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第9話 威嚇
大学っていうのは、高校までと違って夏休みが長い。「どんだけ長いんだよ」って突っ込みたくなるくらいには長い。
そんな長い夏休みをバイトに明け暮れるか遊びに使うかは、人それぞれだ。さらに言えば、大型連休と同じように勝手に夏休みを早く始める奴もいるし、夏休みを延長する奴もいる。
オレの周りでは早く始める奴が圧倒的に多かった。おかげで、いつもにぎやかすぎる学食に行っても一人で落ち着いていられる。……と思っていたら、見知った顔が近づいてくるのが見えた。
「あれ、圭人 じゃん。夏休みは旅行だって言ってなかったっけ?」
「それは来月な。それにちゃんと最後まで講義に出ないと、叱られんだよ」
「へぇ~。おまえんとこって厳しいのな」
「叱るのは親父でもお袋でもなく、いっちゃんだけどな」と心の中で答えておく。本当にいっちゃんは真面目だ。
「そっちこそ、去年はもうバイト三昧だったろ?」
「それがさぁ、今日の出欠が単位に響くらしいってグループメッセージが回ってきて、慌てて来たんだよ。ったく、夏休み直前だってのにズリィよな」
「なるほどな。お疲れさん」
そもそも勝手に夏休みにする学生側が悪いんじゃねぇ? なんて思ってしまうのは、オレにもいっちゃんの真面目が移ったってことかもしれない。
「ま、夏休みだからって浮かれてたら危ないかもしんないけどさ」
「危ないって、単位落としそうとか?」
「誰が落とすかよ! そうじゃなくて、ほら、ソウビの白井先輩、ついに大学辞めたらしいからさ」
ソウビのシライ……、あぁ、あの気持ち悪かった先輩か。あと一年ちょいで卒業なのに辞めるなんて、もったいないことをするな。
「ソウビって、大型連休とか夏休みとか長い休み前後で消える学生が多いらしいぜ? ウチもそういう奴が結構いるらしいから、気をつけないとなぁ」
「へぇ」
そういや、一年のときに講義でちょくちょく会っていた奴も、夏休み明けにはいなくなっていた。スキンシップが激しくてちょっとウザいなぁと思っていたから、姿が見えなくなって正直ホッとしたのを覚えている。その後も見かけないから、たぶんあいつも大学を辞めたんだろう。
「それに大学院生の行方不明事件、話題になってんじゃん。K大って結構近いし、ちょっと怖いよなぁ」
「あぁ、なんかネットで見た気がする」
「お嬢様大学院生、突然の失踪! かと思えば、突然戻ってきてからの引きこもり! 夜な夜な近所に響く叫び声は、失踪中のトラウマのせいか!? って、ネットでもワイドショーでも大盛り上がりじゃん? つーか、おまえマジで興味ない話には疎いのな」
「いいんだよ、マジ興味ねぇし」
それにオレはいま、いっちゃんとの旅行のことを考えるのに手一杯なんだ。オレの貯金内で行けるところを探すとなると、範囲が結構狭まってしまう。そうなると選べるプランも限られてくるし、悩ましい限りだ。
(やっぱりオレも何かバイトしよっかな……)
でも、学業に身が入らなくなるからって、いっちゃんにアルバイトもしないほうがいいって言われているんだよな……。
「ま、そんなおまえには慣れてるけどさ。あ、俺今日で講義終わりだから、次会うのは夏休み明けだな。彼女との旅行、楽しんでこいよ」
「よっ、モテキング!」なんて頭の悪い呼び名を叫びながら、見慣れた顔が学食を出て行った。旅行の相手は彼女じゃなくていっちゃんなんだけど、まぁ周りの奴らにイチイチ言うこともないか。
そんなことを思いながら食べ終わったカレー皿を返却口に戻して、オレも学食の外に出た。
「あっちぃ」
建物の外に出ただけで汗が噴き出る。カレーを食べたせいで暑さも倍増だ。
「でも、夏のカレーってうまいんだよなぁ」
学食のもうまいけど、一番はいっちゃんが作る夏野菜カレーだ。スパイシーなのに甘さを感じるのはマンゴーとかリンゴとか果物を入れているからだって知って、「いっちゃんマジすげぇ!」って感動したのは昨年の夏のことだ。あれよりうまいカレーは、いっちゃんが作るトロトロの手羽先カレーしかない。
