのことが気になって、いっちゃんのことばかり考えてしまう自分も鬱陶しくてしょうがない。
もう少しで夏休みが始まるし、今年の夏はいっちゃんと旅行に行く計画も立てている。ついこの前までは旅行のことを考えるだけでワクワクしていたのに、どうしても素直に喜べない自分がいた。
「はぁ」
それはたぶん、この前のいっちゃんの行動が気になっているせいだ。
先週末、いつもどおりいっちゃんの部屋に泊まった。そのとき、珍しくいっちゃんのスマホに何度も連絡が来ていることに気がついた。たぶんメッセージだったんだろうけど、テーブルの上で何度もスマホが震えるから気になって仕方がなかった。
あんまり震えるから、オレのほうから「オレのこと気にしなくていいから、見ていいよ」って言った。それなのにいっちゃんは「気にしなくていいから」って言って見なかった。あんないっちゃんは初めてだった。
これまでもオレが部屋にいるときに研究室の人から連絡が来ることはあったけど、そういうときは「ちょっとごめん」って言って必ず出ていた。すぐに出られなくても、後でメッセージを見て連絡することだって何度もあった。
それなのに、先週末のいっちゃんはメッセージを見ないどころか、途中でスマホの電源まで切ってしまったんだ。
(あんなことするなんて、変だよな)
電源を切るとき、連絡してきた相手の名前を確認する素振りすらなかった。あれじゃあ、まるで相手が誰なのかわかっていたみたいだ。
(……オレに知られたくない相手だった、とか?)
そんなことを思うたびにため息が出た。気がつけば、あの日のいっちゃんのことばっかり考えている気がする。そのくらい先週末のことが気になってしょうがなかった。
(こんなに気になるのは初めてだ)
いっちゃんには、いっちゃんの付き合いがある。オレが知らない相手だってたくさんいる。研究室の人たちのことも、この前の旅行で初めて知ったくらいだ。これまでだってオレの知らない人と電話しているのを何度も見ているし、誰かと出かけることだってあった。
それでも、こんなに気になったことは一度もなかった。そもそも気になることがあったら、その場でいっちゃんにすぐに聞いていた。
(いつもならそうなんだけど……なんか、聞きづらいんだよな)
もし、オレに隠してる相手だったとしたら……? もし、オレに知られたくないって思っているんだとしたら……? そんなふうに思うと、どうしても聞けなかった。そのせいで余計に気になって、結局この一週間は気になりっぱなしだ。
「はぁ」
「おまえ、ずっとため息ばっかだな」
「なんだよ、悩み事か? 俺たちでよけりゃ聞くぞ?」
「別に、なんでもねぇよ」
「とか何とか言って、マジでため息ばっかじゃねぇか」
「最近、おまえ何て呼ばれてるか知ってるか?」
どうせろくでもない呼ばれ方だろうと思いながら、チラッと向かい側にいる奴を見る。
「絶世のため息王子って呼ばれてるんだぜ?」
「絶世のって……なんだそりゃ」
「だよなぁ? 絶世のを付けるの、おかしいよなぁ」
「絶世の美少女なら、……あー、絶世の美少年なら大正解なのにな」
また美少女って言いやがって。ジロッと見たオレの視線に気づいたのか慌てて訂正したけれど、絶世の美少年ってのもどうなんだと呆れてしまう。
「とにかく圭人 、男子にも噂されてるからな? 気をつけろよ?」
「あー、それなぁ」
「男子がするオレの噂って、どうせろくでもねぇやつだろ」
「っていうかなぁ……」
珍しく歯切れの悪い言葉が気になった。
「なんだよ」
「女子たちの噂はいいんだけどさ。野郎どものは、ちょっとなぁ」
「ちょっとって、なに」
「……気ぃ悪くすんなよ?」
「しねぇから言えって」
数人が視線を交わしたのがわかった。なんだよ、そんなにろくでもない噂が流れてるっていうのかよ。そう思ったら、少しだけ眉が寄ってしまう。
そんなオレの様子に「マジで気ぃ悪くすんなよ?」と念押しした奴が口を開いた。