「ってことは、いっちゃんのカレーが最強ってことじゃん」
いっちゃんのカレーを思い出しながら歩いていたら、「坂上」って名前を呼ばれた。振り返って後ろを見たけど誰もいない。右側にある教育学部棟の周りにも、前方の自販機の周りにも人影は見当たらなかった。
そりゃそうだろう。夏休み直前のクソ暑い昼間に、こんな日陰のない中庭付近に来る奴なんているわけがない。オレだって近道だから通っているだけで、用事があってここにいるわけじゃないんだ。
気のせいかと思って歩き出したら、また「坂上」と呼び止められた。声がした左側を見ると、知らない男が立っている。
「なんか用ですか?」
告白だったらうぜぇな、なんて思ったからか、つい口調がそっけなくなってしまった。っていうか、マジで暑いから用があるならさっさと済ませてほしい。
「……あぁ、やっぱりいい匂いがする」
「ぅわっ!」
何か言った男が急に近づいてきて驚いた。それどころか顔まで近づけてきて、オレの首や肩あたりをクンクン嗅ぎ始めている。思わず数歩後ずさりしたけれど、オレが下がったぶん男が近づいてきて、さらにクンクン匂われた。
「前から気にはなっていたんだ。……やっぱりいい匂いだ」
「ちょっ、匂い嗅ぐとか、何してんだよ!」
いい匂いってカレーの匂いか? それなら学食に行けよと思いながらさらに後ずさったのに、やっぱり追いかけるように男が顔を近づけてきた。オレは内心「キモすぎるだろ!」って突っ込みながら、男の体を両手で思い切り押し返した。
「最近やけにいい匂いをさせてるよな。かわいくていい匂いなんて、最高だ」
少し離れた男が、そんなことを言いながら笑っている。
「はぁ? 何言ってんだ? って、ちょっとあんた、マジ気持ち悪いって!」
「とてもいい匂いなのに、……あぁ、やっぱりうっすらと嫌な匂いが混じってる」
「はぁ!? ちょっと!」
離れていた距離が一気に縮まった。さらに男が首に顔を近づけてきて、ゾワッと鳥肌が立つ。
(このクソ暑いときに鳥肌とか、どんだけだよ!)
後ずさりながら男の顔を見た。見覚えがないから同じ大学の奴なのかわからない。少なくとも同じ講義で見たことはないし、どこかで声をかけられた記憶もない。
それなのに、男は明らかにオレを知っているような口ぶりで近づいてきた。あまりの気持ち悪さにさらに後ずさったのに、それより先に顔が近づいてきて逃げ切れなかった。
「俺が上書きしてあげる。大丈夫、俺だってマーキングくらいはできるから、そんな嫌な匂い、すぐに忘れるよ」
「は? マーキング……って、ちょっと、手ぇ離せって!」
腕を掴まれて、建物の裏に引っ張り込まれそうになった。混乱しながらも、前に聞いた「ちょっと引っ張り込めばヤれんじゃねぇの」っていう、ろくでもない噂話を思い出す。
「は? マジで? あんなろくでもねぇ噂信じてる奴がいるってこと? いやいや、ねぇって。それにオレは男だってぇの!」
掴まれた手を必死に振り払おうとしているのに全然離れない。それどころか、さらに強く掴まれてますます気持ち悪くなった。
「男とか女とか関係ないよ。それにそんないい匂いさせて、それって雌の発情と同じ匂いだよね?」
「はぁ!?」
ちょっと待て、いくらなんでもメスってのはどうなんだ。そりゃあこれまでにも「美少女」って言われることは山ほどあったけれど、メスなんて言われたのは初めてだ。っていうか、その表現は最低すぎるだろ。
(どんだけ失礼なんだよ!)
ムカついて思い切り腕を振ったのに、やっぱり掴んだ男の手は離れなかった。
これは本格的にまずいかもしれない。旅行に行ったとき、いっちゃんに「男同士でも気をつけたほうがいい」と言われたことを思い出す。
(まさかって思ってたけど……)
しかも昼食時の真っ昼間だ。さらに言えばここは大学内で、そんなことろで襲われかけているなんて冗談でも笑えない。
オレは何度も腕を振った。むしろ振り回す勢いで動かしているのに、男の手はまったく離れない。足を踏ん張っても引きずられるばかりで、そんなにいい体格をしているわけでもない目の前の男に、どんな馬鹿力だよと舌打ちしたくなる。
(つーか、マジやばくねぇ?)
このままじゃ、本当にろくでもない噂どおりになってしまう。さすがのオレも身の危険を感じて、助けを呼ぼうと振り返った。すると、ちょうど背の高い男が中庭に入って来るところだった。
「何してるんだ?」
男の声に、腕を引っ張っていた男が立ち止まった。
「嫌な匂いがすると思って来てみれば、もしかして強姦未遂か?」
(…………は? もしかして、オレがされる側に見えてるってことか?)
そう思ったら、咄嗟に首を横に振ってしまっていた。よく考えたらあながち間違いじゃないから、ここは頷くべきだったのかもしれない。でも、それはそれで情けないことで、いまさら助けてくれなんて言い出すこともできなかった。
(男から告白されるだけじゃなくて、強姦未遂の被害者になりかけてるってどんなだよ……)
これまでもいろんな目にあってきたけれど、身の危険を感じるまでのことなんてなかった。シライ先輩に迫られたときも、もう少し気持ちに余裕があった。それなのに強姦未遂に見られるような状況になるなんて、余裕どころかマジで泣きたくなる。
「……この匂いって」
強姦未遂なのかと言った男が、何かの匂いを嗅ぐように鼻を鳴らしている。クンクンとさせながら、腕を掴んだままの男と同じようにオレのほうに近づいてきた。
(っていうか、さっきから匂いって何なんだよ!)
訳がわからなくなってきた。腕を掴んだままの男は手を離そうとしないし、後から現れた男もクンクン匂いながら近づいてくる。まだ後から来た男のほうがまともに見えなくもないが、いまのオレにとってはどっちも危険人物にしか感じられなかった。
これって、もしかしなくても“門前の虎後門の狼”ってやつじゃねぇ? なんて、午前中の一般教養で聞いた言葉を思い出したら泣きたくなってきた。
「やっぱり、この匂い……」
「圭人 」
近づいて来る背の高い男の後ろから、いっちゃんの声がした。パッと視線を向けると、自販機の近くにいっちゃんが立っている。
「いっちゃん!」
一番安心できるいっちゃんの顔が見えて心底ホッとした。一瞬、「なんでいっちゃんがここにいるんだろ」って思ったけど、そんなことはどうでもいい。いまはただ、早くいっちゃんのそばに行きたくてしょうがなかった。それなのに、オレを掴む手は離してくれないどころかますます力が入っていて、掴まれた腕が痛くなってきた。
「あぁ、やっぱり逸朗 さんでしたか」
「あれ? 貴志くん」
え? いっちゃん、そっちの背の高い男は知り合いだったのか?
「あっちは、貴志くんの知り合い?」
いっちゃんが、オレの腕を掴んだままの男を見ている。
「いいえ。敷地内を通り抜けようとしていたら嫌な匂いがしたんで、気になって来てみたら、こうなっていたんですよ」
「たしかに、とても嫌な匂いがする。僕の勘が当たったな。警戒しておいてよかった」
いっちゃんがため息をついた。
「気づいていたんですか?」
「たまに嫌な匂いがしてたから、近くにいるんだろうなとは思ってた。それにこれから長い夏休みだろう? 囲い込もうとするならこのタイミングかなと思って」
「あぁ、なるほど」
いっちゃんと背の高い男が話しているけど、意味はさっぱりわからない。でも、いっちゃんが怒っていることだけはわかった。
だって、いつも笑顔のいっちゃんが全然笑わないんだ。それどころか完全な無表情で、そんな顔をしたいっちゃんはこれまで見たことがなかった。
それに、声だっていつもと全然違う。言い方はいつもと変わらないのに、声は普段よりずっと低くて冷たい感じがする。つまり、いっちゃんはオレが見たことないくらい怒っているってことだ。
(そういえば、最近こんないっちゃんの声を聞いたような……)
そうだ、あのときだ。アパートのエントランスに例の女の人がいたとき、女の人に話しかける声もこんな感じだった。
話し方はいつもと同じなのに、声色っていうか雰囲気みたいなものがまったく違う。むしろ、いつもと同じ口調なのに全然違う声の感じが余計に怖く思えた。
「手を離してくれないかな。圭人 が怖がってる」