「あー、その、いまのおまえなら、ちょっと引っ張り込めばヤれんじゃねぇの、という噂があってだな」
「……なんだそれ」
あまりの内容に、ますます眉が寄った。
「さすがに俺たちもどうかと思ってんだぜ?」
「夏休みが近いから、焦ってる男どもの八つ当たりみたいなもんだろうけどさ。ため息王子とか言われて、おまえ、女子大生どころか周辺の女子高生からもすンげぇ注目されまくってるからなぁ」
「電車に乗りゃ通勤途中のお姉さんたちにも見られまくってんじゃん? そういうの、やっかんだ奴らが流してる噂だとは思うけどさ」
「一応、気をつけろよ? 中にはおかしなこと考える奴がいるかもしれねぇし」
「……はぁ、ほんとろくでもねぇな」
何人かが「気にするな」と肩を叩いてきたけれど、本当にろくでもない話だ。そんなことに構っていられるほどオレは暇じゃねぇっつーの。
(せっかく夏休みが始まるのに、ますます気が滅入るじゃんか)
まるでいまの空と同じだなと思いながら、窓の外のどんよりした曇り空を見た。
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こんなどんよりした気分のときには、やっぱりいっちゃんに会うのが一番だ。そう思って、大学からいっちゃんの部屋に直行することにした。
「つーか、金曜日はいっちゃんちに行くのが当たり前だしな」
毎週末、金曜日はいっちゃんの部屋に泊まっている。だから今日が特別甘えたくなったってわけじゃない。毎週のことだからおかしくはないし、急に行くわけじゃないから迷惑にもなっていないはず。
「……いや、毎週末泊まりに行ってること自体、迷惑かもしんねぇけど」
でも、この前の日曜だって「次の金曜は何が食べたい?」って聞いてくれた。ということは、泊まりに行ってもいいってことだ。昨日だって「明日は何時に来られそう?」ってメッセージが来た。だから迷惑じゃない……ってことにしておこう。
そんなことを考えながら、いっちゃんの部屋があるアパートのエントランスに入った。そのまま階段前を通り過ぎて郵便受けに向かう。
いっちゃんが帰って来るより先にオレが来たときは、郵便受けを確認することにしている。そのくらいしかオレにできることがないからなんだけど、入っているチラシを折りたたむところまでがオレの任務だ。
折りたたんだチラシは、生ゴミを包むのに使う。これはお袋に聞いた方法なんだけど、いっちゃんも「いいね」って同じことを始めたから立派な手伝いだと思っている。
階段の奥にある郵便受けを見たら、ズラッと並んだ郵便受けの前に女の人が立っていた。
(……何してんだろ)
てっきり住人の誰かが郵便受けを確認しているんだろうと思って待っていたんだけど、なかなか退いてくれない。それどころか、ジーッと郵便受けを見たまま突っ立っている。
真ん中あたりに立っているなら横からサッと確認できるんだけど、女の人は壁際のところに立っていた。ちょうどそこにいっちゃんの部屋の郵便受けがあるから、確認しようにも後ろから覗き込むことすらできない。
仕方なく「すいません」と言って、いっちゃんの部屋の郵便受けを確認しようと手を伸ばした。すると、急に女の人が振り返ってびっくりした。
「……あの、何か……?」
今度はオレを見たまま動かなくなった。瞬きすらしていなんじゃないかなってくらいじっと見てくる様子は、さすがにちょっと気味が悪い。人の視線には慣れているほうだけど、知らない人に無言でじっと見られるのは、やっぱりいい気持ちはしなかった。
(っていうか、マジで何なんだよ)
ちょうど身長が同じくらいだからか、女の人の様子がよく見える。黒のロングヘアで清楚なワンピを着た女の人は、ナチュラルメイクで嫌みがないどこぞのお嬢様風な感じだ。
そのお嬢様が、とにかくただじっとオレを見ている。何も言わず睨むでもなく、ただじっと見ているんだ。
(……これ、たぶんやばいやつだ)
オレはどうしてか、そう思った。別に襲いかかってくるわけじゃないし、持っているバッグも小さいやつだから凶器みたいなものが入っているとも思えない。怯える要素なんてどこにもないのに、なぜか首の裏っかわがゾワゾワした。
オレの恋愛遍歴で培 ってきた感覚を信じるなら、これはさっさと郵便受けを確認して逃げたほうがいいやつだ。前にストーカー化した女の子にコクられたことがあったけど、あのときに近い感じがする。
「すいません、郵便受け見たいんで」
そう言ってもう一度手を伸ばそうとしたら、「あなた、もしかして香野 先輩の彼女?」と言われて、さらにびっくりした。「香野 先輩」と口にしたってことは、いっちゃんの知り合いってことだ。
「香野 先輩の部屋を知ってるってことは、そうよね?」
「え?」
伸ばした手の先の部屋番号を見た女の人が、そんなことを言った。ってことは、やっぱりこの女の人はいっちゃんの知り合いってことだ。これまで部屋に来るような知り合いに会ったことはないけすいど、部屋を知っているということはそれなりに親しい人なのかもしれない。
見た感じ、オレより少し年上っぽい感じがする。ってことは、同じ研究室の人の可能性がある。この前の旅行では見なかった顔だけど、全員が来ていたわけじゃないから違うとも言い切れない。
(もし研究室の人なら、変なことは言えないし……)
ちょっと気持ち悪いと思ったけれど、挨拶でもしておいたほうがいいんだろうか。そんなことを考えていたら、女の人が小さい声で「ふぅん」とつぶやいたのが聞こえた。
「たしかに美少女だとは思うけど、でも茶髪で軽薄そうに見えるし、年も随分下に見えるわ」
「は……?」
言われた言葉の意味がわからなくて、ぽかんとした。そんなオレがおかしかったのか、女の人が少し笑ったような気がした。
(……何だよ、急に)
いきなり話しかけられて驚いたけれど、言われた意味がわかってムッとした。そもそも初対面の人に、何でそんなことを言われないといけないのかわからない。
(茶髪で軽薄そうって、なんだよそれ。マジ失礼だろ)
生まれてこのかた髪の毛は一度も染めたことがないし、茶髪に見えるこれは正真正銘の地毛だ。寝癖はひどくて困るけど、天然パーマっぽい髪の毛はいっちゃんも好きだって言ってくれている自慢の髪だった。
それに、今日のファッションはいっちゃんが選んでくれたものだ。そりゃあブーツサンダルとか革のアクセサリーとか男にしちゃあ派手かもしれないけれど、いっちゃんが「よく似合ってる」って選んでくれたものばっかりだ。それを軽薄そうとか、余計なお世話だっつーの。
「あなたみたいな軽薄そうな子は、香野 先輩にふさわしくないわ」
「は……?」
「先輩に彼女がいるらしいって噂は知っていたけど、あなたみたいな女の子のわけないわよね。それとも騙されているのかしら。だとしたら、香野 先輩がかわいそう」
勝手に話し始めたことに一瞬ついていけなかったけれど、「女の子」という言葉にカチンときた。散々美少女と言われてきたオレだったとしても、今日はどこからどう見ても女子には見えない格好をしている。女装しているのならまだしも、いまのオレに「女の子」っていうのはどうなんだ。
それに、女子だと勘違いされたことよりも言われた内容のほうが気になった。どう考えても、いまのは絶対に悪口だ。そもそも「騙されている」とか「香野 先輩がかわいそう」とか、どういうことだよ。
知らない女の人だけど、いきなり悪口のようなことを言われてムッとした。いっちゃんのことをそれなりに知っていそうな口振りからしてやっぱり研究室の人か後輩なんだろうけど、それにしては失礼すぎる。
言われっぱなしが性に合わないオレは、ムッとしたまま女の人を睨んだ。
「あなたこそ、何なんですか」
「あなたには関係ないでしょ」
(関係ないオレに失礼なことばっかり言ってるのは、そっちだよな!)