いっちゃんの声に、オレのほうがブルッとした。これも女の人のときと同じだ。
オレが言われたわけじゃないのに、どうしてか怖いと思った。すごく静かな声なのに、背筋が震えるくらいゾッとした。
「言うことを聞くとでも? そもそもこの雌、まだおまえのものじゃないだろう?」
「そういう言い方はよくないな。それに、ちゃんと匂いはしている はずだ」
「マーキングしたくらいで所有者面か。そんなの、俺がいくらでも上書きしてやる」
「そういう問題じゃない。それに、匂いに気づいていての行動なら、喧嘩を売っているのと同じことだとわかっているんだろうな」
「そんな古臭い慣習なんか、俺は気にしちゃいない。この雌を気に入った、ただそれだけだ」
二人が何を言っているのか全然わからなかった。でも、腕を掴んでいる男の言葉には腹が立った。さっきまで言い返せなかったけれど、いっちゃんがいるなら話は別だ。
「さっきから人のことメスメスって、あんた頭がおかしいんじゃねぇの?」
「おまえは黙ってろ」
男の言葉に、ますますカチンときた。
「つーか、おまえこそ何様のつもりだよ。手ぇ離せよ。気持ち悪ぃ……、ってぇ!」
思い切り腕を振ろうとしたら、逆に思い切り引っ張られてしまった。腕に気持ち悪い男の指が食い込んでいるような気がして、痛いやら気持ち悪いやらでますますイラッとした。
それにミシッて音がしたような気がする。もしかして筋かどこかを痛めたかもしれない。そう思ったら、ますます腕を掴んでいる男にイラッとした。俺は「離せよ!」って言いながら、もう一度激しく腕を振った。その直後、いっちゃんの声が聞こえてきた。
「いい加減、手を離してくれないかな」
ゾクッ。
聞いたことがないくらい静かな声に、全身に鳥肌がブワッと広がったのがわかった。さっきと同じで決して怒っている声じゃないのに、いまのほうがずっと怖い。いっちゃんに叱られたこともあるけれど、そのときよりずっとずっと怖かった。
……違う。怒られるとか、そういうレベルじゃない。そういう次元では感じられない、もっと別の怖さだ。
「な……」
腕を掴んでいる男が情けない声を出した。こいつも、いっちゃんのことが怖いんだ。そりゃそうだろう。だって、いつも一緒にいるオレですら怖いんだから。
「もう一度言うけど、その手、離してくれないかな」
「ひ……っ」
ようやく男の手が離れた。これでいっちゃんのそばに行けるっていうのに、どうしてかオレの体は全然動いてくれない。早く気持ち悪い男から離れたいのに、気がついたら体がブルブル震えていて一歩も動けなかった。
「逸朗 さん、威嚇の出し過ぎですよ」
「……しまった、うっかりした」
「圭人 くんを前にすると、あなたでもそうなるんですね」
「きみだって相川さんが同じ目にあっていたら、同じようになっただろう?」
「俺は、もっとひどいですよ」
気持ち悪い男の手が離れたことも、いっちゃんと背の高い男が話していることもわかるのに、ほかは何もわからなかった。二人の声はちゃんと聞こえているけれど、まるで英語か何かを聞いているみたいに頭に入ってこない。
それもこれも、訳がわからないくらい怖いからだ。体はずっとブルブル震えたままだし、腹の底からガクガクしている気がする。怖すぎて叫びたいくらいなのに、どこも動かなくてどうしようもなかった。
気がついたら、ボロボロと涙がこぼれていた。いっちゃんの前でも何年も泣いたことなんてなかったのに、知らない人の前で泣いてしまった。そう思ったら情けなくなってきて、ますます涙が出てくる。
「逸朗 さん、後始末は俺がしておきます」
「うん、ごめん」
「いいえ、たまには頼ってください」
「はは、ありがとう」
笑っているいっちゃんが近づいてきた。いっちゃんだってちゃんとわかっているのに、どうしてかやっぱり怖くて、どんどん涙が出てくる。
「怖がらせてごめんね」
「……いっちゃん」
やっと声が出たと思ったけれど、すぐに目の前が真っ暗になってしまった。
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