段々と腹が立ってきた。でも、いっちゃんの知り合いとケンカするわけにはいかない。郵便受けは後で確認すればいいやと思って部屋に行こうとしたら、「待ちなさいよ」と言われて、今度は腕を掴まれた。
「香野 先輩、まだ帰ってないでしょ。まさか、部屋の前で待つつもりなの?」
「手、離してくれませんか」
「あなたみたいな格好の子が部屋の前で待つなんて、迷惑じゃない」
「それこそ、あなたには関係ないですよね」
「香野 先輩の趣味が疑われるでしょ。真面目な好青年の先輩に、変な噂でも立ったらどうしてくれるの」
(本当に何なんだ、この人)
明らかにオレのことをバカにしているような言い方にイラッとした。それに、腕を掴んでいる女の人の爪が肌に食い込んで地味に痛い。オレは腕を振り払うついでに、ギロッと睨みつけた。
「部屋の中で待つから変な噂になったりしないんで、ご心配なく」
今度こそ階段を上ろうと足を踏み出したら、リュックを思い切り引っ張られて足止めされた。びっくりして振り向いたら――バッチーンと、ほっぺたを打たれげしまった。
(…………は? なんでオレ、打たれなきゃなんねぇの?)
女の人に打たれたのは初めてだ。予想外の出来事に声も出ない。
誰かと付き合っていたときだって、打たれたことなんて一度もなかった。オレは恋人のことを一番に思っていたし、打たれるようなことをしたこともない。もちろん、オレが相手を打つなんてことも一度もなかった。
それなのに、こんなふうに初対面の人と修羅場みたいになっている意味が全然わからない。ほっぺたの痛みよりも衝撃のほうがデカすぎて、頭も体も完全にフリーズしている。呆然としたまま女の人を見ていたら、どうしてかものすごい目つきで睨まれてしまった。
(いや、打たれたのオレのほうだし、なんで睨まれなきゃなんねぇの?)
本当にまったく意味がわからない。わからなさすぎて、打たれた左のほっぺたを手で押さえることしかできなかった。
そんなオレの耳に「何してるんだ」って声が聞こえてきた。これは聞き間違えなんて絶対にしない、いっちゃんの声だ。振り向くと、いっちゃんがエントランスに入ってきたところだった。
「いっちゃ……」
「香野 先輩!」
オレが名前を呼ぶよりも先に、女の人が名前を呼んでオレの横を通り過ぎた。チラッと見えた横顔は晴れやかな笑顔で、ついさっきまですごい形相をしていた同一人物だとは思えない。
(……なんなんだよ、あの変わり様は)
いや、オレも何度も見たことがある変身ぶりだから、いまさら驚くほどのことでもないか。それでも「女の人ってマジ怖ぇな」と心底思った。
「一緒に帰りましょうってメッセージ、送ったのに気づいてなかったんですね。先週から何度連絡しても繋がらないし、心配してたんですよ? それに今週は大学でも全然会えなくて、留守電、何度も残しておいたんですけど気づきませんでした? あ! そういえば先輩の研究室、もうすぐ研究発表の時期でしたっけ? じゃあ仕方ないか。そうだ、今日はわたしが夕飯作りますから、ゆっくりしてくださいね」
(は……?)
流れるように話し出した姿に「すげぇしゃべる人だな」と呆気にとられていたけれど、最後の部分にはさすがに引っかかった。
いま、女の人はたしかに「今日はわたしが夕飯を作る」って言った。でも、いっちゃんは先週末と同じようにオレと食べる約束をしている。メニューだって先週のうちに決めてあるし、このあと二人で食材を買いに行く約束もしている。もちろん、そのことも昨日のメッセージでやり取りをしていた。
それなのに、どうして「わたしが作る」なんて言い出したんだろうか。頭をひねっていると、いっちゃんがオレに近づいてきた。
「圭人 、もしかして打たれた?」
「あー、うん、何でかはわかんねぇけど」
ほっぺたを押さえてた左手の上に、いっちゃんの大きな手が被さる。手からもいっちゃんの匂いがするのか、いつものいい匂いがしてきて気持ちがスッと落ち着いた。
「香野 先輩」
女の人に呼ばれて、いっちゃんが振り返った。でもいっちゃんの体はオレに向いたままで、手もオレの手に被さったままだ。それがうれしくて、思わずにやけてしまった。
そんなオレに気づいているのかわからないけれど、いっちゃんの手が少しだけ強くオレの手を握るように触れてきた。そうして小さく息を吐いてから口を開いた。
「何してくれてるのかな」
聞いたことがない声色に、にやけていた口がキュッと引き締まった。いっちゃんが現れてホッとしていたはずの体に力が入る。それに、声を聞いた瞬間全身に鳥肌まで立ってしまった。
いつも聞いている声だけど、いつもとは何かが違う。「お昼ご飯、何食べる?」って聞いてくれるときと同じ口調なのに、どうしてか鳥肌が立つくらい「怖い」って思ってしまったんだ。
「ところで、どうしてここに?」
「香野 先輩、わたし、先輩のことが、」
「好きだと思ってくれるのはうれしいけど、ちゃんと断ったよね? 『きみのことは好きじゃない』って」
「先輩……」
女の人と話している間も、オレの左手はいっちゃんの手に包まれたままだ。いつもならこれだけで安心できるはずなのに、どうしてか鳥肌が立ちっぱなしだった。二人の会話からオレが聞いてちゃまずいってわかったのに、立ち去ることもできない。
どうしていいのかわからなくなったオレは、いっちゃんを見上げた。そうしたら、女の人を見てるいっちゃんの横顔が笑顔に変わったのがわかった。
「あのときは好きじゃないって気持ちだったけど、少し変わったかな」
「先輩」
女の人を見たら、パァッと明るい顔をしている。こういう顔をした女子は何度も見てきたからわかる……これは期待しているときの顔だ。ほっぺたを少し赤くして、キラキラした目で女の人がいっちゃんを見ている。
そんな期待で胸を膨らませている女の人に向けたいっちゃんの声は、やっぱり鳥肌が立つくらい「怖い」って思うような雰囲気だった。
「きみのことは嫌いになった。顔を見るだけで不愉快になる。二度と姿を見せないでくれるかな」
「先輩!」
悲鳴のような女の人の声がした。次の瞬間、左手を覆っていたいっちゃんの手が離れて、代わりにギュッと抱きしめられた。「え? なんで?」っていっちゃんを見上げる前に、いい匂いがブワッと鼻に入ってきて頭がクラッとする。
「僕が大切にしてきた子に、大事なこの子に手をあげるなんて、きみは怖いもの知らずだな。その報いは受けてもらうよ」
いっちゃんが何か言ったような気がするけど、頭がクラクラしてよく聞き取れない。それに今度はゾワッとするような変な感じがして、思わずいっちゃんに縋りつくように腕を掴んでいた。
それでも、何かに肌を舐められるようなゾクゾクした寒気は収まらなかった。ひどい風邪を引いたときみたいな、お化け屋敷にいるときみたいな、腹の底から冷えるような変な感覚だ。
気がついたら、オレは目の前のいっちゃんの肩にぎゅうっとおでこをくっつけていた。そうしていないと立っていられなくなりそうだった。ぎゅうぎゅうにおでこを押しつけながら、両手で必死にいっちゃんの腕を掴み続けた。
「圭人 、もう大丈夫だよ」
いっちゃんの声がして、そっと目を開けた。っていうか、目を瞑っていたことすら気づいていなかった。
「……あれ?」
オレは郵便受けの前に立っていて、オレの隣にはいっちゃんが立っている。でもって、目の前にはオレを打った女の人がいたはずなのに、エントランスには誰もいなかった。
「……あの人は?」
「帰ったよ」
え? そんなにあっさりと? オレを打ったこともだけど、話していた内容からして、そんなにあっさりと帰るとは思っていなかったから驚いた。
ああいう女の人は、思った以上にしつこくて思い込みも激しいんだ。そういう女子に絡まれたことのあるオレには、よくわかる。
「もっと、しつこく食い下がるかと思ったのに」
「彼女は二度と姿を見せないから、安心して」
「オレは平気だけど、いっちゃんは大丈夫なのかよ。あの人、同じ大学院か研究室の人じゃねぇの?」
「同じ大学院だけど、研究室は別なんだ。だから大丈夫」
ちょっと心配になったけれど、いっちゃんが大丈夫って言うなら大丈夫なんだろう。
「それに、もう二度と姿を見ることもないし」
にこっと笑ったいっちゃんから、またふわっといい匂いがした。
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